第3話

 四輪駆動車は中年女が留守番をする旅館を後にして、再び細く険しい冬の山道を這い進み始めた。

 小虫の群れのように降り続いていた粉雪も、一粒一粒が大きくなって、また数も桁違いに多くなってきた。道の両側に積もった雪はその高さを増して、ただでさえか細い車道をさらに圧迫していた。道は誰がそうしているのか知れないが、いちおう車一台が通行できる程度に除雪されている。役所の管理がこんな山奥まで行き渡っているのかと、ハンドルを握る田川は税金のありがたさに感謝するのだった。

 つるべ落としの秋ほどでもないが、冬の陽もそこそこに短い。もたもたしていると、車の強力なヘッドライトでも頼りなく思うくらいの暗闇がやってくる。

「でさあ、やっぱり静かで誰もいない温泉しかないと思ったんだよ。混浴だし」

 車の中では久志の調子が良かった。滑らかに舌が動き、自らが手配した秘湯の温泉宿について、想像と脚色をごちゃまぜにして話していた。

「混浴に入ったはいいけど、周りがばあさんばっかりはイヤだなあ」

「渡部さんは熟女好きだから、いいんじゃないすか」

「熟女にも年齢制限があるからな。こうみえても、俺の守備範囲はけっこう狭い」

「どれくれいまでOKなんすか」

「いちおう、還暦までだな」

「広っ」

 そこに渡部が卑猥な要素を足して、笑いを誘っている。

 外の空気にあたって元気を取り戻した幸恵が、始終苦笑いをして付き合っていた。恭子は、後ろの騒がしさの輪に加わる気持ちになれなかった。むしろ、無邪気に騒いでいる久志を後ろ目で見ながら、心の底で苦い虫を一匹一匹すり潰していた。

 久志はわがままな気分屋で、何事にも中途半端な仕事しかしない。いつもその後片付けを田川と共にやらされている恭子にしてみれば、今さらながらに不安になっていた。

 この先、もし目的の旅館が冬季休業中で営業してなかったら、あるいは宿泊施設それ自体存在していなかったら、どのようになるかを想像した。もっとも信頼できない友人が手配しているだけに、彼女の心中にはあらゆる否定的な考えが浮かんでいた。

さらに、あの中年女の態度と言葉も気にかかっていた。

 伝えたいという欲望を無理に押しこめたような、ためらいがちな言い方に、なにやら不吉な影のようなものを感じていた。意識の深く暗い場所に根を張った腫れ物に、あえて触れないように見えたのだ。それが田舎の人間特有の古臭い伝承や、縁起に関わる説教じみた虚構かどうかはわからないが、楽しい気分にさせるものではなかった。

 学生五人と彼らが座している四輪駆動車が、下り坂にさしかかっていた。感覚的には下っているように思えなかったが、四輪駆動車付属の傾斜計は下方に傾いていた。田川は慎重に速度を落とし、タイヤが滑って不測の事態を招かないように注意した。しかし傾斜はますますきつくなって、運転者の意思とは反対に車は危険な挙動をとり始めた。電子的に制御された機構がうまく働かず、四輪駆動車の姿勢は落ち着かなくなっていた。

 両側からは、ほぼ絶壁に近いほどの切り立った斜面が迫り出し、いまにもぶつかりそうで、少しの油断も許されない状況だった。下り坂の向こうには恰幅のいい山が厳めしく立ちはだかっていて、五人はその山の下腹に向かって落ちてゆく感覚に陥っていた。薄く翳った山の下部には、黒くて丸い闇が開いていた。田川はギリギリの運転技術で切り抜けているつもりだったが、じっさいはそれが、彼らの乗った四輪駆動車を正確に引き込んでいるようにも思えた。

 闇の入り口は、灰褐色に風化した石でアーチ状に枠とられ、そこがかなり前に掘られたトンネルであることがわかる。

 アーチ状の石積みの上に、大きな梟が一羽じっと佇んでいて、傾いだ頭部を道の方へと向けていた。彼のすぐ足元にある石板には、このトンネルの名称と思しき文字が彫ってあった。それを見た幸恵は、その名前を知っているような気がした。思い出そうとして記憶の奥底をまさぐると、突如として悪寒と鳥肌が沸きあがってきた。両手で首筋をさすりながら、無理に思い出さないほうがいいと思った。

 四輪駆動車の鼻先がそのトンネルに入り口に差し掛かったとき、梟が飛び立ち、車の屋根をかすめるように通り過ぎた。羽ばたく音も聞こえず、その姿も見えないのに、五人は頭の上を通り過ぎる猛禽の圧力を感じた。渡部は反射的に天井を見上げ、その爪で引っかかれると錯覚した田川は思わず首をすぼめた。一瞬後、四輪駆動車はトンネルの内部へと突入し、五人は瞬時にして奈落の底のような深い闇に包まれた。

 ヘッドライトに照らされたトンネル内の壁を見たとき、全身が鳥肌に覆われたのは幸恵だけではなかった。強烈な光により闇に浮かんできたのは、深海に棲む奇怪な魚の鱗のような模様だった。それが湾曲した内壁一面に広がり、強い光に照らされるままどこまでも連続していた。

