第2話
気付けば、僕は家に着いていた。
玄関の扉を開いて、何日かぶりの自宅へと入った。
照りつける太陽の光がパステルカラーのカーテンに遮られて、部屋中が仄暗く、最後に家を出てから大学の研究室や大学近くの菊谷の家に泊まり込んでいたためか食卓やキッチン、勉強机に積まれた本の上には少し埃が溜まっていた。
汗が染み込んだシャツを脱ぎ、シャワーを浴びる。濡れた髪をドライヤーで乾かし、部屋着に着替え、そうしてやっと訪れた一人で休める時間に僕はいつもならベッドで仮眠を取るところが、その日は渋川さんから預かった盗心器を机に置き、様々な工具、必要な材料を用意した。
僕は、薫のことが分からなくなった。
元より、薫のことを完全に理解していると思っている訳ではない。ただ僕は、僕に何の一言も言わずに他の男と一緒に出かけていた薫のことが信じられなくなったんだ。
それに、興奮とは一体何だ。
男性と一緒に居てする興奮とは、何なんだろうか。
自転車で帰路に着く途中、僕は虚脱感に襲われながら考えた。
薫は浮気をしているのか、否か。
これはただの僕の考えすぎで、僕の勘違いであって、彼氏でもない男の人と一緒に出かけていることは薫にとっては普通のことなのかどうなのか。
それならば、僕と薫との間に価値観の相違があるだけで、僕が薫と話し合いをしたら今回のようなことももしかしたらこれから無くなるのではないか。
僕は考えた。
しかし、僕がどんな思考に陥っても、薫にどんな理由があろうとも、盗心器が示した認めざるを得ない事実だけは拭い去ることができなかった。
そこで、僕はこの盗心器を利用しようと思い至った。より人の心理状態を読み取れるように盗心器を改良し、薫の生体バイタルのデータや心理傾向を記録して薫の本音に限りなく近づこうと考えた。
そして念には念を、無ければそれで構わないが、誰かに協力を頼んで薫の浮気の証拠を押さえることも同時に進めようと考えた。
「菊谷……は話したら協力してくれるだろう」
菊谷のことだ。きっと、僕の胸中も汲んでくれるだろう。
ふと視界に入った、部屋の戸棚には硝子製の写真ケース。その中には薫と僕とがクリスマスイブを二人で迎えた時の写真が収められてあった。薫が、僕の家に遊びに来たときにいつの間にか置いていったものだ。
『シュンくん、わたしが言っても写真なんて飾ってくれないでしょ。だからほら、お揃いの選んでおいたの』
『いや、流石に僕もそこまでひどくないよ……。言ってくれれば一緒に選んだのに、写真ケース。』
『ふふん、口では何とでも言えますよ〜だ』
『いや……。でもあれ、高かったでしょ?薫だけに選ばせちゃったし、申し訳ないからお金は払わせてよ』
『うーん。じゃあさ、シュンくんが申し訳ないなって思うんだったら、これからあの写真を毎日見てあの日の思い出を忘れずにずっと憶えていて欲しいかな。あの時の気持ちのままで変わらずわたしを大切にしてくださいっ……!』
薫ははにかみながら元気にそう言って、呆気に取られた僕を前にとても楽しそうに笑った。僕もつられて笑みが零れて、幸せの一時を感じたんだ。
最近は忙しない日々が続けていて、この写真を見ることも少なくなっていた。写真には雪降る夜の街灯の下、二人して大きく笑い合っている一瞬が映っていた。まるで昨日の事のようにありありと思い出せる記憶の鮮明さ。あの時の僕は彼女の前髪に乗った雪を優しく払い除けてやったっけな。僕としては少し男前なことをやろうとしたつもりだったか。
写真を眺めていると、自然と視界がぼやけ始めるのが分かった。記憶を辿れば、楽しかった思い出ばかりだった。同じバイト先で緊張した初めての会話、思いもよらぬ共通点で意気投合した喜び、実った告白。そこから紡いでいった薫との物語。
湿った目元を指先で流す。
まだ、泣く時ではなかった。僕は確かめなくちゃいけないんだ。
失望、嫉妬、現実逃避、怒り。
それら全てを排除して客観的な事実だけを僕は信じよう。結局、薫とは話し合いをするつもりなのだからその前に出来るだけ証拠は持っておくことに越したことはないはずだ。
僕はスタンドライトの光を付けて、盗心器に向き直った。
幸運の音が鳴るとき 塔石純 @elvc5ll8
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