第4話
そんな重々しい沈黙を打ち破ったのは、一瞬にして差し込んできた白い光だった。
真っ白い光線に目を射抜かれる痛さに、車内の五人は思わず目をつむった。何事が起ったのかわからず、しょぼつく瞳で皆が一斉に四方を見回した。すると、重苦しい闇に包まれたあの痘痕模様の壁はなくなっていて、雪と枯れ木だらけの寂しげな光景の中を、再び四輪駆動車は進んでいた。
田川がドアミラーに視線を落とすと、山裾に黒くぽっかりと開いた穴が徐々に遠くなっているのが見えた。傾斜計は水平を示している。背中を病んだ雪兎が、彼らのすぐ目の前を走り過ぎた。五人はトンネルから出たことを知った。
不気味な暗闇から解放されたのはいいが、灰黒色の雲が空に浮かぶどころか地上に接地するばかりに低く垂れこめ、そこから振り落す雪の量も増えていた。トンネルを出ても狭い道幅は相変わらずだが、ここも車が走行できるほどに雪は除かれていた。かえって、トンネル前よりも少しばかり幅があった。
田川は時計を気にしながら車の速度を上げ、制御不能にならないよう神経質に運転していた。陽の光が弱くなっている。夕闇が近づいていた。トンネルを出たのにもかかわらず、奈落の底に転落したような余韻がしばらく残っていて、車内はいまだ静まり返っていた。
真っ黒い穴から五人が抜けだして、少しばかりの時が過ぎた。両側から圧迫していた山の斜面が後退し、見通しの良いなだらかな平地が多くなってきた。
木造二階建ての廃屋が一軒、その平坦な土地に崩れかけた残骸を晒していた。雪に埋もれた灰色の建物は、いかにも年代物の住宅であり、板を重ね合わせた外壁はボロボロに朽ち果て窓枠はひしゃげてしまい、窓にガラスなどは微塵もなかった。高く積もった雪がずり落ちてしまったのだろう。鉄板を敷いただけの屋根には積雪がなかった。ただ、真っ赤に錆びついた表面を、どうだと言わんばかりに見せつけている。それはまるで血液をぶちまけたような鮮やかさで、黒と白しかないモノトーンな光景に異様な色彩を放っていた。
幸恵は、壊れた窓枠の向こうから何かが自分を覗くのではないかと不安になり、外を見ないよう顔を伏せていた。他の者は久しぶりに人里の匂いを感じたのか、車がそこを通り過ぎるまでぼんやりと眺めていた。
その廃屋から少しばかり走ると、比較的ひらけた場所にやってきた。人家らしき建物が、道の両側にぽつぽつとあった。それらの家は長屋風の小さな造りで、モルタルで塗り固められた壁が黒く煤けて、見るからに古くみすぼらしかった。家の壁からつき出した貧相な煙突から煙が出ているので、人は住んでいるようだ。どの家の玄関先にも石炭庫があり、そこからこぼれた石粉が、せっかくの白い地面に黒いシミをつけていた。
それらの光景に奇妙なことがあった。ある一定の幅をもって、住宅の周囲が徹底的に除雪されていたのだ。
積もった雪は、大人の咽元くらいの高さになっている。どの家の周囲も刃物で羊羹を切り取ったような、きれいな切断面をもって積雪が取り除かれ、雪が長屋に接しているところは一つもない。除雪したあとの空間が何かを緩衝するように、ぐるりと一周していた。
「貧乏くさい家ばかりなのに、やけに手入れがいいな」久しぶりに口を開いたのは渡部だった。
手入れが行き届いているのは家の周囲だけではなかった。離れた納屋も車が通る道も、人がいそうなところはすべて、ほぼ同じ幅をたもってきれいに雪が取り除かれていた。
「山奥だから暇人ばかりなんですよ」久志はせせら笑っていた。
「あの山で行き止まりみたいだな」
田川が前方を指さした。小高い山が行く手を遮っていた。道がそれ以上続いている様子はない。そして小山の前には、この辺りでは比較的大きな建物があり、背後から白い煙が立ち昇っていた。