「この気持ち悪い模様は、いったい何なの」

 フロントガラスに鼻先をくっ付けるようにして、恭子はその不気味な紋様を食い入るように見つめていた。

「お化けのお腹の中みたい」

 その不気味さに魅せられてしまい、幸恵も目を離せないでいた。

「これって、手掘りの跡じゃねえか」

「てぼりって、なんのことよ」

「むかしのトンネルとか炭鉱とかってよう、掘削機械なんてねえから、いちいち人の手で掘ってたのよ、人海戦術でな。こりゃあ、ノミかなんかで削った跡だな」

 土木作業などのアルバイトも好んでする渡部は、年配の作業員から現場作業の苦労話をよく聞かされていた。彼らの話は、しばしば自らの経験談を逸脱して、遠い昔の、人権も法律も絵空事でしかなかった暗黒時代の昔話に花を咲かせた。

「昔はなあ、職がなくてあぶれていた人や囚人なんかを、こんな山奥に連れてきて、奴隷みたいにこき使ったんだ。リンチとか殺人とか、ザラにあったらしいぞ」

「じゃあ、このトンネルも男たちの汗まみれ血まみれ、悲鳴まみれで」久志は面白がっていた。

「ああ、見るからに堅そうな岩盤を手掘りだからな。いったい何人死んでるんだか」

「ちょっとう、ヘンな話するのやめてくれるー」

 調子にのって縁起でもないことを言いはじめた渡部と久志を、恭子がたしなめた。

「わたし、このトンネルの名前、知ってるような気がする」

 内壁を見つめていた幸恵が唐突に言った。

「いきなりなにいってるの、ユキ」

「小さい頃、おばあちゃんの家の箪笥を弟と一緒に開けていたら、写真が入った小箱を見つけたの。なにが映っているのかなとおもって見ていたら、おばあちゃんにみつかって、すごく怒られた。ばあ様の物に触るなって、おばあちゃんが言っていた。普段はやさしいのに、なんかもう別人みたいでびっくりしたのを憶えてるの」

 幸恵はトンネル内の不気味な光景から目を離し、遠い日の記憶を、そっと目をつむりながら眺めていた。

「その写真に、この手掘りの写真があったの」

「ううん、トンネルの入り口が映っていたの。なんか気味が悪かった。ほかには何人かの男の人と、着物をきた女の人が映ってる白黒の写真が何枚かあっただけ。それ以上は見なかったの。いきなり怒られて怖かったし」

 幸恵は言わなかったが、なぜそのことをいま詳しく思いだせたのか、不思議でならなかった。

「ユキちゃんのばあちゃんがこのトンネルを掘ったのか、すげえなそれ」

「久志、人の話をちゃんと聞きなさいよ。その写真の持ち主はユキのおばあちゃんのおばあちゃんよ。そうでしょう、ユキ」

「うん、写真も相当古かったし、かなり前の女性だと思う。それにおじいちゃんは地元で自転車屋さんだったから、おばあちゃんがこんなところにいたはずがないよ」

「じゃあ、その何代か前の先祖の女が掘ったんじゃね」久志はしつこかった。

「ふつう、女性は掘らないでしょう。ユキのおばあちゃんのおばあちゃんは、きっと掘った人の関係者だったんでしょう」

「そういうことだと思う」恭子の説明に幸恵も納得した。

「でも変ね。偶然にしてはタイミングがいいというか。なにか嫌な感じがする」

 この山に入ってから、どうしても陰気な感じを拭いきれない恭子は、幸恵が示した偶然に、よからぬ臭いを嗅ぎとっていた。

「まあ、ここを誰が掘ろうが、女が関係してようがどうでもいいよ。なんにも問題ねえ。かえってユキのご先祖様が関わっているのなら、今回の混浴温泉旅行は縁があるということで、じつは縁起がいいんだってことよ」

「ちょっとう、混浴はやめてよね」

「渡部さんは熟女でもOKだから」

「私は熟女じゃない」

 辛気臭い雰囲気を嫌った渡部は、暗くなった会話の流れを力まかせに打ち消しにかかる。しらけそうになった場を明るくするのは彼の長所の一つであり、現にその効果が出ていた。

「なあ、田川もそう思うだろう。温泉でのんびりできりゃあいいってな」

「そんなことよりスピードが出過ぎる。事故りそうだ」

 傾斜計いまだ下り坂が続いていることを示していた。田川はブレーキペダルを足のつま先で、まるで痛くて仕方がない腫れ物に軟膏を塗るように、そっと触れていた。そして強張った表情のまま、慎重に車を進める。

 岩盤を鱗状にえぐった跡はずっと続いていた。トンネル自体は相当長いのか、真っ直ぐな道にもかかわらず、出口から差し込んでくるはずの光が全く見えなかった。

 五人は、ヘッドライトに照らされた痘痕模様の内壁と共に、底なしの常闇へと下降し続けた。幸恵が例えたように、トンネル内のその異様さは大蛇か魔物の腹の中を連想させた。しかも久しぶりに光を浴びてその眩しさに反応しているのか、腹の内側は、ヘッドライトの光の移動に合わせて波打ち躍動しているようにも見えた。闇と光が織りなすパノラマに学生たちは幻惑され、トンネルの内部が徐々に狭まっていく感覚に襲われていた。いまだかつて経験したことのない奇妙な圧迫感に、いつの間にか誰も口をきかなくなっていた。

 奇怪な痣だらけの半円に、このままじわりじわりと押しつぶされて、ひどく苦痛に満ちた最期を、悲鳴が枯れるくらいゆっくりと味わうのではないかと、特に心配性の幸恵はたくましい想像力を働かせていた。


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