第12話

その夜のことはいやに鮮明に覚えている。客入りの多い時間帯になっても馴染みの客以外は来店が無く、いつもはひっぱり回される嬢たちものんびりと談笑していた。カウンターに居座っている ”ディー ”は相変わらずだらだらとウィスキーを飲んではチェンに絡んでいるが、当のチェンは怪訝そうな顔でグラスを拭く時間が多くあった。雨が降っているわけでも、海風がびゅうびゅう吹いているわけでも無い。そんな穏やかな夜なのに、リコは胸騒ぎがして仕方がなかった。それは、このあと来店する予定の客に身構えているせいでもあったかもしれない。


10時を過ぎたころ、その客は店のドアを開けた。


カラン 


聞き慣れたはずの音のする方へ、リコはゆっくりと視線を移す。

ドアを静かに押して入ってきた男は長身で、この暑い中グレーのスーツを着込んでいる。


「やあ。」


リコを見るなり、その男は確信的に声を掛けてきた。低く乾いた声。色黒で面長の顔つき。南米系の外国人だった。声に反応したのか、いつの間にかカウンターのディーが半身ごと振り返っている。


「アギーラ・・! てめえ何しにきやがった」

「久しいなディー、相変わらず戦争ごっこでもやっているのか?」

「うるせえ、その話はするな。何の用なんだと言っている」

「勘違いするな。別にお前に会いに来たわけでは無い。今夜はそこなお嬢さんに招待されたのさ」


アギーラと呼ばれた男はリコをちらりと見る。


「そんなわけねえだろう」

「私が呼んだの」

「・・ハァ??正気か?リコち、こいつがどこのどういう奴か知っていて--」

「ディー! 私の客よ」


ディーはしばらくリコ視線を合わせたあと憚らずに舌打ちをして、リコの耳元にひげ面を寄せながら、


「リコちよぉ、何があったのは聞かんがシロウトがあんまり深入りせんほうがいいぜ。世の中には見ない方がいいこともある。確かに忠告したからな?」


席を立って出口へと向かう。


「そいつと一緒にいると酒がまずくなる。今日はこれで退散させてもらうぜ」


アギーラの脇を通ってディーが出て行った後のことは、正直よく覚えていない。ぎこちなく浮ついた店内。続かない会話。緊張を紛らわすためにいつもよりお酒を飲んだからだろうか。

気づけばリコは闇に捕らわれた一室で、白く光る目が上下に揺れるのを目の前で見ていた。気に入った相手にしか許さなかったアフターは自尊心を失わないために唯一気をつけていたこと。それを破っても姉への手がかりを手に入れたいと思った。


本当に?


痛みを感じる度に何が本心なのかわからなくなる。やめて、逃げ出したい、やめて、逃げ出したい、こんなの、死んでしまえばいい、私なんて、死んでしまえばいい、やめて


やめて  やmて


ym y


yyy




ああ、


ああ、どこで

どこで間違ったのだろう


道は

一本しかなかった

はずなのに


マーレ


帰ったら、叱られてもいい、

うずくまって一緒に眠ろう


全てわすれて



カナリアの子供はどこで寝る。アオレオレ。

お母さんにくるまれて 穏やかな風が吹くよ。

あなたの翼はまだ弱く ひとりでは飛べないけど

眠っていた茂みで ごはんをもらうよ。

カナリアの子供はどこで寝る。アオレオレ。

天の恵みにくるまれて 穏やかな風が吹くよ。



頭がガンガンする。足は重い。真理恵の家の立て付けの悪い玄関ドアがこんなに疎ましく感じたことはなかった。この家に初めて訪れた日、ドアを蹴り開けたときの真理恵のまん丸な目を思い出して、リコは苦笑いする。シャワーなんて明日でいい。あのふかふかのベッドに飛び込みたい。


暗い室内に入ってまず奥の寝室のクローゼットが開かれているのが目に入った。胸騒ぎがして寝室に移ると、そこに真理恵の姿はなかった。間接照明に照らされて小さなテーブルに置き手紙があることに気づいた。


