第13話
夜会「聖域」が開催される3日前。
ナンジェタンの通りは道が細く雑然としていた。埃のかぶった空きテナントと、隣り合わせる新店舗は工事中のまま放置されている。敷き詰められた道路のタイルは所々剥がれ落ち、地面がむき出しになっていた。その道を車やバイクが賑やか往来し、地面のでこぼこにタイヤを押しつけている。盗まれたらしき自転車は持ち主に会えることもなく建物の隙間に押し込まれたまま錆果てていた。
この街に来るのにはじめてバイクタクシーを捕まえた。スクーターの後席にまたがりドライバーにしがみつく。密着するドライバーのやわらかいお腹と自分の手のひらが緊張で次第に汗ばんできて、やはり私は日本人なのだと再認識することとなった。正直苦手だ。
でももう苦手だと言っている場合じゃない。これからいくつもの”はじめて ”を乗り越えなければならない。真理恵は吹っ切れていた。覚悟を決めた、とも言い換えていい。
下宿している” ルアン ”から隣り合う街ナンジェタンまでやってきたのは大きめの電気街があるからだ。電気街といっても秋葉原のようなビル群を想像してはいけない。数軒の家電用品店とジャンク屋とも言える中古品店が並んでいるだけだ。ただ、いま真理恵が探している品物は都市部の大きな量販店では逆に手に入らないものだった。つまり「一般向けじゃないもの」である。
店員に怪訝そうな視線を向けられながら、3軒目の中古品店でそれは見つかった。
「探しておいてなんだけど、本当にあるとは」
しばらく愕然としてしまった。薄いジュラルミンのアタッシュケースの中に丸めて収めてある直径5ミリ、長さ1.5メートルの黒く長い物体。先端には焦点距離無限大の極小レンズが、根元には無線の送信機が付いている。つまりはこれ盗撮用のカメラだ。仕事では使ったことのないメーカーだったがなんとか扱えそうだ。さすがにレジに持って行くときドキドキしたが、幸い使用用途について問われることはなかった。気のせいか店員がニヤニヤしていたようにも感じたが・・。
名誉のために断言しておくと、もちろん真理恵はこの手のカメラを犯罪目的で使用したことはない。一度万引き捜査の取材でトートバッグに忍ばせて撮影したことがあるだけで当然店側の許可も取っている。しかし今回ばかりは限りなく黒に近いグレーな撮影になりそうだ。
店から出ると、ホームレスの親子が道に背を向けて横たわっていた。この国の気候では凍え死ぬことは無いだろうが近くに飲食店もなくさぞひもじいだろう。その横を、後ろ暗いカメラを高値で買った日本人が通り過ぎる。真理恵は喉の奥に苦みを感じながら足早に次の店へと向かった。
翌日の午後、真理恵はルアンの南西に位置する工業団地にいた。海を臨む川沿いにいくつかの工場が隣り合わせで並んでいる。どの工場も就業中なのか通りに人影はなく、定期的にトラックの往来があるだけだ。
真理恵は団地内に設けられた緑地公園にひとり、ベンチに腰掛けていた。白のワイシャツにタイトスカートというOLスタイル。加えて必要も無いのにサングラスまでかけている。顔を見られて困るようなことはないが、家にリコの忘れ物があったのでなんとなく持ってきてしまった。
膝上のノートパソコンを操作して、さもりりしく仕事をしている。ように見せかけてはいるが、画面に映っているのはとある工場の出入口だ。ノートパソコンから伸びる黒のケーブルをたどると、うっそうとした茂みに隠された単眼望遠カメラに行き着く。これも昨日の電気街で買った物で、こちらは有線でしか使えないが4000円程度で購入できてしまった。
幸い辺りは人影がなく、鳥の声だけが爽やかに響いている。
真理恵は監視映像に動きがあるまでの間、スマホをスナップして何度目かわからない名刺を表示させた。
赤い雄牛のロゴマークに「ゴラメラ社」とある。何枚かあった名刺の中でこの名前にだけピンときた。スーパーで格安の牛肉を買おうとしたとき、リコに猛反対された記憶が甦る。今思えば、やはりあの反応は不自然すぎた。名刺と一緒に入っていた無数のメモにこの会社と麻薬組織に繋がりがあることが仄めかされていた。
ネットで調べるとゴラメラ社はアルゼンチンから各国へ牛肉を輸出して現地で販売している企業だった。なんと日本にも支社がある。牛肉の消費需要が少ないこの国にわざわざ輸出して安値で販売している。まるでそれが、そもそもの目的ではないかのように。
薄曇りの空の向こうで鐘が鳴った。公園の時計は17時を指している。だいたいこのくらいの時間に業務が終わる工場が多いみたいだ。望遠カメラ越しにゴラメラ社の出入り口からも、従業員らしい数台のスクーターが飛び出してきたのが見えた。大きな工場ではないから従業員もあまり多くないかもしれない。その数分後ようやく人影が見える。最初は3人の若い女性。しゃべりながら出てきた。3人とも頭にスカーフを巻き付けている。惜しいけどハードルが高いのでパス。次に年配の男性。これは明らかに無理。最後に出てきた女性に、真理恵は強い視線を向ける。背格好は真理恵と同じくらいで頭にスカーフを巻き付けている。しかも一人だ。
きた!!
