第7話

 しんしんと降っていた雪が、強い風をともなった猛吹雪に成長している。あり余る力に翻弄された空気が、固く締まった雪の結晶を伴って烈しく戸を叩いていた。無数の冷たい粒子が光を吸い込んでしまい、まだ日も傾いていないのに、ガラスの向こうはイヤになるほど暗かった。

「なんだこの雪は。いつの間にこんなに」

 恭子が駆け寄ってきた。ガラス戸に顔をつけて、大きく目を見開きながら外を見た。

「まずい、これじゃあすぐ積もる。膝までなんかすぐ積もってしまう」

「そうだ、警察を呼ぼう。警察を呼べばいい。どうして気づかなかったんだ」

 田川の提案に、恭子も異論はなかった。幸恵と話したケイタイで、あたふたと緊急番号の数字に触れた。しかし、二人の切実な願いは山を越えることはできなかった。画面は圏外を示していたのだ。

「どうして繋がんないのっ。いま、ユキと話できてたじゃない」

「俺のも繋がらない」

 田川も自分のスマホを取りだしていた。二人は顔を見合わせた。

「きっと、吹雪が邪魔をしているんだよ」

 それが真実であるかのように田川が言った。

 恭子は首を何度も振り、そんなことはあり得ないと自分自身に言い聞かせていた。そして田川の言葉を打ち消すように、老婆に向かって強く叫んだ。

「ならここの電話を使えばいい。おばあさん、電話はどこ、どこなの」

「そったらもんはねえよ」

「ないって、どういうことよ」

「あんのはよう、ほれ」

 老婆が立ちあがって二人のもとへやってきた。そして玄関の外に向かって、顎をしゃくって言った。

「雪だけだあ。もう積もっるべや、のっこしよう。おめえら、ちゃっちゃと雪ばかかねと、{かきを}がくるぞ」 

 恭子と田川は、再びお互いの顔を見合った。やるべきことは一つしかない。二人は急いで外に出た。

 玄関の引き戸を開けた途端、吹きつける大粒の雪が彼らを叩いた。悪意を宿した強力な風が、男女の華奢な身体を押し戻そうとしていたが、傍らに立て掛けてあったスコップを盾にして突き進んだ。

 宿の周囲は、昨夜から老婆が土の地面が露わになるほど丹念に除雪していたが、猛烈な吹雪で積雪はすでにくるぶしを超えて、吹き溜まった個所などはもう膝の辺りまで積もっていた。

 恭子は玄関付近を、田川は昨夜老婆がランプの灯のもとに照らされていた辺りから雪をかき始めた。深山の乾いた冷気でつくられた雪は羽毛のような軽さで、幅広のスコップで持ち上げてもそれほどの力を必要としないが、建物の周囲をすべて除雪するのは容易な作業ではなかった。たった二人の人力では、僅かばかりの範囲を拡げるのが精いっぱいで、費やした時間ほど雪は減っていなかった。しかも、除雪しているそばからどんどん降り積もっているので、どうにも始末が悪かった。

 二人は、はなから車道は無理と諦め、とにかく宿の周囲の雪だけでも除雪し、{かきを}が這い進んでくるのを阻まなければならないと考えていた。

 恭子は力のかぎり、がむしゃらに雪をかいた。息が切れ切れになり、両腕の筋肉がしびれて、肩から背中にかけて鈍い痛みが走っていた。疲れ果てスコップを置いて休もうとするたびに、久志のあの惨たらしい最期が思い出された。骨が砕ける音が耳の奥で鳴り響き、腹部の柔らかい個所をあの汚いスコップで荒々しく掻き回される様が、目を瞑った一瞬まぶたの内側を通過するのだった。

