幸運の音が鳴るとき

塔石純

第1話



あれは、僕が大学2年生の頃だった。

学祭の準備期間に入った頃だったから、6月の半ばであったろうと思う。


当時僕は工学部の出し物を用意するのに忙しく、夜なべで研究室に寝泊まりする日々が続いていた。

そのとき一緒に過ごしていた人は一つ上の先輩の渋川さんと同じく2年の菊谷という男達だった。

僕らが用意しようとしていた出し物は盗聴器ならぬ盗心器とうしんきという代物だった。

この盗心器は半径5m以内の人間の微細な心拍音だけを拾い、その速度を計測、パターンに絞りこんでその人間の心理状態を読み取る機械だった。

掌サイズだが、レーザーポインターのような光を必要とする。

この盗心器を誰かに当てれば、その人物がその時元気か疲れているか判断できる。興奮状態も計測でき、性的興奮を覚えているかも丸わかりだった。


三人で夜食を食べているとき、渋川さんは疲れたような顔で盗心器を自分に当てた。


「……読み取り完了。心拍音、小。心理状態、疲労が大きいと判断されます。直ちに休息を取るべきです、か。なあお前ら、もうこれちゃんと使えるだろ?もう流石に家に帰らない?」


渋川さんは目元の隈が深い顔を僕達に向けてそう言ってきた。


「それはまだ試作段階ですよ、まだちゃんと正常に使えるか確かめないと。それに、あと何個か出し物用意しようって話だったじゃないですか」


カップヌードルの麺を啜りながら、渋川さんにそう言うと、渋川さんは急に甘えたような顔になって、


「なあ、やっぱ出し物これだけにしない?」


「ダメです」


「いいじゃないか、元々これだけ出そうとしていたんだし」


「思ったより結構早く出来上がっちゃって、調子に乗ってアイデアぽんぽん出した挙句一番大事な制作を俺たちに押し付けたのはどこの誰ですか?」


渋川さんはそれから急にしょんぼりしたように、申し訳なさそうにズルズルとうどうを食べ始めた。


「瞬、まあそう怒んなって。渋川先輩も今疲れてるんだし、実際制作もまだ全然手付けてないだろ俺ら?ここはチームだ、一緒にがんばろーぜ」


「……渋川さんの設計書がミスってたからこうして皆で直そうと今この研究室に残ることになったんだけどね」


「……まあそれは否定しない」


「おい菊谷ぁ……みんなごめんて」


渋川さんを援護していた菊谷も渋川さんのせいで家に帰れずこうして研究室に居残ることになったのを認めていた。菊谷は渋川さんに憐憫の視線を送っていると、何かを思い出したかのように顔を向けて僕に話かけた。


「そういえばしゅん、お前最近どうなんだよ。水瀬さんとは」


「……あぁ」


食べるのを一旦やめて、顔を上げて空を見る。

菊谷の尋ねる水瀬さんとは、水瀬薫みなせかおるのことであり僕の彼女のことであった。

最近家に帰らない日々が続いていて直接会える機会を失っていた。

ただ、スマホで連絡は毎日していたが、あちらも学祭の準備で忙しくしているせいか返信のペースがいつもより遅かった。こちらも返せない時間がやや多くなっていたため、普通のことと考えていたが、ふとよく考えてみたら少し心配なところもあった。


「いや、連絡だけは毎日してるよ」


「なんだ連絡だけか?あんな可愛いのに、勿体ねえな。もしかして浮気されてるんじゃね?」


「薫はそんなことはしません!……多分」


「ん?青沼、彼女なんていたのか?」


「そうなんすよ渋川先輩、聞いてくださいよ。瞬のやつ、水瀬さんに一目惚れして普段絶対しないのに告白したんですよ。めっちゃ可愛くて何人も告白して玉砕してるのに、瞬だけOKされたんですよ。凄くないすか?」


「水瀬って、あの水瀬薫か?」


「……はい、そうです。今でも何で俺だけがOKされたのか不思議ですけど……」



僕は大学入学してすぐに水瀬薫という女性を知った。艶やかな黒髪、朗らかで嫋やかな性格に端正の整った顔立ちで瞬く間に水瀬薫という名が大学全体に広まった。

告白する人が後を絶たず、先輩同年問わず彼女は人気者だった。


僕はそんな彼女と偶然にも同じバイト先で一緒に働いていた。バイト先は書店、大学から離れた所にある個人店の本屋で僕は彼女と週二で話す間柄になった。


最初はすごく可愛い人だな、と思っていたが同じ作家を好んでいたことが分かって意気投合し、次第に惹かれ始めた。まあ周りの人達には何故好きになったのかを説明するのが面倒で一目惚れをしたと嘘を吐いたが。

噂では、彼女は告白を受けて振った後も欠かさずフォローをしており、振られてしまった本人の意向によって今までの関係を続けさえしてくれる優しい人だとも言われていた。

僕は初めての恋心を自覚し、その思いに耐えられず、その噂もあって半分期待と半分軽い気持ちで彼女に告白をした。

当たって砕けろ、砕けてしまえばこの気持ちも楽になれるなんていう生半可な気持ちを抱えて、しかし目の前に現れたその美貌に緊張と焦り、いささかな期待が生じた。


告白をし終えた後、「薫さんは、この後も僕と友達でいてくれるのかな」と既にフラれるという前提で考えていた。

しかし、いくら返事を待てど、彼女の答えは一向に出なかった。長い沈黙だった。温い風が僕を包みこみ、待ちきれなくなった僕は頭を下げた姿勢から顔を上げて、彼女のことを見つめ直した。

