第14話

東京駅の地下へと続く長い長いエスカレーターに身を任せる。早めの夕飯を駅ナカですませた真理恵は、大きめのスーツケースを伴いながらホームへと続く地下通路をひとり歩いていた。途中大きな旅行鞄を背負った外国人とすれ違い、色とりどりのスーツケースを連れた大学生達に追い抜かれ、19時2分発の成田エクスプレスにすべり込む。

列車は定刻で発車した。地上に這い出た列車の車内には走行音と静かに打ち付ける雨音に混じって様々な言語の囁きが漂っている。現実とも非現実とも言えない浮ついた空気が真理恵を少しだけ不安にさせた。


このままだと私は飛び立ってしまうんだろうな


まだ どこか他人事だった。車窓にへばりついた雨粒たちは細い無数の川になって、灰色の景色とともに背後へと流れていく。


本当にしょうがないやつだと自分でも思う。真理恵は自分を保守的だという自覚を持ちながら、時に油断のならない行動に出るのを嫌と言うほど知っている。要は自分という存在が希薄なのだ。他人様に迷惑をかけてはならないと思うのも、自分をぞんざいに扱ってしまうのも、結局は自分に価値を感じていない裏返しでもあった。そんなだから思い出したくない過去もたくさんある。思い出したくない、と意識するほど ”奴ら ”はどこからか染み出してきて目の前にかたちを作るのだ。


目の前の簡易テーブルに置かれたペットボトルでは、飲みかけのウーロン茶が細かく波紋を刻んでは互いを打ち消し合っていた。混濁した意識はまた、2年前のあの日に遡る。



「ここだけはさすがに監視カメラはないから。安心して」


女子更衣室に入った少女たちはアウラのロッカーを指さしてそう笑った。ロッカーを開けると一着だけクリーニング済みの防塵服がかけられていた。そのことからも今日が週末日であることがわかる。胸元にはローマ字で ” アウラ ”と名前が書かれていた。彼女たちが白の上下に手早く着替えていく様子を横目で見ながら、真理恵は重々しいアタッシュケースを開けて例の ”黒ヘビ ”を取り出した。防塵服にはポケットがないので、黒ヘビ本体をストッキングに通して肌着の上に ”たすき掛け ”にし、胸元で結ぶ。黒ヘビの先端カメラ部は左手首に直接テーピングで巻き付けて固定した。その上から防塵服を羽織ると袖の”絞り ”と手袋の隙間からわずかにカメラ先端が露出するという寸法だ。これならずり落ちてこないし服の上から触られることがない限り存在がバレることはない。我ながら実に小賢しい。


ひとり悦に入っていると、気づけば少女達が、好奇心いっぱいの瞳で真理恵を取り囲んでいた。


「プロっぽ~~い!」

「しゃ、写真はやめて」

「ジョーダン。わかってますって」


お気楽なものだ。でもあっけらかんとしている彼女たちと話しをしていると少し心が軽くなる。

リーダー格の少女が「じゃあ行きますか」と声をかけると、真理恵を挟むかたちで4人が移動を開始した。全員宇宙服みたいに上から下まで真っ白の服。目元しか露出していない上にゴーグルをしているので誰が誰だかわからない。一方通行の通路を進み数回の洗浄とエアブローを繰り返すとようやく工場内に入ることができた。これらの儀式は過去に食品工場の取材に入ったことがあるのでなんとか迷わずこなすことができた。


透明なスダレを越えた瞬間、頬に冷気を感じる。目の前を人の身長ほどある大きな肉の塊がゆっくりと横切っていった。先を見ると男性らしきふたりが、大きなのこぎりみたいな機械で肉塊を3つに等分するとさらにコンベアに流していく。


「遅いぞお前ら!早く配置につけ!」


ひとりの男性が声を上げる。


「こっちこっち(あいつが管理者です。むかつくんで本部への連絡お願いしますね)」


少女が小声で教えてくれる。進む先に彼女たちの職場があった。数メートル角の巨大なテーブルの上で肉塊を部位別に切り分けている工程のようだった。

4名2班が巨大なまな板の上に載せてナイフを使って部位別に解体していく。肩ロース、バラ、リブ・・。真理恵は解体された部位を仕分け箱にいれていく運搬作業を担当することになった。まわりをチラチラ見ながら怪しい点がないか左手のカメラを向ける。どんなきっかけでもいい違法輸入の証拠が掴めれば・・。カメラを向けた先の映像がどんな画角で映っているか無意識のうちに計算していて、「職業病とは魂に刻まれているんだな」と苦笑いした。最初は寒いくらいだったが動き続ける内に蒸れて暑苦しくなってくる。少し着込み過ぎたみたいだ。失敗した。


「 ”アウラ ”ゴミがいっぱいになったから捨て来い!」


管理者から現地語で指示が入る。誰のことかと思ったが、真理恵のことだ。黄色のバケツにいっぱいになった首肉を、構内の壁に開けられた専用の廃棄口に捨てるように言われた。


思った以上に重いバケツを持って歩く。マスクの息苦しさがゴーグルを曇らせて、つい長靴の先端を段差にひっかけてしまった。


しまっ・・!


