第5話
真夜中、眠りの底に落ち込んでいた男たちを起こす声があった。ジャージ姿の恭子と幸恵が、怯えたような表情で三人の枕元にうずくまっていた。
「なんだ、どうしたんだ」暗がりに浮かんだ四つの眼球を発見して、田川が跳び起きた。
「さっきから変な音がするの。なんか気持ち悪くて眠れないのよ」恭子が言った。
「ほら、聞こえるでしょう。ザザアザザアって」
「変な、おと」
田川が耳を澄ませてみると、なるほど何かを引っ掻くような音が聞こえた。建物の内側ではなく外から聞こえるようで、しかもそれほど遠くない気配だ。気にかけなければいいのだが、気になってしまうと、どうにも不安を掻きたててしまう響きである。
「たしかに聞こえるなあ。いったい何の音だろう」
「うるせえなあ、なんだよ、もう」
渡部が不機嫌に目を覚ました。彼の横にくっ付いて寝ていた久志もつられて目を覚まし、しまりのない顔を左右に振っていた。
「気持ち悪い音が止まんないのよ。ほら、きこえるでしょう」恭子が訴えた。
「外から聞こえるんだ」田川が付け加えた。
「それなら、窓から外を見て確かめりゃあいいだけだろ」
渡部は面倒臭そうに立ちあがり、電球も点けずに窓へと向かった。木枠の窓を開けて空中に上半身を投げ出し、下の方を丹念に見回した。冷気と雪が、ただでさえ冷えきっている部屋の中へ押し入ってきた。
しばらく見ていた渡部が向き直り、皆を手招きして窓の下を見るように言った。恐る恐る、四人が固まりながら窓の下を覗き込んだ。そこには仄かな灯りの中を動く人影があった。
「あのおばあちゃんだ」
「こんな夜中になにしてるの」
若い女二人の乾いた声が階下へと落ちた。それは淡い闇の中を動く人影に達する前に、雪と冷気の中へ溶け込んでしまった。
「雪かきだろう。一生懸命やってら」渡部の大きな声が部屋の中に反響した。
「しっ、声が大きい」
宿の外壁には灯油ランプが掛けられ、老婆の周囲をうす赤く照らしていた。
彼女はその小さな身体につり合わないほどの大きなスコップを手にして、積もった雪を丹念にはらっている。建物との一定の幅を神経質なまでに正確に保って、雪を凍てついた地面もろとも削るようにすくっていた。老婆がスコップで地面をこするたびに、耳障りな音となって響いていた。
「どうしてこんな夜中に」
「老人だからね。ほかの家もアホみたいに除雪していたから、きっとヒマなんでしょう」
暇だから夜も寝ずに雪かきするとは恭子には思えなかった。丁寧な除雪には、それなりの意味があるような気がしていた。この辺りに特有のしきたりや慣習を律儀に守っているのかもしれないが、それにしては異常と言っていいほどの執着が感じられた。
「ねえ、ひょっとしたら雪を建物に近づけたくない理由でもあるのかもよ」
赤く灯る老婆の頑なな姿を見て、恭子の胸中に不安な感情が沸き上がっていた。それは幸恵にも伝わり、二人は暗がりの中で嫌な味のする唾を呑みこんでいた。
「ねえよ、そんなの。さあ、寝るぞ寝るぞ」
渡部の号令で窓は閉められた。頭の雪を振り落すと、男たちはそそくさと布団の中へともぐりこんだ。恭子と幸恵も部屋へ戻り、冷めてしまった寝床へ横になった。しかし、二人はなかなか寝つけなかった。老婆が雪をかく音は、止むことなく部屋の中まで入ってくる。それはいつまでも響いていた。
弱弱しくも寒々しい陽を受けて恭子は目覚めた。腕時計で時間を確認すると、もう朝になっていた。窓の外に目をやると雪はまだ降り続いている。軽く身支度を整えてから階段を降りた。居間では渡部を除いた三人がストーブを囲んでいた。田川と幸恵は茶渋だらけの真っ黒い湯呑でお湯をすすり、久志は昨夜の芋の残りを食べていた。
渡部は朝早くから田川の四輪駆動車を借りて、途中にあった太った中年女が管理人をしている旅館まで、めぼしい食べ物を買出しに出かけていた。彼らは朝には山を下るつもりだったが、離れにある露天風呂を用意するから入っていけとの老婆の好意に、温泉好きの気持ちが動いてしまったのだ。