『桟橋にきて。ずっと待ってる。 真理恵』



彼女の筆跡。なにも考えられないまま、また重い足を引きずって家を出た。スマホのライトで足下を照らしながら。


ふたりで行った海岸にたどり着くと、遠く海の中に光が見えた。導かれるままに船着き場に至る。空に月は無く、かわりに無数の星々が瞬いている。桟橋で光る小さなオレンジの灯火は、この無限に続くかと思われる暗闇の海原で唯一の灯台のようにも思えた。



    ――※――



時は少し遡る。



足下に続く砂浜と緑色のサンダルを、持ってきたランタンの光が照らしていた。このオイルランタンは船舶灯と呼ばれていて本来は船の上で使うものらしい。街の露店でアンティークとして売られていたのをリコがめざとく掴み上げた。「ばあちゃんの家にあってご飯を食べるときに使っていた」と、懐かしがって目を細めていたのを見て、真理恵がかわりに購入したものだった。それからというもの、夜ふたりで庭に寝転がって涼むときに使っているお気に入りのランタンだ。


海岸に一カ所だけあるレジャーボート用の船着き場に差し掛かった。昼間見たときは木製の板が一直線に水平線まで続いているように見えて、海に橋が架かっているみたいだと真理恵は思った。


足下をランタンで照らしながら慎重に桟橋を歩いて行く。まるでこのまま海の中に入っていくような感覚。


子供の頃、広い海の中は行って帰ってこられない恐怖の対象だった。暗い海の淵から悪い化け物が陸に上がってくる、そういう妄想に捕らわれたこともあった。でも今は、社会のしがらみから逃れてどこか遠くに消えて無くなることができる「救い」の印象の方が強い。海なんかよりも人間のほうがよっぽど恐いって気づいてしまったから。


一歩、一歩。行き止まりまで歩いて桟橋から足を放り出すように腰掛ける。


やがて遠くに見える繁華街のネオンや港の街灯が順番に消えると、世界は橋桁の上に置いたランタンの炎が照らす半径数メートルにまで小さくなった。持ってきたジュエリーボックスのガラスの宝石がランタンの光を反射して七色に光っていた。


