第6話
「うわあわあああ」
慌てた田川は、雪原を掻き毟りながら後ろに逃げた。だが恭子が邪魔になって、それ以上後退することができなかった。
「なにしてるの、よけて」
彼女はのしかかってくる田川を押しのけようとするが、力いっぱい押し返そうとすればするほど、その刺激に反応してまた押し寄せてきた。
「くるな、くるな、わああああ」
「ちょっと、おちつくのよ」
恭子は、喚く田川の頭越しに前を見た。雪中に沈降していたあの男の姿は見えなかった。
しかし雪埃のカーテンの底で不気味に光る赤い瞳を、自分を見つめる赤い視線を、はっきりと感じとることができた。
「立つの、立つのよ、早く」
大声で叫びながら田川の胸ぐらをつかみ、全力で引き上げた。衝撃的な経験が彼女の自我を一時的に壊しかけた。だが友人を安全に導かなければという意識と、友人を理不尽に殺されてしまったという恨みと、なによりもこんなところで死んでたまるかという意志が、迫りくる恐怖との対峙を決断させた。座して死を待つという観念はなかった。さっきまでの怖気は、どこかへ吹き飛んでいた。
「早く立って、早く、早く立て、このやろう」
もたもたと寄りかかってくる田川を、怒声を浴びせながら急きたてた。
「ああ、ああ」
田川の瞳はぐるぐると泳ぎ、意識が四方八方に逃げ回って収拾がつかない状態に陥っていた。
「ほらっ、走って、走れ。うしろを見るな」
そう言い放つと彼女は走った。田川も抜けかけた腰をようやく嵌めこみながら、手足をバタつかせていた。しかし股座まで埋まってしまう積雪に足をとられて、焦る気持ちほど前には進まない。走っているというよりも歩いているのに等しかった。夢の中でもがいているみたいに疲労だけが蓄積していた。
逃げながら、二人は何度も振り返った。スコップが積雪を抉り取る断続音と、空中に巻き上がった雪埃は確実に近づいている。もうそこまできていた。大男が吐き出す息の臭いも届いてきそうだ。田川が数秒前にめり込ませた足跡が、大男の邪悪なスコップによって雪もろとも崩された。
「なんだこれは、夢か夢か、うおおー」
狂ったように喚きながら、田川が信じられない速さで恭子を追い抜いていった。逃げ去る彼の必死の後ろ姿から、地下より接近しているまっ黒の機関車が、もうそこまで迫っているのだと容易に想像できた。
焦りが再び恭子に恐慌をもたらした。あの大男の籠に収まった久志の姿が、吐き気とともに浮かび上がっている。いまにも張り裂けそうな心臓が呼吸を狂わせた。息がつまり、つまった息を無理矢理吐きだしては烈しい疲労に悩まされた。進んでいるのか、その場でただ手足を振り回しているだけなのか、わからなくなっていた。
雪を切り裂く音が、恭子のすぐ後ろまでやってきた。なんとも形容できぬ生臭い臭気が恭子の背中をつつき、足元の積雪が崩れていくのを感じた。半狂乱になった彼女は必死になって田川を呼んだが、その姿は見えなかった。
血泥を背負った人殺しが、冷たい雪の底から、あの赤い眼差しを射つづけていた。その視線を痛いほど感じた恭子は、やがて自分もあの黒ずんだ朱色にとり込まれてしまうのだろうとの絶望感に包まれた。そして重力を失い、奈落の底に落ちていく感覚に気が遠くなった。
「きゃっ」
次の瞬間、恭子は車道になだれ落ちた。
大男のスコップで背中を抉られる寸前に雪原を抜け、背丈ほどの雪壁の上から路上に転がり落ちたのだった。顔面でその辺の雪をかき集めた恭子は、その冷たさに思わず我にかえった。そして本能的にその場で数秒間じっとして、スコップの襲撃も大男の息づかいもないことを確認した。路面の固さを確かめて雪原を脱したことを知ると、なんとか立ち上がり、よろよろと数歩進んだが、すぐにその歩みを止めた。目の前に全身雪まみれになった田川が、何をするでもなく呆然と立っていた。