露天風呂の支度は昼までにできるらしいので、入浴してから出発しても、暗くなるまでには山を抜けられるだろうとの結論に達したのだった。すぐにでも帰るつもりだった恭子は大いに機嫌を損ねたが、久志のみならず幸恵も温泉に入りたいといい、しかもすでに渡部が出かけてしまっていることから承知するしかなかった。
ところが、昼近くになっても渡部は帰ってこなかった。彼というより車が心配になった田川がケイタイで何度も連絡をとろうとしたが、いっこうに音沙汰がなかった。
老婆は離れにある露天風呂の支度を終えると、再び旅館の周囲の雪{かきを}していた。雪は止むどころかますますその勢いを強くし、老婆が払いよけるそばからすぐに積もっていた。彼女はひどく疲労しているようで、ゼイゼイと乱れた呼吸を整えようと、肩で大きく息をしていた。
降雪と静寂の合間に騒々しいエンジン音がくさびをさして、それが徐々に近づいてきた。車がやってくる気配に、渡部がやっと戻ってきたと思った田川は、防寒着もまとわないで外に出た。同じく渡部の到着を待っていた他の三人も彼に続いた。
しかし、現れたのは見慣れた四輪駆動車ではなかった。
あちこち塗装が剥がれ、錆が瘡蓋みたいに浮き上がった古めかしいマイクロバスだ。後方から真っ黒い煙と汚らしい騒音を吐きだしながら、ゆっくりと宿の敷地に侵入し、雪をかいている老婆のもとへやってきた。気になった学生たちも老婆のそばへ行った。ひどく不快な音をだしながらドアが開き、顏に白い手拭いを被った老人が降りてきて、老婆の前に立った。
「今朝ショベルがぶっ壊れちまって、ビクリとも動かねえ。電気がイカれちまったんだ。修理屋さ出すにも、今日明日のモンじゃねえ」
白手拭いの老人は、その小さな身体に似つかわない大きな声でまくし立てた。
「あれが動かんと雪かけねえ。この降り方だと、じきに車が通れなくなっちまう。ばばあ、とっととバスさ乗れ。支度してる暇なんてねえぞ。積もってあずる前に、みんなして山おりるんだ」
彼は老婆の手をとって連れていこうとした。しかし、彼女は黙ったまま動こうとはしない。白手拭いは、その非協力的な態度の原因が背後にいる若者たちであることに気づいた。
「なんだあ、このあんこらは」
「あのう、僕たちは昨日からここに泊まってるんです。そのう、旅行ということで」老婆が口を開く前に田川が答えた。
「旅行だあ、馬鹿かおめえら。雪がのっつりふって止まらないんだぞ。ショベルも動かねえのに、旅行もくそもあるか」
肉体を酷使する仕事に就く者特有の、強硬で遠慮のない目が四人を睨みつけていた。
「しゃあねえ、お前らも乗っけてやるから、ヤバっちくなる前にバスさ乗れ。詰めれば乗れるだろう。ばばあも、ほら」
「乗れっていわれても、このボロバスじゃなあ」久志がせせら笑うように言った。
「なにい」と怒りをあらわにする白手拭いに対して、恭子が説明する。
「買出しにいった友達を待っているから動けないんです。それに自分たちのことは自分たちで決めますから」
渡部が戻らないまま出発することはできなかった。一本道なので途中で行き交うとは思われるが、もしもということがある。それに、なぜ急いで下山しなければならないのか釈然としない。ここの住民なら多少の雪くらい慣れているはずだ。しかも、見ず知らずの年寄りに怒鳴られ、ぞんざいな物言いをされたことに対し、若輩者ながら腹が立っていたのだ。
「このめんた、じょっぱりやがってキモやけるな」白手拭いは老婆を見た。
「じゃあ、ばばあだけだ。さあ、はやく乗れ」
しかし、老婆は手を左右に振って拒絶の態度を示した。
「客ば残して、オレだけ行かれねえって。おめえたちだけで行ってくれや」
白手拭いはじっと見つめていたが、諦めたのか、まもなく後ろを向いてバスに向かった。
「どうなっても知らんぞ、知らんからな」
マイクロバスは、老婆と学生たちを残して出発した。曇った窓ガラスを袖口で拭いて、バスの中から見つめるいくつもの顔があった。どの顔も老人ばかりで、どの表情も青白く生気が失せているように見えた。