海は凪いでいた。足下の橋桁に小さな波がちゃぷ、ちゃぷと規則的にぶつかる音だけがこの世の全てだった。


家を出てから何時間たっただろう。まどろんでいる真理恵の耳に、ギシ、ギシ と聞き慣れたリズムが届く。その足音でリコが来たのだと確信できた。


「まっすぐ来れた?」


「・・・うん」


真理恵は立ち上がって、赤いジュエリーボックスを腕の中に抱える。

「見たの?・・中身を」

「うん。リコは何をしようとしているの」

「マーレには関係ない」


真理恵はすうっと息をすって、ジュエリーボックスの蓋を開ける。

リコが軽く叫んだ瞬間、突然吹いた海風がふたりの足下から上空に吹き上げる。小さな紙片が無数に舞い上がって闇夜に無数の羽根となって飛んでいく。


「やめなさい!」


箱の中に手を入れた真理恵を制止しようとリコが叫んだが、その思いは通じなかった。真理恵は箱の中から黒色の禍々しい塊を掴み上げる。


「ああ・・なんてこと」

「リコ、これは何のために使おうとしているの?答えて!」


真理恵の右手の中には15cm程度の小さな拳銃が握られている。


「モデルガン、おもちゃだよ。だから返して」

「嘘よ。それくらい私にもわかる。鉄の焼けた匂いがした。これ、本物なんでしょう?」


「お前には関係ないと言っているだろう!」


リコの怒気が余韻を残しながら、ふたりの間を静寂が包んだ。


「これ以上 私を(俺を)惑わさないで!」

「リコ。全部話してくれるって約束して。 でなければ、このままぜんぶ、海に捨てるわ」


桟橋に寄せる波がちゃぷ、ちゃぷと音を立てる。

リコはしばらく自分の足下を見ていたが、真理恵が銃を頭上に持ち上げると、観念したのか声をしぼり出す。


「私は(俺は)リコじゃない。弟のテオだ」


彼女は、淡々と自分の過去を話し始めた。それはただの音の振動ではなく魂の嗚咽となって真理恵の胸を揺らした。


” リコ ”は彼女の姉の名だった。母親が蒸発し、幼くして貧しい祖母の家に転がりこんだふたり。生計は主に姉のリコが立てていた。リコは気立てがいい美しい女性で、彼女が夜の店で稼ぐお金が収入源だった。リコはテオにとって母であり、父であり、姉であり、この世に自分が存在していい理由の全てだった。テオはそのことに後ろめたと感謝を抱きながらようやく中学を卒業し、興味のあった美容師の店に住み込みで働けるようになった。これから自分も稼げるようになって全て上手くいく。生活もどんどん良くなっていくし、姉も無理をして夜の仕事をしなくたってよくなる。そう思っていた矢先の事だった。


店で事務所の掃除をしていると一階の店舗でテオを知る女が暴れてるという。急いで階段を降りる。そこには痩せ細った最愛の姉が、喚きながら店員に取り押さえられている姿があった。


「テオ!テオ助けて!この人達が乱暴をするの!」

慌てて姉を外に連れ出す。白日の元に晒された姉はかつての美しさを失っていた。衝撃を受けた。


「テオ。少しで良いのよ。お金をちょうだい。いいでしょう」


その眼差しは鬼気迫っていた。その日は手元にあった小銭を渡しなんとか帰らせたが、それだけではすまなかった。


姉は週を跨がず何度も何度もテオの職場を訪ねては騒ぎを起こした。痩せくぼんだ頬。鋭い眼光。間違いなく麻薬をやっている目だった。奇声を発したり道ばたにしゃがみ込んだり、テオが店長から解雇を言い渡されるのも時間の問題だと思った。


「こんなことやってないでもっと稼げる仕事につきなさいテオ!」


馬乗りになって身体を売るように求められた。テオは逃げた。変わり果てた姉を直視し続けることなどできなかったと言う。


結局ある朝、姉は海で溺死体となって見つかった。事故と片付けられた。

悲しみはなかった。怒りだけがあった。


「生まれて初めて人を殺してやろうと思った。心の底から。姉ちゃんをこんな目に遭わせた奴を。だから、店を辞めて徴兵にも志願した」


と、彼女は語った。

除隊後その美貌で荒稼ぎし、姉の敵討ちのためにこの古びたリゾート地へ移り住んだ。


「来週の土曜日ようやく、そのチャンスが巡ってくるんだ」

「それで銃を・・?おかしいよリコ、そんなことしてもお姉さんは喜ばないよ」

「マーレに何が分かるの!?身内を麻薬漬けにされて殺された気持ちが?」

「もしその犯人を殺せたとしても代わりの人が売りさばくだけだよ。被害者が減るわけじゃない、それに・・・」

「他のヤツのことなんか知ったことか!」


「じゃあ、なんで私を助けてくれたの!?」


海から岸に向かって風が吹いた。辺りは暗いはずなのに、緑色をした空気がふたりの身体を撫でて陸に向かったのを確かに感じた。


「私は私のやり方で、できることをする」

「邪魔をするの?」


真理恵は首を横に振る。銃をジュエリーボックスにしまって、すれ違いざまにリコに手渡す。


「これは私の問題。待っていて、リコ」


その夜以降リコは真理恵の家を出た。アパートに戻ったのか、別の場所に移ったのかはわからない。一度職場のバーにも訪ねたが連絡がとれなくなっているとのことだった。


最後に更新したブログには寺院での写真を掲載していた。お参りの黄色い花束を胸元に抱いているリコ。棺桶に横たわる弟の寝顔と重なる。


これを彼女の最後の写真になんかするもんか。

真理恵は初めて、この土地を自分が訪れた意味を噛みしめていた。

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