四輪駆動車がゆっくりと近づいていくと、木造二階建ての古びた民家がひっそりと佇んでいた。
「これって温泉っぽくないか」
建物の前は車が数台駐車できる余地があった。やはり、そこは油断なくしっかりと除雪されていて、いまさっき降ったばかりの綿雪が、さらりと覆っているだけだった。
建物の正面中央に朽ちかけた年代物の引き戸があった。他に出入口らしき個所が見当たらないので、そこが玄関と思われた。田川は、そのすぐ前で車を停めた。
「ねえ、あの看板みたいの見てよ」
引き戸のすぐ上に、不格好な形をした庇が申し訳程度突き出していて、そのすぐ上に錆ついて穴だらけになった鉄板が取り付けられていた。赤黒く変色した表面に朱色の文字が消えかかっていた。宿泊施設を意味する漢字が、かろうじて読み取れた。それは久志が手配した温泉宿の名前と一致していた。
「ほら、ちゃんと書いてあるじゃん。やっと着いたよ」久志の声は大きかった。
「着いたはいいけど、なんかボロっちい宿だなあ」渡部がぼやいた。
「ほんとにここなの」
「ここみたいね」
恭子の言葉には、ここであることを否定したい気持ちが込められていた。
「とにかく入ろうや。運転で疲れたよ。風呂に入ってゆっくり休みたい」
全員がほぼ同時に車を降りた。いつの間に点灯したのか、玄関庇のすぐ下にある裸電球が、か細い灯りを落としていた。思いのほか日が暮れていたことに学生たちは気づいた。
五人は玄関の引き戸の前でひと塊になった。戸に嵌め込められているガラス窓から内部の様子を窺おうとした。だけどこびり付いた汚れが膜となって、中が見えなかった。ただ玄関の外を照らす裸電球と同じくらい貧弱な灯りが、垢で濁ったガラス窓から透けていた。
「人はいるみたいだな」
「そりゃ旅館なんだから、誰かはいるでしょう」
田川と恭子が一歩前に先んじた。だが二人とも、ためらいがちに中を覗き込むだけで引き戸に手をかけようとはしなかった。
「早く入れよ、寒いんだから」
「急かさないでよ」
渡部に急かされて、恭子が引き戸を開けようとして手をかけた。
しかし、左右どちらに引いても全く動かなかった。女だてらに腰を下ろしガニ股で踏んばったが、どうにも動かない。壁に描かれた引き戸の絵を、一生懸命に引こうとしているかのようだった。
「すっごくねっぱついてて、全然動かないんだけど」
「みるからに年代物だからな、この戸は。もう滑車がダメになってるんだろう」
そういうと、田川が恭子の横に立って加勢した。それでもビクリともしない。苛立った二人が、今度は引き戸ごと持ち上げようとしたとき、突然軽くなり勢いよく開いた。
「このっ、あんこら、なにすんだ。そんなはっちゃこいて引っ張ったら、ぶっ壊れるべや」
唐突だった。
そこには老婆が立っていた。白くよじれた頭髪を無造作にたらし、顏に細かい溝が縦横無尽に走った皺だらけの婆さんだった。
襟元が汚れた襦袢の上に継ぎはぎだらけの丹前を羽織り、細長い虚ろな目線で学生たちを見つめていた。腰には、どこかの屋号が縫いこまれた古めかしい前掛けを回している。血管が浮き出た筋っぽい手には、雑巾みたいな汚い布が握られていた。まさに老婆という存在の象徴的な姿をしている。
「なんだあ、おめえら。どろぼうか」
ぶっきらぼうな言い方に、学生たちは一瞬面食らってしまった。男たちが言うべき言葉を見失っている間に、老婆を見据えた恭子が先に口を開いた。
「私たち五人で泊まりにきたんです。二泊三日で予約が入っていると思うんですけど」
「なんだあ」老婆の威圧するような気迫に、恭子は一瞬ひるんだ。
「いえ、そのう、そう、で、ですから、泊まりにきたんです。ここ旅館ですよね」
老婆はガンをつけるように見つめている。バカにされているのかしら、と恭子は勘ぐってしまった。