「老人ホームの送迎かよ」真っ黒い排気ガスにまかれながら、久志が言った。
バスが去った後、老婆と学生たちは宿へと戻った。渡部は未だ帰らず、ケイタイにかけても返事はなかった。
雪の降り方が尋常ではなくなってきた。恭子は窓からその様子を見て、あのバスの老人たちは雪で村全体が閉じ込められる前に脱出したのだと悟った。豪雪に埋もれ、生活道路が寸断されてしまう前に山を下りたかったのだ。
ここには、街で不自由なく暮らしている自分たちにはわからない苦労がある。そう考えると、白手拭いのあの怒りようも合点がいくし、自分たちも早いとこ山を下らなければ困難なことになるのではと思った。
老婆は雪{かきを}止めて、居間の隅の方で小さくうずくまっていた。年老いた身体に重労働がよほど堪えたのか、つとめて動こうとはしなかった。ときどき痰を切ろうとして、短く咳き込むだけだ。
幸恵は露天風呂の支度ができていたので、一人で入浴しにでかけた。恭子から長湯しないようにと言われていた。渡部が帰ってきたら、すぐにでも山を下りようと考えていたからだ。
手持ち無沙汰な久志は、鍋に残っている毛芋を意地汚く食べていた。窓の外を眺めていた恭子は、カチカチと妙な音が連続していることに気がついた。振り返って室内を探してみると、壊れていた掛け時計の振り子が左右に揺れていた。噛み合わなくなった歯車が互いに外れたまま回転している。不思議に思い、その掛け時計をよく見ようと目を細めた。
その時だった。
ガシャーンガシャーンと、金属みたいな固いものを叩く音が鳴り響いた。
「な、なんだ」
驚いた久志が箸に刺した芋を落とした。それは、どんぶりの端に当たって転がっていく。
何かを叩く音はよりいっそう激しくなり、止むことはなかった。不穏な響きであり、しかも神経に障る不吉さを帯びていた。恭子と田川は、その場に凍りついてしまい動けなくなった。
鳴り響く不快な打撃音は、その音色の感じから、少し離れた場所で鳴らされていると三人は直感した。しかし実際に体に感じる強い振動から、玄関の引き戸のすぐ目の前で打ち鳴らされているようにも思えた。
老婆はその身の半分を淡い陰影の中に沈め、まるで赤子の寝息を聴いている母親のようにじっと耳を傾けていた。そして小虫のような小さな声で、そっと呟いた。
「かせぎにきたか」
その意味を考えようとした恭子だが、次に放たれた言葉に集中力を失ってしまった。
「渡部さんがふざけているんだ」
久志の声はうわずっていた。得体のしれぬ不安が彼を襲い、それを無理に振り払おうとして、原因を身近でありふれた存在に転嫁しようとしていた。
田川も恭子も、渡部がふざけているとは思っていなかった。彼が仕掛けた悪戯なら快活で愉快なものになるはずだ。
しかし、いま鳴り響いているこの不吉な振動は、よく研がれた刃物のようにギラついていて、しかも異様な冷たさで迫ってくる。善良な人間の仕業とは思えなかった。ここには老婆と自分たちしかいない。村の年寄り連中は雪に閉じ込められるのを嫌い、あの古びたバスに乗って下山したはずだ。
いったい、何者なのか。
凍りつきそうな頭でそう思いながら、恭子はあの毛深い芋が彼女の柔らかい内臓の中を、その毛を絡めながら駆け回っているような、じつに胸くその悪い感覚に責め立てられていた。全身の毛穴をざわざわと刺激する鳥肌は、普段はおとなしくしている本能からの警告だった。
「それにしてもしつこいなあ、渡部さんは。ちょっと様子でも見てくるかな」
血の気の失せた呟きだった。
久志が硬直した身体で土間の縁に座ると、ぎこちなく靴を履き玄関の戸を引いた。大きな雪粒とともに、より鮮明になった打撃音がどっと吹きこんできた。大量の雪と音を全身に浴びながら、彼はふらふらと出ていった。
「・・・」
恭子も田川も、無言のまま見送った。外に出てはいけないとの直感が二人に共通していたが、それを友人に告げることはしなかった。言い知れぬ戦慄が彼らを支配し、身も心も凍りついて声を出す余裕がなかったからだ。