「恭子、恭子」

 田川が叫んでいた。吹雪が視界を遮っているので、彼の姿が見えない。うわずった声だけが響いていた。

「恭子、恭子っ」

 自分を呼ぶ声に異常な響きを感じた恭子は、その場にスコップを置いて、吹き荒れる雪粒を両手でなぎ払いながら田川のもとへと急いだ。

 彼は、スコップを両手で抱きかかえたまま建物の壁際まで後退し固まっていた。なぜそうしているのか、気づくのに時間はかからなかった。

「{かきを}」恭子は呻いた。

 すぐ目の前の小高く積み上がった雪壁の中に、あの大男がいた。{かきを}が、そこの中に大きな丸い穴を開けて立っているのだ。

 唖然とした二人が立ちすくんでいると、{かきを}はその穴の中からスコップを出して、地面の様子をまさぐるように確認していた。

 建物の周りの除雪された空間と、雪が積まれ白い壁となっている境界線付近は、猛吹雪により吹き溜まった新雪が少しばかり積もっていた。{かきを}は、その積もり具合を確かめるように何度もスコップを突き刺した。そして溜まった新雪を静かにすくい取ると、勢いよく空中に投げ飛ばし、そろりと一歩その巨体を前進させた。スコップは続けてさらに前方の新雪を投げ飛ばし、黒く不潔な生き物はまた一歩前進した。

「こっちに来るぞ」

「もう膝のところまで積もってるのよ」

「やばい、どうする」

「どうするって、あいつが入ってこれないように、先に雪をかくしかない」

 建物の壁と{かきを}がいる雪壁の間は、老婆の絶え間ない除雪により九尺以上の間隔があけられていた。しかし降り続く新雪が、その境界線を曖昧なものにしようとしている。{かきを}の一歩一歩の侵略はゆっくりとしていたが、着実に進んでいた。九尺の結界を突き破るのも、雪と時間の問題だった。

「それをかして」

 田川が抱きかかえているスコップを強引にもぎ取ると、それを持って{かきを}のすぐ手前まで行き、その周囲の雪を猛然とかきはじめた。

「そんなに近づいたら、やられるぞ」

「大丈夫よ」

 恭子は{かきを}に接近していたが、あの凶悪なスコップに襲われることはなかった。彼女は知っていた。九尺の間をあけている限り、奴はけっして入ることはできないと。

 ただ夢中になるあまり、時おり、お互いのスコップが接触しそうになることがあった。そのような場合は、恭子が慌てて後ろに退いて距離をとった。{かきを}はその様子を見て、不可解そうに首を傾げるのだ。

「なにしてるのっ、手伝ってよ」

 壁にもたれかかったまま何もしようとしない田川に向かって、恭子は怒鳴った。彼は弾かれたように動きだしたが、その場をおろおろとするだけで、自分が何をしたらいいのかわからない様子だった。

「スコップが、スコップがない」

「玄関の前に私のがある。急いでもってきて」

 田川がスコップを取りに行っている間も、恭子は手を休めずに雪をかき続けた。その甲斐あって、{かきを}は、かくべき雪が見当たらず前に進むことができないでいた。やがて前進を諦めたのか、くるりと背を向けると、積雪の中へ戻ってしまった。