彼女は話しかけようとしたが、すぐにその言葉を呑みこんだ。田川の顔が石のように固くなり、瞬きもせずに一点を凝視していたからだ。
恭子を見ているわけではなかった。彼の視線は、その向こうにあるものに釘付となっていた。何を見つめているのかを想像するのは、それほど難しいことではなかった。恭子は大きく息を吸い込んだ。そして人生最後の数秒間を味わうかのように、ゆっくりと振り返った。
「ぎゃっ」と唸って、さらにのけ反った。
あの大男が立っていた。いまさっき彼女が雪原から車道に崩れ落ちた、まさにその場所に、黒いボロをまとって仁王立ちしていたのだ。
左右を雪壁に囲まれた大男は、その手にあのおぞましいスコップを持ち、久志の肉と肺腑を背負った籠から生温かな汁を滴らせながら、大きく赤い瞳でふたりをじっと見ていた。
「ばけもの」
気丈な恭子でも、その禍々しい視線に耐えられなくなったので、田川の腕を掴んで走り去ろうとした。しかし、大男の眼差しに魅入られてしまった若者は、生の終わりを直感した弱小動物のように身動き一つできなかった。
「なにしてるの、逃げるのよっ」
凍りついた田川の胸を、力いっぱい叩いてから腕を強く引っぱった。彼女の力を借りて、ようやく足が動いた。
二人は走った。どこへ向かったらいいのか考える余裕もなかったが、しぜんにあの老婆が待つ宿へと逃げていた。途中、足がもつれた田川が何度も転倒するが、その度に恭子が引き起こし、気が萎えて再び座り込もうとする彼を怒鳴つけながら前進した。
死に物狂いで走りながらも、恭子は常に後ろの感覚を鋭敏にしていた。あの大男がすぐ背後に迫っていて、今にもあの鋭利なスコップで、身体中をズタズタにされるのではないかとの強い不安にかられていた。
全力で逃げている途中、恭子は一度だけ振り返った。背後には、彼女を追う大男も尖ったスコップもなかった。降り続く雪のブラインドのずっとむこう、彼女が崩れ落ちた積雪と道路の境界線に、小さく黒い影が立っているのをちらりと見ただけだった。
ようやく宿にたどり着いた二人は、玄関の引き戸を蹴破るようにして開けた。
「たすけてくれ」
中に入るなり田川が叫んだ。誰に言うでもなく、ただ薄暗い空間に叫んだだけだった。
居間には老婆がいた。ルンペンストーブの前に座り、空気口に火箸をつっこんでは、ぐりぐりと中の炎を弄んでいた。
「警察を呼んで、警察。早くしないとあれが」
恭子は靴も脱がずに老婆のもとへ駆け寄った。そして火のついた金切り声を、その皺だらけの耳にぶっかけた。
「{かきを}、か」老婆がポツリと言った。
「えっ」
「{かきを}が来たんだべや」
部屋が静かになった。沈黙の中に、火箸にかき回された炎がぱちぱちと爆ぜていた。
「{かきを}、って何よ」
「あのくそ生意気なあんこ、どした」
久志のことを訊かれて、恭子は息が詰まった。つい先ほどの、あの凄惨な場面が思い出され、どう答えてよいかわからなかった。
「{かきを}に背負われたか。剣先で突っつかれて、あの小汚ねえモッコによ」
「あの大男のことをいってるの。知ってるの、なんなのよあれは」
老婆はすぐに答えなかった。年季の入った皺顔が、空気口からの炎を受けてほんのりと赤く染まっていた。
「友達が殺されたんだよ、あの男に。スコップで何度も何度もぐちゃぐちゃに。ここにもくる。すぐ来るわ」
そうして私たちも殺されてしまうと言おうとした。恭子でなくても、そういう結論に達するだろう。
「すぐなんか来ねえ」