「{{かきを}}」
老婆の唐突な言葉が沈黙を破った。ぎょっとした二人が彼女を見た。
「{かきを}がなあ、はっぱかけてるんだあ」じっと一点を見つめたまま重苦しく呟いた。
掛け時計のチャイムが、その懐かしい音色をいっぱいに奏で始めた。甲高く乾いた音が外からの打撃音に同期して その尖った不吉さを少しばかり柔らかくした。それが凍りついた場の空気を一時的に緩めた。
はっとして我にかえった二人は、お互いの顔を一瞬見ると、弾かれたように動きだした。
急いで靴を履くと、重なるようにして勢いよく外にとび出した。二人の意識の下にある霊感のようなものが激しく震えていた。とてつもない凶事が起こる予感に、気持ちがどうにかなりそうだった。底なしの悪夢に引き込まれてしまうという不安に責めつけられていた。早く友人を連れ戻さなければならない。恭子も田川も、両手両足を滅茶苦茶に振り回しながら走り出した。
凄まじく降り続く雪の中を、久志は鳴り止まぬ音に吸い寄せられるまま宿から遠ざかっていた。言い知れぬ不安に追い立てられながらも、他の二人とは違って、彼の心の中にはまだ楽観的な部分が多かった。どうせ渡部の仕業だと、強く自分に言い聞かせていた。もしそうならば、渡部らしくないこの不快な悪ふざけを、早く終わらせたいとも思っていた。
しばらく歩いたところで久志は立ち止まった。
雪に埋もれた廃屋の向こうに、大きな一本のエゾ松が平坦な雪原から突き出ていた。音はその辺りからけたたましく鳴り響いている。
久志が目を凝らして見ると、その大松の根元に人らしい黒い影があった。それが渡部かどうか確かめようとしたが、降り続く雪に邪魔されて、視界がはっきりとしなかった。除雪された車道からそこに行くには、背丈ほどもある積雪をかき分けて行かなければならない。
一瞬ためらった久志であったが、意を決して積雪の中に入り、鳴り響く陰険な打撃音に向かって突進した。股座まで雪に埋もれながらも、なだらかな上り坂を必死に漕いだ。柔らかく軽い雪が踏み込むほどに粘りをもち、冷たい足かせとなって絡みついた。全身雪まみれになりながらなんとか這い進み、ようやく大松の根元にたどり着いた。
そこには黒い人間がいた。久志の背丈よりもはるかに大きな人間が、松の大枝の下に立っていた。膝頭まで雪に埋まり、逞しそうな幅広の上半身をしきりに揺らして、なにか大きな動作をしていた。そのがっしりとした背中と動きから、それが男であることがわかった。
黒い男は古めかしい衣服をまとい、大きくて頑丈そうな籠を背負っていた。炭鉱の歴史資料館でしか見ることのないような格好だった。男が着ている衣服は、数十年も泥の中に見捨てられていたみたいに真っ黒に汚れていて、生地はボロボロにほころんでいた。破れた布の切れ端が重度の火傷でずる剥けた皮膚のように、その大きな体躯のあちこちからだらりと垂れ下がっている。頭には黒く汚れた手拭いを幾重にもほっかぶり、それが顔面の大部分を覆っているので、表情は読み取れなかった。ただ男が激しく揺れるたびに、黒い手拭いの隙間から赤い何かが見えた。その黒ずんだ朱色に惹きつけられるまま、久志は男のもとへと近づいていった。
友人を追って走っていた恭子と田川は、吹雪の先に久志の姿を見つけた。彼は積雪に自由を奪われながらも、よたよたとした足取りで、雪に埋もれた廃屋の前をうろうろしていた。
田川が大声を張りあげて彼の名を叫んだ。若く切迫した声が静寂の中を突き進んだ。しかし、久志が振りかえることはなかった。彼は聞きなれた友達の声よりも、打ち鳴らされる正体不明の音のほうに気持ちが傾いていた。甘い蜜壺にたかる下等な虫けらのように、どうしようもなく魅せられているようだった。
久志のすぐ先に、大きな枝を空中に広げている大木があった。不快な打撃音はそこから発せられていると、二人はすぐにわかった。音がきびしく打ち鳴らされるたびに、その大木が揺れているように感じた。ただならぬ気配に胸騒ぎが頂点に達していた。久志以外の黒い人影が見えた。田川は怒声で、恭子はのどが潰れるような金切り声で友人を呼び続けた。しかし、彼は依然として振り返らない。
