第2話
その冬山には厚く冷たい雲が垂れこめて、陰鬱な空気が一帯を支配していた。
雪虫みたいな軽くて細かい雪が降り続き、これから本格的な降雪を予感させた。それらは腹を空かせた吸血虫のように、いつまでも車にまとわりついていた。どんよりした灰黒色の雲に山の稜線はところどころ切断されて、たいして高くもない頂き付近は、吹きつける風により山肌が雪も被らず露わになっていた。
「なんか、それらしきものが見えてきたぞ」
「え、どこさ」
五人の乗る四輪駆動車が、せり出した山の斜面沿いに大きく右に曲がって、両側が開けた雪原の直線道に差し掛かったとき、田川が前方を指さした。
「あの煙みたいのが昇っているところ」
前方の山裾に黒く鎮座するものがあった。その辺りからは白い煙が立ち昇っている。運転手が車の速度を上げると、豆粒大だったものが見る間に大きくなり、すぐ目前までやってきた。
「これは、そこそこ立派だなあ」
大きな丸太を組み合わせた凝った造りの建物があった。旅行雑誌に掲載されても、なんら恥ずかしくはない外観だった。建物の背後からは、白く濁った大量の水蒸気がもくもくと立ち昇っている。入り口付近に、丸太を半分に切断したものを数枚貼りあわせた看板が設置されており、地名の後に温泉という文字が続いていた。それは久志が手配したものと一致していた。
「やっと着いたか」運転手は、安堵しながらハンドルを切った。
「まあまあね」意地悪く値踏みするように、恭子はしげしげと見ていた。
「まあ、久志が手配したわりにはまともだな」渡部も後ろの席から身を乗り出していた。
旅館の前の広場には雪が積もっており、玄関らしき入り口の前は、車が数台駐車できる空間だけ除雪されていた。田川はそこに遠慮なく車を停めた。他には軽自動車が一台あるだけだった。
「久志、おまえが予約したんだから先に行って手続してこいよ」
「ほい」
田川に急かされて久志は車を降りた。久しぶりの寒さに体を丸めながら、一足先に旅館の中へと入っていった。
「それじゃあ、俺たちは荷物でも降ろすか」
渡部の号令で、残った四人も車を降りた。外の冷気を浴びるなり、苦しげな嗚咽とともに、幸恵が胃袋の底から不浄の液体を吐きだした。駆け寄った恭子が背中をさすり、ありふれた言葉で慰めた。なんとか立ち直った幸恵を連れて、四人は建物の中へと入った。
受付台のすぐ隣に、自動販売機と土産物が陳列された棚があった。どこの土産店でも売っている菓子とキーホルダーにはホコリがかぶっていた。たいして広くもないロビーには照明も点いていない。他に客らしき姿もなく、どこか閑散としていた。
久志はロビーの奥にある関係者以外入室厳禁と書かれたドアの前で、でっぷりと樽のように肥えた中年の女と何ごとかを話していた。彼女はどぎつい色のゴム手袋を嵌め、ひどく汚れたエプロンをまとっていた。
「おい久志、部屋の鍵もらったか」
久志は顔面の右半分だけをニヤつかせていた。それを見た田川は嫌な予感がした。彼がその独特な表情をしたときは、決まってロクでもないことが起こるからだ。
「それが、予約が入ってないみたいなんだ」
「えっ」
「なんだって」
驚きの返答だった。言うべき言葉が見当たらず、四人はそれぞれの顔を見つめ合っていたが、やがてその視線は久志に移り、やや間をおいて太ったエプロン女に注がれた。
「なんだい、なんだい、皆で見ちゃってさあ」
中年女は自慢のお腹をつき出して、負けてなるものかと若者たちを睨み返し、そしてまくし立てるように言った。
「予約どころかここはねえ、冬の間は営業してないの。私みたいなババアが一人で掃除や雪かきしてるんだよ。こう見えても屋根に上がって雪もおろすし、ボイラーだってやるんだからね」
この旅館が冬季休業中であり、ここにいるのは維持管理をしている自分だけであることを不機嫌に説明し、最後にこう付け加えた。
「あんたら、どこかと勘違いしてるんだよ」
彼女に言われるまでもなく、五人は見当違いな場所に来てしまったと悟っていた。
「なんか久志が手配したところと、ぜんぜん違う場所に来たみたいね、私たち」
恭子の口調はとげとげしかった。しかし、名指しされた男は反省する様子もなく、とぼけるようにあらぬ方向に顔を向けていた。
「どうするの、これからもどるの」
帰り道の揺れ具合を気にかけた幸恵の言葉に、若者たちは黙り込んでしまった。
これから来た道を戻って山を下るには、彼らは奥に入り込みすぎていた。日暮れも近く、運転手の疲労も見過ごせない域まで達している。街灯ひとつない雪の獣道を、闇の目を盗んで押し進むのは危険だった。なによりも仲間内での楽しい旅を、不愉快の連続のまま終わらせたくないとの気持ちが共通していた。
「ここからずっと奥、この道の行き止まりに古い民家が何軒かあって、ここと同じ名前の民宿があるって聞いたことがあるけどねえ」
不意に中年女が言った。それは何気なくひとり言を口にした、というような言い方だった。
「この辺に、まだ温泉があるのですか」すかさず田川が聞き返した。
「えっ、まあ、この辺っていうわけじゃないけど。とにかく奥だよ」なぜか、彼女は言葉を濁していた。
「ああ、なるほど」
田川は他の四人を見た。すでに渡部と幸恵は床に置いたバックを肩にかけている。恭子も小さく頷いた。
「ここじゃないのなら早いとこ行くか。暗くならないうちに到着しないとな」
学生たちは中年女に軽く頭を下げると、背を向けて歩きだした。
「だけどあんたら、あそこに行くのはやめたほうがいいよ」
渡部が玄関のドアを開けて全員が外に出たところで、後ろから声がかかった。五人が振り返ると、中年女が具合の悪そうな顔で立っている。
「なんでですか」田川が訊いた。
「なんでって、私らもあそこまではいかんよ。いい話は聞かないし、たまにおりてくるのも、とっつきにくい老人ばかりだし。それにさ、啓蟄前にあんな深いとこまで行ったら、それこそなにがでるか」
「けいちつ、って何よ」
「ここらじゃ、明後日が啓蟄の日になるんだよ。とにかく、あんなとこ行ったってロクなことないって」
「もしかして心霊スポットとかですか」せせら笑いながら久志が言った。
中年女は何かを言いかけたが、吐きだされる寸前でその言葉をのみ込んだ。一呼吸おいてから別の言葉を選択する。
「そうやって馬鹿にしてりゃいいよ。深山の気にあたって後悔しても、遅いんだからね」
「なんじゃい、そのなんとかの気ってのは」
かみ合わない会話がしばし続いた。留守番の女は、啓蟄前は縁起が悪いだの不吉だのと言うが、彼女の話に具体的なものはなく、いったい何が問題なのかと問い詰められると口ごもってしまう。そして、考えていることを説明しきれないもどかしさに徐々に苛立ってきて、少しばかり無責任な言葉を残して建物の中に戻ってしまった。
「とにかく、知らないよ。知らないからね」
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