気づいた瞬間にはバケツに向かって倒れ込むように転倒していた。


「なにをやってる!モタモタすんな!」


管理者の激が飛び頭が真っ白になる。


「 ”アウラ ”具合が悪いみたいだからトイレに。女の子の日みたいで~」

「チッ すぐ戻れよ!」


少女たちがフォローしてくれなかったら危なかった。

少女のひとりに連れられてトイレに入る。


「ありがとう、外で待っていて。すぐ戻るわね」


個室に入るなり防塵服のファスナーを緩めると蒸れた空気が湯気となって上がった。真理恵は息を荒くしながら、裾の絞りに入れた”それ ”を取り出した。便座蓋の上に置いた赤いブロックには白のスジが無数に入っている。


牛の首肉だ。「なぜかこの部分を捨ててしまう」と聞いてからずっと気になっていた。


謀らずも転んでバケツに手を突っ込んだ際に服の中にしまい込んでいた。注意深く肉塊の周囲を観察すると、うっすらと切り込みが見えた。周辺を触るとゴワゴワとした異物感がある。切り込み口に指を突っ込んで何かをつかみ取る。


何、これ・・?


中からは平べったい半透明な樹脂の塊が出てきた。ちょうど家の鍵ほどの大きさだ。


この中に何かが・・・。


真理恵は謎の真相にたどり着いたことを直感的に悟った。

その時、トイレの外から現地語で


「なにのんびりしてる!?早く戻れ!」


との声が。まずい、これ以上はさすがに怪しまれる。でもこの中身が知りたい。

真理恵は両の手で透明な樹脂を掴み、強く捻り上げた。


パキッ


という か弱い音と共に樹脂に亀裂が入り真っ二つに割れた。まるで砂時計の砂みたいに、肌色の粉体は手元からこぼれ落ちて白い便座蓋の上に小さな小さな砂山を作った。


唖然とする真理恵の心臓はバクバクと脈打ち身体を揺らしている。遠く、耳に入る管理者の声。左手のカメラレンズだけが一部始終を冷淡に見つめ続けていた。



    ――※――



昼のあいだ権力を振るっていた太陽はその主導権を失って久しい。黒く光る雨上がりの道路は小さな無数の水たまりを作っていた。その上をゆっくりと高級車の太いタイヤが蹂躙していく。いつもならうるさいくらいに輝いている、バー ”シルバーキャッツ ”のネオン看板は息を潜め、か細い街灯が道路に連なる漆黒の車たちを怪しく煌めかせていた。そこへ一台のキャデラックが音も無く店の前に寄せた。


リコはアギーラのエスコートを受けながら車から降りると、敵の牙城を静かに睨み付けた。店は二階建てで四方を道路が囲んでいた。一階は一般客向けのダンスホール、二階はVIP向けの個室が連なっているとサックンからは聞いている。


「今日は一段とエレガントだねリコ。このパーティーにふさわしいよ」


この日のために用意した白のドレスは肩口にレースをあしらい、足下に届きそうなマーメイドラインは膝上までスリットが入っている。

「ええ」


できるだけ小さな歩幅で踏み出す。スリットから内ももが見えてはならない。その場所にはガーターホルスターに収められた9mm口径の小型拳銃 ”グロック26 ”が下げられている。リコの唯一の牙であり、仇敵の息の根を止める聖なる剣。この ”聖域 ”と名の付く閉ざされた夜会で、リコから永遠に ”リコ ”を奪ったこの世の癌を取り除いてみせる。


「まだパーティーには時間がある。2階のVIPルームで休むといい。僕は少し挨拶回りをしてから合流するよ」


目配せした黒服に案内されて2階に上がる。本当はアギーラと一緒に関係者に接触したかったが、それも不自然な気がして指示に従った。パーティーが始まってからでも主催者のホセに接触できる機会は十分あるだろう。

分厚い革張り扉の向こうは2~3人用の小さな個室で、黒いソファーとガラスのテーブルを備えている。部屋には誰もおらず、テーブル上にはお菓子が詰まったおつまみカゴと、空のティーカップ。リコが着席するなり、黒服が黒っぽいお茶を注ぐ。


「変わった色のお茶ね」

「ですね。オーナーの故郷のアルゼンチンのお茶だそうですよ、どうぞ。こちらでしばらくお待ちください」


と黒服は言い残して退室した。行ったことも無い南米の国に恨みは無いが、この国に、最愛の姉に災いをもたらした罪は重い。罪は必ずその血で賄ってもらう。リコはスカート上からホルスターを撫でる。軍隊にいた頃に比べて筋力の落ちている今のリコが確実に相手の急所を射抜くためには少なくとも2~3mの場所まで接近せねばならないだろう。


さて、どうしたものか・・。


気持ちを落ち着かせるためにティーカップに口をつける。なるほど確かに今まで味わったことの無い味だ。紅茶よりも漢方や雑穀茶のそれに近い。ほろ苦い口当たりの向こうにコクとわずかな薬臭さがある。


さりとて、こんなところでじっとしているわけにもいかない。トイレに行くフリをして店内の間取りを確認しておこう。と、腰を上げたそのときだった。


視界がぐにゃりとねじ曲がり、あわててテーブルを掴んで踏みとどまる。


しまった・・! お茶に・・?


後悔も十分できないまま回転した世界はリコを暗闇に捕らえたままついにその主導権を返すことはなかった。

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