二人も積雪の中へ入っていった。がむしゃらに突き進み、ようやく近くまでやってきた。大木のそばに、久志と大男がいた。二人の姿はもう重なるくらいに接近していた。
大男は、それぞれの手にツルハシと剣先スコップを持っていた。そしてオモチャのゴリラがシンバルを叩くがごとく、半円型に尖った剣先スコップの先をツルハシにぶつけていた。大男の胸元では、ものすごい音が鳴り響き火花が散っていた。叩かれれば叩かれるほどに、スコップの先端もツルハシの先もより鋭く、輝かしくなっていくように見えた。
大男は久志がそばにきてもその動作を止めない。引き寄せられるように、若者はさらに近づいた。すると、大男の背中からえもいわれぬ悪臭が漂ってきた。久志はおもわず腕で鼻と口を覆った。その残り臭を吸い込んでしまったことを心の底から後悔するような、強烈な腐敗臭だった。
田川は久志のもとへ行こうと積雪をこいでいる。恭子も後に続こうとしたが、足がすくんで踏み込めないでいた。間近に迫った打撃音が、彼女の常日頃の勝気な気性をくじいていた。しゃがれた声で何度も田川を呼び止めるが、彼は進み続けた。それでも彼女は何度も呼び続けた
大男は両手に持った道具を打ち鳴らすのを唐突に止めた。真っ白な雪原に、久方ぶりの深閑が訪れた。
久志が大男の顔を見上げた。頭部から顎にかけて汚い手拭いが幾重にも巻かれ、顏は中央部分がわずかに露出しているだけだった。その隙間から赤黒く充血した目玉が一つ突き出していた。久志はその顔をまじまじと見つめた。
大きな眼球は顔の真ん中にあり、目じりは真下に垂れ下がっていた。下手くそな福笑いのような、あり得ない状態で位置していた。さらに頭部の輪郭もおかしかった。片方から鈍器で殴り続けたかのように傾き、頭を支える土台となる首自体も斜めに傾いでいた。その奇怪な様は、何年も風雨にさらされた続けた不格好な案山子を連想させた。
久志は大男の前に立ったまま、ぼんやりと見つめていた。存在しないものを現実として認識するには、多少の時間と、少しばかりの勢いが必要なのだ。
全身雪まみれになりながら、田川はようやく大木の根元へとやってきた。あちこちに飛び散った呼吸をたぐり寄せ、なんとか落ち着きを取り戻そうとした。肩で息をしながら、大きな黒い影が友人に覆い被さる様子を見ていた。
ただ、久志にとって少しだけ幸いだったのは、彼が事の重大さに気づく前に、それは断行されたということだ。そうでなければ、肉体的な損傷が始まる前に、無駄な精神的苦痛を受けなければならなかっただろう。
大男がツルハシの柄の深いところを握り直し、唐突にそれを振り下ろした。
小枝を踏みつけたような音が響いた。すさまじい衝撃が久志の右肩付近を直撃し、若者の身体は右に傾いたまま雪の中にめり込んだ。大男が打ち据えたツルハシは、厚い防寒着の上から久志の薄い皮膚を深々と貫き、鎖骨を砕いたあと半分ほどめり込んで止まった。
一瞬後、猛烈な痛みが若い身体を襲った。氷のように固まった神経の塊を、巨大なハンマーで粉々に打ち砕いたかのようなすさまじい激痛だった。
自分の身に何が起こったのか理解できなかった。痛みで我を忘れた久志は言葉にならない悲鳴をあげながら、肩に突き刺さったものを抜こうと必死にもがいていた。その冷たい金属以外、何も見えていなかった。
田川は動けなかった。未だかつて経験したことのない重く冷徹な感覚に全身が凍りつき、友人の名を呼ぼうにも声すら出せないでいた。瞬間的に口の中が乾き、冷えた外気が湿り気を失った粘膜を痛痒く刺激する。飲みこんだ唾を胃に落としたことを後悔した。
すぐ目の前で友人が悶絶し、断末魔の悲鳴をあげていた。久志の狂乱した心臓が、その活力のある血液を、破壊された肩口から際限なく圧し出す音が聞こえてくるようだった。
赤く鉄臭い臭気が、自分のところへ流れているようにも思えた。出会うはずもない衝撃的な光景に、田川の良心はデタラメに揺れ動き、目を背けるよりも大きく開かせたままにしていた。