「ふー」

 恭子が、その場にへたり込んだ。顔に吹きつけた雪が体温で溶けて、それが汗と涙と鼻水に混じり、いくつものスジとなって皮膚の表面を流れ落ちていた。

「うわあああ」田川の悲鳴だった。「恭子、恭子っ、こっちだ、こっちに来た」と叫んでいた。

 恭子は休む間もなく走り出した。玄関の前まで行くと、そこで田川が必死になって雪を投げ飛ばしていた。彼の向こうに黒い人影が動いていた。{かきを}だった。

 大男は高く積もった積雪からではなく、ちょうど新雪が膝の高さほどに積もった車道を、かいた雪を頭上に投げ飛ばしながら宿に向かって驀進していた。

「九尺、とにかく九尺以上あけるのよ」

「わかってるよ、わかってるけど、もう勘弁してくれよ」

「だったら、根性かけてやれよ」

 大声を吐き出しながら、二人は無我夢中で雪をかき続けた。

 死に物狂いの甲斐あって、なんとか九尺以上の間隔をあけることができた。大男は、またもや積雪の切れ目で立ち止まり、それ以上進むことができなかった。

「と、とりあえず大丈夫だな」

「そうみたい」

 だが、{かきを}は諦めたわけではなかった。ゆっくりと左右を見回してから、持っていたスコップを足元に深々と突き刺し、もの凄い勢いで境界線上を右に移動し始めた。

「なんだ、逃げていくぞ」

「ちがう、あっちの方は除雪している間隔が狭い。三メートルもない。それに」

「それに、なんだよ」

「すごく積もってる」

 恭子がそう言ったと同時に二人は走り出していた。

 雪の中をラッセル車のようにかき進む大男を追い越して、その場所にたどり着いた。そこは、うず高く積もった雪壁の一部が雪崩のように斜に崩れていた。しかも、風の溜まり場となっているために新雪がより多く積もっている。建物との幅は九尺の間を確実にきっていた。

「早くかいて、早く、早く」

 急かされるまでもなく田川はその吹き溜まった個所に飛び込み、スコップを力のかぎり深く突き刺した。すぐに恭子も加わり二人で雪をかき始めた。しかし吹き溜まりの範囲は想像以上に大きく、しかも崩れた雪が下の方で固く凍りついていたので、二人が焦るほどに除雪は進まなかった。

「雪が固くて、スコップがあがらない」

「{かきを}が来る。早く、はやく」

 後ろを振り向いた恭子は、絶叫に近い叫び声をあげた。

「ほら、来た。きた、きたあ」

 黒いラッセル車が、切りたった雪壁を破壊しながら見る見るうちに近づいてきた。

「うわあ、折れた」

 田川が使っていたスコップが折れた。金属刃と接合している木製の柄の部分が劣化していたのだ。

「ちくしょう、ちくしょう」

 泣きだしながら田川は折れた絵の部分を放り投げ、残った金属刃の部分だけで固く締まった雪の塊を狂ったように突きほぐしていた。恭子は号泣しながら雪を掘る友人の背中を見つめながら、彼を叱咤激励していた。腰ほどあった積雪が削られて低くなってきた。思った以上に捗りだしたので、恭子の手も早く動いた。

 ザクザクと雪塊を切り裂く恐ろしい音が、二人のすぐそばまでやってきた。背後に剣呑な気配を感じながらも、恭子は逃げもせずに雪{かきを}止めなかった。意識を一点に集中しきることが、ほんのひと時でも過酷な現実から逃れる手段となっており、やめるにやめられないのだ。

 あと少し、あと少しという気持ちが彼女の警戒感を狂わせていた。凍った雪の高さがやっと膝までになったとき、背後から覆い被さろうとする殺気を強く感じた。スコップが振り上げられたことを悟り、本能的に首を引っ込めた。次の瞬間、衝撃が恭子の身体を突き飛ばした。

 大男の凶器は、女体の柔らかな血肉を得ることなく空を切った。寸前のところで、田川が体当たりをして逃れたのだった。{かきを}は再びスコップを振り上げたが、それを打ち下ろすことはしなかった。吹き溜まりの箇所は、すでに膝下まで除雪されていたからだ。

「あぶなかった。もう少しでやられていたぞ」

「そうね」恭子は大男の姿を見ないように顔を伏せていた。

{かきを}は、その垂れ下がった不可思議な目で二人をしばし見つめた後、くるりときびすを返し、他に突破できそうな個所を目指して雪をかき始めた。

「ほかの崩れている場所を除雪しないと」

「そうだな」

 それから恭子と田川は、建物の周囲をくまなく除雪する作業に専念した。

{かきを}は、狂気にかられたモグラのごとく雪の中を猛然と掘り進み、その禍々しい巨体をあちこちに出現させたが、二人の努力の甲斐あって、九尺の聖域へと足を踏み入れられることはなかった。天変地異のように降り続いていた豪雪も、いつの間にかその勢いを失い、大きかった雪粒も、わずかばかりの粉雪にまで縮みきっていた。

 宿の周囲を九尺以上の幅をあけながら除雪しきった二人は、小降りになった雪を手のひらにつかまえた。小さな結晶が皮膚の上で溶けていく様子を見て、しばらくは積もりそうもないと判断した。へとへとに疲れ、泥人形のような足取りで建物に戻った。


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