「なに、はんかくさいこと言ってんだあ。啓蟄すぎねえと、宿なんかできねえんだって。啓蟄ったら、あさってだべあ。あさってのお日様がなあ、どたまのてっぺんに昇って、初めて冬さ終わるんだべや」
老婆の背後からは、線香とカビが入り混じった独特の臭いが流れ出ていた。
「あのおばあちゃん、なんていってるの」
「なんだかわからんけど、要するに、あさってからじゃないと泊まれないって話だ」
「うそう。どうなるのよ、私たち」
他の三人は、恭子と田川のやや後方でことの成り行きを見守っていた。幸恵の心配に応えられない渡部は、矛先を幹事である久志に向けた。
「おい久志、おまえ日付を間違えて予約したんじゃないのか」
「いや、そんなことはないと思うけど。ちゃんとやったような気がする」
「気がするのか、おまえらしいな。だいたいなあ、ほんとにこのボロ屋が旅館なのかよ」
多少のゴタゴタには鷹揚な渡部も、さすがに呆れたのか首を大きく振っていた。
恭子は、すでに久志が手配をしくじったと確信していた。日付を間違えたか、そもそもまったく見当違いの場所に来てしまったかだ。
友人のヘマで困ったことになったが、ここまで来て帰るわけにもいかない。すでに陽は落ちて暗くなっている。今さらあの険しい山道を、しかも暗くなってから戻るのは危険である。なんとか無理を通してでも泊めてもらわなければならない、と考えていた。
「あのう、すいませんけど泊めてもらえませんか。もう暗くなって、これから山を下るのは危なくて」
「そったらこと言われても、いまさ、なんにもねえんだ。客さくわすもんなんもねえ」
「いえ、そんないいんです私たち。ぜいたくは言いませんから」
老婆は笑っているような怒っているような、つかみどころのない表情をしていた。
「まあ、いまさら暗い道さ下っても、あずるだけだべな。したけど、あずましくねえぞ。ごっつおうもねえしな」
そういうと、仄かな灯りが洩れる建物の奥へ消え行ってしまった。
宿泊が許されたのかどうかわからず、五人は玄関の前で戸惑っていた。すると開け放たれた引き戸の奥から、老婆の呼ぶ声が聞こえた。あのぶっきらぼうな口調が、彼らを生温かな室内へと招いていた。
恭子を先頭に五人はまるで熱い風呂でもつかるように、ゆっくりと仕切りをまたいだ。そして列の最後だった幸恵が引き戸に手をかけた。あれほど頑迷だったものが、今度はか細い力でたやすく滑り、冷気と少しばかりの粉雪を招き入れたあと静かに閉じた。
「そんなとこにつっ立ってねえで、あがれや」
薄暗い土間に固まっていた学生たちは、老婆の招きに応じて中へ上がった。十畳ほどのその場所は旅館の応接間などではなく、古い民家の居間といった様子だった。
タイル張りの四角い台座にのったルンペンストーブが中央にあり、石炭が静かに燃えていた。老婆はその前に小さく正座し、ストーブに触れんばかりに両手をかざしている。
いつの間に用意されたのか、ストーブの周りに人数分の湯呑が置かれ、湯気を立てていた。老婆がそこに座れと手招きした。五人は部屋の様子を眺めながらおずおずと座り、黒く濁るお茶をそっとすすった。だが、黒く見えたのは湯呑が茶渋で真っ黒に染まっていたからで、中身はお茶どころかただのお湯であった。
「なんかこの家、懐かしい気がするな」
「そう、私もなの。この雰囲気って、おぼえがあるようなそうでないような」
「レトロすぎるんだけど」
「おばあちゃんの匂いがする」
「砂防ダム工事のバイトで、山ん中で泊まった飯場が、こんな感じだったなあ」
山の奥にひっそりと佇むこの貧相な民宿は、五人それぞれにとって、遠い昔の幻にも似た既視感を刺激しているようだった。心の底までじっくりと浸透してくる軽いデジャブに、若者たちはなんともいえない気持ちになった。