だが、老婆は即座に否定した。
「どうしてっ」
「{かきを}は、雪ばかかねえと来れねえんだ。はっちゃこいて雪ばかいてかいて」
老婆は恭子の顔を見上げた。その目は炎の反射を受け続けたためか、赤黒く充血していた。
「か、かいてなによ」
「しまいに人ばかくんだ。そしたら、たごめてモッコの中だ」
たごめて、という言葉と血みどろになった久志の無残な姿が交錯した。腹の底にわだかまっていた、どろどろと汚らしいものが炸裂した。駆け上がってきた吐き気と悪寒を振り払うために、恭子はしゃべり続けるしかなかった。
「うっさい、だまれ。なに訳のわかんないこと言ってんだよ。友達が殺されたんだ。{かきを}{かきを}って、いったいなんだよ。あれは人間か、それとも」
怒鳴り続ける恭子の身体から、大きな音が唐突に鳴りだした。驚いた彼女は、その場で飛び上がってしまった。
音はありふれた童謡を簡易なメロディーにしたもので、恭子が自分のケイタイに設定していたものだ。それは上着のポケットから鳴っていた。着信音だと気づいて、ポケットから慌てて取りだした。
しかし動揺した手におとなしく収まることはなく、それは左右の手の平を交互にお手玉して畳の上に落ちた。拾おうと屈んでは蹴とばし、掴もうとしては滑り落とし、苦労してようやく手にすることができた。急いで画面に触れて、耳に押し当てた。着信画面を確認する余裕はなかった。
「だれ、だれさ」
「ヘンな人が、変な人がこっち見てるの」
その声をきいて、はっとした。電話をかけてきたのは幸恵だった。彼女は離れにある露天風呂に一人で入浴している。
「ぼろぼろの黒い服着た、すっごく大きな男の人が雪の中にいて、こっち見てるの。工事の人じゃなきゃあ、痴漢の人かもしれない」
落ち着いた話し方だったが、声はあきらかに震えていた。恭子が持つ小さな電子機器は、幸恵にまとわりついている強い不安までしっかりと伝えていた。
「お風呂の管理人さんかもしれないけど」
「だめっ、だめよ。絶対に近づかないで。そいつは久志を・・・、とにかくひどいから。スコップが危ない。危ないから逃げて、はやく、ユキっ」
{かきを}という殺人鬼が露天風呂に姿をあらわした。幸恵が危機的な状況下にあることを説明しなければならないが、下手に伝えると、パニックを起こしてより悲惨な結果になるかもしれない。適切な言葉を選びきれず、恭子はただ焦るばかりだった。
「風呂場さきたかあ、あのできそこない」老婆の目は、より赤くなっていた。
「この」やろうと、恭子は言いかけた。他人事のような態度に腹が立っていた。
「{かきを}に、ぶった切られたくなかったらなあ、ずんっと風呂んなかにいるこった」
宿の母屋から、少し山側に離れたところに露天風呂はあった。吹きさらしの雪原に、巨大な湯船だけがぽっかりと掘られていた。脱いだ服を雪や雨に濡らさないために、小さな東屋がくっ付いているだけで、他に施設らしきものはない。しばらく誰も使用していないためか、風呂の周囲は胸元まで積もった雪に覆われていた。
久しぶりに客が来たため、今朝になって老婆がそこに人が通る道をつけたのだ。露天風呂自体は、宿の貧弱さに似合わず広くて大きなものだった。
「逃げるって、そんなのできないよう」
ケイタイの向こうは泣き声に変わっていた。幸恵が湯船の中で右往左往しているのだろう。お湯が揺らいでいる音が頻繁に聞こえていた。
「だって、お風呂から出ようとすると、必ず前にいるの。雪を掘ってきて、すごい速さでくるから。置いてきた服からケイタイとるのが精いっぱいで」