久志はツルハシを引き抜こうと躍起になっていたが、若くて生きのいい筋肉が、その金属をしっかりとくわえ込んで離そうとはしなかった。傷口からは血があふれ出し、衣類の内側を、滑らかな肌をつたって全身にひろがろうとしていた。その生温かでしっとりとした感触は、衝撃と痛みで我を失っていた久志の意識でも感じとることができた。それが、彼の生きて味わった最後のぬくもりとなった。
大男は右手に持った剣先スコップの丸く尖った刃先を、久志の顔の真ん中めがけて水平に打ち込んだ。
濁った音がした。
せわしなかった若者の動きがガクリと止まり、右肩をまさぐっていた左手がだらりと垂れさがった。剣先スコップは彼の鼻頭を上下に引き裂き、鼻腔内を力任せに蹂躙しながら著しく傷つけ、その鋭い先端は小脳まで達していた。
久志の顔面の中央に固く巨大なクチバシが現れた。血の通っていない冷たく薄っぺらなクチバシだった。もはや生気を失った小さな眼球が、それをうらめしそうに見下ろしている。
大男は久志の顔に突き刺さしたスコップを引き抜こうとしたが、若い組織がしっかりとくわえたまま離そうとはしなかった。だからスコップの刃先をグリグリと上下させ、肉と鉄の間に隙間をつくろうとした。するとシャバシャバとした血液が堰を切ったように溢れ出し、なだらかに湾曲したスコップの上面は、なみなみと溜まった血の受け皿となった。噴出す血液で顔の下半分は赤く染まり、流れ止まらぬまま滴り落ちて、足元の積雪を少しばかり溶かしていた。
大男はスコップをそのまま水平に引き抜いた。そして久志の赤黒くふやけた鼻先でくるりと一回転半させると、今度は縦に突き刺した。まったく容赦のない打撃だった。
血や肉の破片と共に生臭い臭気が飛散した。その血なまぐささの中に、嗅ぎなれた友人の体臭が残っていた。田川は吐き気をおぼえ、自分の腹の中から久志の血を吐き出したい欲求に駆られた。この時ほど、友人であることを後悔したときはなかった。
大男は突き刺したスコップをゆっくりと左右に振り、久志の顔面を念入りに抉ると、素早く引き抜いた。若者の小さな顔に四弁の花びらが咲いた。十字に抉られた花の中央からは、ぶくぶくとあぶく混じりの血液が、もうほとんど静かになった心臓の鼓動に合わせて、とどめなく圧し出されていた。滴り落ちる血汁が純白の雪原を紅く焦がしていた。かつて皮肉が得意だった小顔は、朱色の毒を吐き散らすだけのグロテスクな肉の塊に成り果てた。
それはもはや呼吸をすることもできずに、血みどろの醜態をさらしたまま徐々に冷えていくだけだった。めくれあがった皮膚にへばり付くだけの眼は光を失い、スコップにこびり付いた自らの歯と歯茎の一部を見て驚くこともできなかった。久志は絶命していた。
彼が受けることのできたもう一つの幸運は、あの鋭いスコップの刃先がもっとも脆弱で致命的な部分を破壊し、そのために想像を絶するような激烈なる痛みは、それほど長く続かなかったことだ。なぜなら息絶えた後に訪れた数分こそが、人の為すこととは到底思われない、暴虐を極めた屠殺の現場となったからだ。
それは生けるものに対する慈しみの情も、憐憫の欠片もない呪われた仕打ちであった。そこに温かな肉体も命も久志という人格も、はなから存在していないかのような無機質で冷徹な無視である。屠畜機械の容赦のない仕事が、厚い雪に覆われた深山の地で粛々と行われるのだった。
ツルハシの柄を握り直した大男は、その手に力を入れた。肩から引き抜かれた金属の先端から、粘りの強い血液が滴っている。若い肉体から自由になったツルハシは、再び肉の中へと突き立てられた。なだらかな半円を描きながら、今度は脇腹を打ち抜いたのだ。
凄まじい衝撃が久志の身体を直撃し、四つに引き裂かれすでに息絶えた顔面が、再び苦しげに嘔吐する。同時に、身体は猛烈な一撃に抗しきれぬまま吹っ飛ばされた。雪上を毒々しい原色の汚わいで色づけしながら、魂を失った軟体動物が、大男の周りをくねくねと転げまわった。