居間の奥の壁に、大きな機械式の掛け時計が立てかけてあった。すでに壊れているようで、振り子は左に傾いたまま動こうとはしない。文字盤の一部が破損しており、割れた個所から内部の構造が見えた。傾いて噛み合わなくなった歯車が不格好に露出していた。手入れがされていないのは老婆も時計も一緒だと、恭子は思った。
学生たちが湯を飲み干して一息ついた頃合いに老婆は立ちあがり、なにも言わず行ってしまった。五人はお互いに顔を見合わせるだけで、とくに話をしようとはしない。なんとなく気まずい時が流れた。
しばらくして老婆が戻ってきた。両手で大きな鍋を持ち、鍋蓋の上に小さいどんぶりを重ねていた。ゆっくりとした動作で五人のもとに来ると、ルンペンストーブの上に鍋を置き、前掛けから箸をとり出して一人一人に配った。各人のどんぶりへ鍋の中身をよそって若者たちに配った。
「うんまくねえけど、まあ、食えばいいんだ」
どんぶりの中にはピンポン大ほどの芋が数個入っていた。芋以外に具はなく、その芋自体、体毛のような細い根が、あちこちに処理されぬまま生えている奇妙なものだった。
「汁で、うるかしたから、やっこくなって食いやすいんだ」
継ぎはぎだらけの丹前から滲み出る老婆の臭いと、そこいらに漂っている辛気臭さを凝縮させたようなその味に、田川と恭子は箸をおきかけたが、老婆に直視されていることに気づき無理矢理飲みこんだ。
芋を口に入れるや、直ちに吐き気がこみ上げてきた幸恵は、我慢せずにどんぶりを床に置き、口中に残る汁気をティッシュでそっと拭い取った。一方、久志は味や見かけにかまわず、食欲の命ずるまま黙々と食べていた。渡部にいたっては、「なんかこの毛が、毛がなあ」とぼやきつつもガツガツと食い、おかわりまでしていた。
なんとか食事を終えた学生たちは、二階の客間らしき部屋に案内された。居間の奥にある狭くて急な階段を上がりきると、左側に部屋が二つ並んでいた。どちらも広さは六畳ほどで、裸電球の弱々しい光が空間を照らしていた。
両方の部屋はなんともカビ臭く、老婆と同じ臭気が漂っていた。すすけた襖で仕切られた二つの部屋には、テレビも机も椅子もなかった。部屋の隅には、錆とホコリで廃品としか見えない小さな石油ストーブが置いてあった。畳はささくれて、壁は茶色く変色しところどころ破けていた。廃屋の一つ手前といった様子だ。
げんなりと立ちすくむ五人を尻目に、老婆は押入れから布団を引きずり出すと、それぞれの部屋に手早く敷いた。布団をばたつかせるたびに、むっとするような老婆臭が部屋中に拡散された。奥が女こっちが男と簡潔に言うと、老婆はさっさと階下に降りてしまった。
とにかく冷え切った部屋を暖めようと、田川がストーブをいじくるが、黒い煙がぽっぽと立ち昇るだけで炎を見ることはなかった。かえって部屋中が灯油臭くなった。女部屋のストーブには灯油さえなかった。
「歓迎されてるねえ、俺たちは」渡部のボヤキに全員が頷いた。
それから男部屋で、他愛のないおしゃべりが続いた。満足な食事にもありつけないわびしい宿泊だったが、山奥の秘湯ということで、日常から離れた高揚感があった。長距離ドライブの疲れも、逆に気持ちを高ぶらせていた。寒いことも忘れて、あれやこれやと話しが弾んでいる。
途中、渡部がトイレへ立った。帰ってくるなり、次にスタンバイしていた恭子にニヤリ顔で報告する。
「おい、やっぱボットン便所だったわ。めっちゃ臭いぞ」
「はあ~、やだなあ。外でしてこようかな」
「それ、わたしもそうしたい」
「でも、寒いし」
「やっぱり」
女たちは田舎の現実にげんなりとするが、受け入れるしかなかった。しばらくして眠気に誘われた五人は、それぞれの部屋に分かれて床についた。
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