血だらけのスコップを握った不浄の存在が、無垢な魂を闇色に染めている。不安が極限に達した声は、甲高くヒステリックに跳ねあがっていた。
「おかしいよ、この人。目が一つしかない。赤いのが一つだけ。それもすごい垂れ目。背中の籠みたいのに何か入っていて、なんか肉みたいのがとび出してるし、すごく臭いの。生臭い」
「そこから出ないで。その男に近づかないで」
焦りながらも恭子は考えていた。{かきを}は、まだ幸恵を襲っていない。怯えきっているが、スコップで切り刻まれることなく生き続けている。ストーブの炎に見入っていた老婆は、かすかにほくそ笑んでいるように見えた。恭子は気づきはじめていた。
「どうしよう、ケイタイの電池が切れそう。もう切れる、どうしよう」
「大丈夫、お風呂から出ないかぎり大丈夫だから。すぐ何とかするから、一度電話切るよ。いい、絶対に出ないで。そいつに近づかないで」
恭子は通話を切った。ケイタイを耳元から離す刹那、幸恵の嗚咽が聞こえたような気がして、胸が締めつけられる思いだった。しかし、泣きを入れている暇はなかった。
「恭子、誰からだ。ユキちゃんか。なんだって、どうするんだ」幸恵同様、田川もただ怯えているだけだった。
「あいつは雪の中でしか移動できないし、雪の中から出られない。そうでしょう、おばあさん、そうなんでしょう」田川には目もくれず、恭子は老婆に向かって言った。
老婆は相変わらずストーブの空気口に注目していた。恭子は返答を待った。重苦しい沈黙の時はそう長くはなかった。
「そうだあ、{かきを}は、いいあんばいの雪ばかかねえと、来れねえ」
「やっぱり」
恭子はモグラのように積雪を掘り進む、あの大男の奇妙な行動を思い出していた。二人が車道に出た後は追いかけもせず、あの雪壁から出てこなかった。不自然なことだった。きっと、あの大男には常識では計れない何かしかの行動制限があるのではないかと直感したのだ。
「あいつにはどれくらいあればいいのよ」もちろん、雪に関する質問だった。
「九尺の間がありゃ入ってこれねえ。{かきを}が埋められた穴も、そんぐらいだからな。あとは膝小僧が隠れちまうと、はっちゃこいて来るでえ」
「なにいってんだよ」
田川には、二人の女が何のことについて話しているのか見当もつかなかった。強い不安と恐怖で、思考の糸がもつれにもつれている。
「あいつは雪の中しか移動できないのよ。雪のないところには行きたくても行けない。だからここに来ない、来ることができないの。この宿の周りも道路も除雪されていて、雪が積もってないから」
恭子はそう結論付けた。ゆっくりとした老婆の頷きが、彼女の正しさを認めていた。
「なんだって」
「だからお風呂から出ないかぎり、ユキも襲われない。雪のあるところにいっちゃダメなのよ」
「あいつが風呂場にいるのか」
田川の頭の中も、ようやく整理がついてきた。幸恵がいる露天風呂にあの大男がいるということを、やっと理解した。
「しばらくは大丈夫だと思う。それより一尺ってどれくらいなの」
心身ともにひどく混乱していた田川だったが、恭子のはっきりとした態度につられて、なんとか落ち着きを取り戻していた。
「じいちゃんの昔の物差しが、たしか一尺で三十センチくらいだったような」
「幅は二メートル七十、高さは膝まで」
「膝までって、おい」
「その空間を空けておかないと、あいつが、{かきを}が来てしまう」
すぐそこに、あの大男がいるような差し迫った言い方に、田川は大きな生唾を呑みこんだ。そっと引き戸のそばに近づき、薄汚れたガラス窓から外の様子を窺った。
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