大きく傾いた赤い目はなおも逃がさず、獲物を追って素早く振り向いた。間髪入れずに、すでに生気を失った若者の関節めがけて、何度も何度もスコップを打ち下ろした。その度に久志の手足は、本来曲がってはいけない方向に勢いよく突き上げられた。その不可思議な姿は、狂人が思い描く異世界の昆虫のようだった。
大男の作業は手早く容赦なく続き、ツルハシとスコップでもって久志の肉体を突きほぐした。冷たい静寂の中に骨を砕く音が響き、若く華奢な肉体がいくつもの部分に断ち切られた。四散した血肉や防寒着の切れ端が、強烈な色彩を放ちながら白い雪原によく映えていた。
「ぎゃあああ」
けたたましい金切り声がその場を切り裂いた。
心臓が破られるかのような衝撃に、田川は反射的に振り返った。彼のすぐ後ろで、恭子が顔中を口にしながら叫んでいた。一人でとり残されることに耐えきれなくなった彼女は、田川を追って来ていたのだ。そして、彼の陰に身を隠しながらずっと見ていた。黒い化け物じみた大男にされるがまま、久志が細かな破片になっていく過程を。
そこかしこに、惨たらしい姿に変わり果てた久志の残骸が散らばっていた。その中の、かつて顔だったものの一部が恭子の注意をひきつけた。悲しげに自分を見つめる目玉と視線がかち合った。彼女は悲鳴混じりの嗚咽を何度も繰り返し、水っぽい吐しゃ物を、純白の雪の上に吐き出し続けた。
雪原に散らばった久志の血肉は雪の衣をまとい、大小それぞれの塊となっていた。大男はスコップでそれらの一つ一つをすくっては、もらすことなく背中の籠へと放り込んだ。
引き裂かれた防寒着と皮膚の表皮が、ぐちゃぐちゃになりながら空を飛んだ。降りやまぬ雪にさらされたそれらは、正確な弧を描きながら大男が背中に担ぐ容器の中へ納まってゆく。とぐろを巻いた腸が、最後の抵抗とばかりにスコップの柄に絡みつき、実にグロテスクな道具と化した。大男はそれを解きほぐそうともしなかった。赤黒くて柔らかい蛇が巻きついたスコップで、もくもくと作業を続けた。
大男が背負った籠は粗く頑丈そうであったが、網目の一つ一つは不均等だった。きつく詰まったところからは血が滲み出し、大きな隙間からはべっとりと濡れた頭髪や、先の砕かられた骨の一部がはみ出していた。
時々、背中を揺さぶる動作をした。そのたびに、宙に舞った籠の中のいくつもの塊は、血飛沫をあげながら圧縮され底のほうに溜まっていった。かつて怠け者で生意気な性分だった若者は、自身も想像できない理不尽な姿で背負われたまま、惨めで容赦のない弔いを甘受するしかなかった。
雪原に際限のない嘔吐を繰り返していた恭子が、ふと我にかえった。いつの間にか訪れていた異様な静けさに気づく同時に、突き刺すようなきびしい気配を感じとっていた。ぞくぞくと背中を駆け上がる悪寒を体験しながら、ゆっくりと上半身を起こした。見ると、尻もちをつく格好で少しずつ後退っている田川がいた。仰天した蛙みたいな彼は、恭子にくっ付きながら後ろへと進もうとする。
田川は見つめられていた。辺りに散らかした全てを籠の中に入れ終えた大男は、その怪異な目で次の獲物を見出していた。毒蛇よりもはるかに邪悪な眼球に捉えられた彼は、本能的に遠ざかろうと努力していたのだ。
大男はツルハシを背中の籠へ乱暴に放り込むと、剣先スコップの柄を握りしめ、足元の雪を唐突にかき始めた。猛然と投げ飛ばされた雪の塊が空中で砕け、それらが降り続く雪と一緒になり、白い煙幕となった。
まもなく、その黒い姿は深い雪原の中へと沈み込み見えなくなった。ただスコップの先端だけが、大男が姿を沈めた雪穴から右へ左へひっきりなしに突きだしていた。
久志が解体された大松の根元から、雪原に一筋の溝が掘られている。深く冷たいその回廊は、それを掘り進む地獄の機関車とともに、二人の若い男女のもとへ突き進んでいた。
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