すると、彼女はにんまりと微笑み、よろしくお願いします、と嬉しそうに告げた。


…………。

……。


思い返せば、恥ずかしくもあり嬉しくもある信じられない記憶だが、しかし何故彼女が僕をフラずに選んでくれたのかは釈然としなかった。後で理由を聞いても、笑ってはぐらかされたり誤魔化されたりするばかり。一体あの長い沈黙の最中、彼女の頭の中でどんな逡巡が駆け巡ったのだろうか。

僕は、今となってもその答えが知りたかった。


「お、青沼が興奮している」


不意に渋川さんがそう言い、視線を向けると右手に盗心器を持って僕に向けていた。もう一方の手にはレーザーを携えていてそこから光を射出し、僕の心拍音を拾っていた。


「まあ、仕方ないよ。あの水瀬は見るからにおっぱいがデカいからなぁ……」


「おい渋川、まじでぶっ殺しますよ」





結局、僕らが家に帰れたのは翌日の昼頃だった。あの後、盗心器が壊れていると判断した僕は渋川先輩の反対を押し切って盗心器を直すと決めた。他の制作の設計図を直す一方、僕は盗心器を直そうとするも、先輩の妨害もあって全く進まなかった。こう見えても工学部の端くれ、意地でもこれを修理しようと僕は最後に先輩から盗心器を預かり、もとい取り上げて家まで持ち帰った。

家にも工具はある、帰って片手間にでも直すかと考えて帰路に着いた時だった。


大学から自転車で家に向かう途中、僕の目に見知った顔が映った。濃い夏の光が、真向かいから強く差して眩しくとも、その人物の輪郭だけはすぐに分かった。


「……薫」


まだ僕の自宅までは遠い。しかし、彼女の家や大学からもそう近く無い距離で彼女の姿を見たため、僕は思わずブレーキを思いっきり押してしまった。


薫は一人ではなかった。

白の帽子を目深に被って白のノースリーブと黒のスカートを身につけおり、僕が薫に対して初めて見るような服装だった。


隣を見れば、スラリとした高身長の男性が一緒に歩いていた。大学では見た事のない顔ぶれだった。


何も知らない者が傍から見れば、カップルと見紛う程釣り合いが取れた関係に見て取れる。そう、何も知らない者が見れば。


僕は、無意識にスマホの画面を開いて薫とのトークを開いた。昨日の夜に僕が送ったメッセージを皮切りに、彼女の返信は未だなかった。いつも朝は返してくれるのに、今日は返信がなかった。


『男友達?んー、いるけど彼氏じゃない人と一緒にご飯行ったりしないよ。女の子の友達優先しちゃうし、シュンくんに誤解されたくないから一緒にいるところも全然ないからね』


彼女がサークルの集まりでの食事を断った時にその理由を尋ねた記憶を突如思い出した。

今ここで思い出しても意味はないというのに。



それに、僕が一瞬で帽子を被る女性を薫だと分かったのは、彼女が隣の男性に笑うとき彼女の横顔が覗けたからだった。その横顔を僕は世界で一番知っている自信があったからだった。


これは、嫉妬ではなかった。僕は自転車を置いて恐る恐る、彼女と男性の二人の後を追った。十分彼らに近づくも、薫はこちらに気付く素振りを見せなかった。

僕は鞄に閉まってある、盗心器を出した。

この盗心器は壊れている。しかし、僕は安心がしたかった。これを彼女に当てて、彼女は疲れていると、その答えが欲しかった。


僕は徐々に距離を狭めた。暑さのせいか、額に汗が滲んだ。6月の暑さも舐めたらダメだな、と僕は思った。

そして、十分距離が縮まって僕は震える手で盗心器とレーザーを彼女に当てた。

彼らは会話に興じているのか、こんなに近くにいる僕にもこのレーザーの光にも気付けていなかった。


大丈夫、薫は大丈夫だから。ただ、隣の男性と楽しく話しをしているだけなんだ。薫は友達が多くて、優しいから。


『なんだ連絡だけか?あんな可愛いのに、勿体ねえな。もしかして浮気されてるんじゃね?』


菊谷の冗談も、ただの冗談のはずだから。


「……読み取り完了。心拍音、大。心理状態、興奮と判断されます。速やかに休憩を……」



無感情な音声が望まぬ結果を告げた。やはり、この盗心器は壊れている。それに、心拍音が大きいのはこの暑さのせいだ。血流が良くなっているだけに過ぎないんだ。


そう、そうに違いないんだ。


薫を見れば、薫は肩を震わせて男性の言ったことを笑っている。堪えている。

とても、楽しそうに見えた。仲睦まじい姿に、誰かの心が崩れる音がした。


そうか、僕はダメだったんだ。あの男に負けたんだ。いや、最初から僕のことなんて……。



僕は、そっと盗心器をポケットに仕舞い、そこから背を向けてその場を去った。





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