急いでノートパソコンを閉じ、通りへダッシュ。彼女の進む方へ先回りし、必死で息を整えてから声をかけた。
「こんにちは。ちょっといいかしら。英語はわかる?」
「? あ、はい。少しなら。なんでしょうか」
少し浅黒い肌、遠くからはわからなかったが、まだ20歳そこそこに見える若い女性だった。頭に巻いたスカーフはイスラムの教えに従っている証拠。
「わたし、こういう者なんだけれど」
震えながら赤い雄牛のロゴが入った名刺を手渡す。名刺には ”ゴラメラ・ジャパン品質責任者 ノリエ・スメラギ ”と書いてある。もちろん内容はでたらめだ。
「日本支社のかた、ですか!? なぜわざわざ?」
「実はアルゼンチンの本社からの命令を受けて来たんです。ちょっとお時間いただけますか」
こう言われて断れる従業員はいない。心を痛めながら最寄りの喫茶店に誘導する。
「実は・・。この国で販売している商品の品質が落ちているとの密告がありまして。抜き打ち監査を行うためにこの国に来ました」
頼んだトロピカルジュースを挟んで、彼女の目はまん丸になっている。さすがに設定が胡散臭すぎたか・・・。
「まあ。なんだかスパイみたいですね!」
意外にも目を輝かせている。まあ、実際にスパイなんだけど。
「それで、管理者に気づかれないように工場内の衛生状態を確認する方法を探していたんです。もしご協力いただけるなら特別報酬もお支払いできます」
テーブル上で滑らせた便箋には先ほどキャッシャーで下ろしてきた現金が入っている。彼女はチラッと中身を見ると、さらにまんまるな目になった。
「こんなにいただいてしまっていいんですか?」
「ええもちろん。特別、ですから」
「・・・なんでも聞いてください!」
素直な瞳にまた罪悪感が募る真理恵なのだった。まず、彼女はアウラさんといい、インドネシアからの移民2世で4人家族。現地人が好まない牛肉加工の工場にはイスラム教徒の出稼ぎが多いことを教えてくれた。ここまでは予想通りだ。彼女に声をかけたのもそういう理由からだった。
「なにか、工場内で変わったことや疑問に思ったことはないかしら。そこが品質に影響しているかもしれないから。気づいたことはなんでもいいのだけど」
「ううーん、私は他の仕事をしたことがないので変わっているかどうかわからないんですけど、普通牛肉って首の部分も食べるじゃないですか?」
「牛の首の部分ね。煮込み用として売ったりするわね」
「うちの工場だと丸ごと捨てちゃうんですよ。衛生上良くないからって」
牛肉が輸出される場合の多くは「枝肉」という、牛の内臓や危険部位を除去して2枚に卸した状態で冷凍し、出荷されることが多い。この工場も入荷した冷凍枝肉をさらに細かく部位別に解体して流通業者に卸しているのだという。しかし、通常食べられる部位を捨ててしまうのがよくわからない。
「それは変ね。マニュアル外の事が行われているかもしれない。やはり直接現場をチェックしないことにはわからないわね。そこでお願いなのだけど・・」
真理恵は核心に入る。
「管理者に気づかれないように工場内に入りたいの。できるかしら」
生唾を飲んだその瞬間、彼女の彫りの深い黒目が鋭く光った。しまった、唐突すぎただろうか。
「お姉さんプロですね、すごいです! 私たちの管理者はとっても嫌なヤツなので必ず本部に報告してくださいね!」
なんだろう、胃がキリキリする。わかっていたけど詐欺師や悪女には絶対に向いていないと確信した真理恵だった。
そしてついに、リコの言うタイムリミット前日の朝を迎える。
一晩落ち着いて考えてみて、真理恵の脳裏には取り返しが付かないことをしているという自覚がふつふつと沸いてきた。運良くなにか情報が掴めたとして、工場で働いているあの女の子たちが責められたり最悪職を失うことになってしまう。身分を偽った不法侵入者のせいで。
ただ、その彼らを騙して違法行為の肩代わりをさせているのだとしたら許せないし、リコを含めて一生を台無しにされた人々がいるという事実が真理恵の背中を力強く押していた。
朝7時半。この国の朝は気だるさの中にあった。生ぬるい風を頬に当てて歩く。土地の雰囲気に合わせたラフな格好。頭にはスカーフを巻いて口にはマスクをしている。肩に食い込ませた大柄のトートバックの中には機材の入った薄いアタッシュケースが入っている。「一方向に曲がっている」と整体に言われた身体にしっくりくる重さ。懐かしい。
そうこうしているうちに工場の入り口に差し掛かった。無意識に息を止めながら守衛の前を通る。
「おい」
心臓が止まりそうになりながら首にかけたアウラの顔写真入りIDを見せると、すんなりと通された。警備はザルだ。教わった通り裏手の通用口に近づく。今度はスカーフをかぶった女の子3人が壁にもたれて待ち構えていた。
「お姉さん、本部の偉いヒトなんですよね?アウラから聞いています。ここからはずっと監視カメラがあるんで気をつけてくださいね」
一人で入ってもすぐ気づかれてしまうから、と彼女たちにも声をかけて ”特別報酬 ”は山分けするのだとアウラは言っていた。なんともたくましい。いや、ありがたい。今は味方が多い方がいい。
彼女たちに連れられて、通用口でIDカードをタッチする。重たい鉄の扉が解錠され、身体で押し開いた。外の賑やかで優しい空気を押し出すように、暗い通路から冷たい風が流れてくる。かつて自分が捕らわれていたあの東京の雑居ビルみたいに、人の心を閉じ込めてしまう陰湿な重力を肌が思い出していた。
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