第11話

日が傾いて雲の隙間から漏れ出たオレンジ色の光が地面を照らしている。高架鉄道から少し離れた住宅街にその場所はあった。レンガ造りの塀に囲まれた敷地の真ん中に平屋の大きな建物が見える。リコは一瞬躊躇しながらも門扉を押し開いた。


建物に入ってすぐの受付で、真理恵を隣で待たせながら入館のサインをすると、二重になっている扉を経て一緒に奥の部屋に進む。先に感じたのはカビっぽい匂い。30畳ほどの広い空間に椅子やテーブルがあり、部屋の大きさにそぐわない小さなテレビが十字架に掛けられたキリストみたいに部屋を見下ろしていた。


部屋にいる多くの老人達は、思い思いの場所でボソボソと話をしたりテーブルゲームをしたり、固まった石像みたいに一点を見つめいていた。リコは、正直この施設が好きでは無かった。だがそれ以上に、こんなところに真理恵を連れてきてしまったことを心の中で詫びた。


「しばらく会ってないおばあちゃんに会いにいきたい」


とだけ言って連れてきたから、てっきり祖母の家に寄るのだと思っていたかもしれない。騙すような真似は気が進まなかったが、どうしても今の自分と決別するためのきっかけが欲しかった。” 今世 ”に未練を残さないためには、どうしても真理恵の存在が必要だった。


盗み見る多くの視線を意識しながらベランダに出る。お世辞にも綺麗とは言えない中庭に祖母はいた。すっかり塗装が剥げた金属製のベンチに小さく腰掛けている。漁師をやっていた頃の生気溢れる面影はとうの昔に失われていた。その事実が受け止められずに足が遠退いていたのも事実だった。リコは正面に立って、


「遊びに来たよ、おばあちゃん」


と声を掛け、ゆっくりと隣に座った。祖母はひとときの間不思議そうにリコを見上げて「・・ああ。」とこぼした。


「リコ。ようきなすったね」


訛りの強い言葉が、弱々しい発音とともにこぼれ出た。


「なかなか来れなくてごめんね。仕事が忙しくて」


祖母は何回も頷きながら「そうかね」とだけ。

どう切り出して良いか、言葉が見つからない。


「ここはどう?」「ご飯は美味しい?」「ちゃんと眠れてる?」


リコはしばらく他愛も無い会話で自分をごまかしていたが、祖母の反応はどれも希薄で、まるで夢の中にいるような目で焦点の合わない会話をした。髪を撫でる風はどこかよそよそしくて、息が詰まりそうだ。やがて施設で定められた交流時間を使い切って、リコはようやくその言葉を発する決心をした。


後ろに控えている真理恵を横に並ばせる。


「おばあちゃん聞いて。この人は私の仕事仲間のマーレ。日本人よ。今度この人と一緒に日本に行って働くことになったの。だから、またしばらく会えなくなるわ」


こちらの言葉がわからない真理恵はきょとんとしている。祖母は目だけをしぼませて口角を上げると、

「そうかね。よかったねえ、リコ。母親はろくでもなかったけど、あんただけは幸せにおなりよ。よかったねえ、よかった。」

どこかホッとした様子で祖母は首を縦に振っている。


「それより、弟のテオはどうしたんだい?そのことを知っているの」


リコは言葉に詰まりながら、震える唇を必死に動かして、


「あの子は今どこで何をやってるかわからないわ。たまに連絡がくるから元気にしていると思うけど。」


そう言うと、祖母はゆっくりと表情を固めた。そして目だけをリコに向けてポツリと口を動かした。


「・・・あんた、どこのどなたさんだい?」

「お、おばあちゃん、何言って・・・」


リコは頭の奥がしびれたみたいに、それ以上なにも言い出せなくなってしまった。祖母は何事もなかったようにまた、「よかった」「よかった」と繰り返している。どうにもいたたまれなくなって、リコは逃げるように施設を後にした。


帰り道、戸惑いながら声を掛けてくるマーレをなだめながら電車に飛び乗った。都市部の帰宅ラッシュに当たり、車内は混み合っている。手すりを掴みながら真っ黒な窓に向かって「本当にこれで良かったのか」と問いかけた。急に世界が閉じて、自分だけがポツンとひとり立っているような錯覚に陥る。



今日、寺院で電話を受けた相手は “ サックン ”だった。


「パーティーの、” 聖域 ”の参加チケット入手できそうッス。ただ、単独で招待されるのは無理だったんで、ある方のパートナーとして一緒に入ってもらうことになるっスけど・・。」


「・・ええ、それでかまわないわ」


「それと とっても言いにくいんスけど、その前に、その方の ” 接待 ”をしてもらいたいんスよね・・」


どうにも歯切れが悪い雰囲気が電話越しに感じられた。


「かまわないけど、一体だれなの?」


「シルバーキャットのVIPで金持ってる奴なんスけど、パートナーにしてやってもいいけど前もって ” 遊ばせろ ”って・・・」


サックンが言葉を濁す度に嫌な感情が舌の上に広がった。VIPということはゴラメラの麻薬事業にも当然気づいているクソヤロー確定だ。本来なら話したくもないくらいだが、同時に姉の過去を知っている可能性もある。どのみちパーティーから無事に帰るつもりもない。いまさら。いまさらだ。


「いいわ。紹介して」 感情を押し殺しながらリコはそう告げた。



後戻りはできない。当たり前だ。戻ってなんかやるもんか。すべて自分の手でけりをつける。


意識を電車内に戻すと腰に暖かな温度を感じた。心配した真理恵が手のひらで腰を擦ってくれていた。何度も、何度も。その手にどこか懐かしさを覚えた。あの日、真理恵の手を初めて引いたあの時から、いつかこんな日がくるんじゃないかと薄々わかっていた気がした。



    ――※――



真理恵は電車に乗っている間ずっと、きょう一日のリコの様子を思い出していた。家に帰るまでのあいだずっと。


仏像に祈るあの真剣な表情。掛かってきた不審な電話。そして、彼女の祖母に向けたやりとり。真理恵は確かに現地語が不得手で、ふたりの会話のほとんどは解せなかったが、リコがいつもよりゆっくり発音したお陰でいくつかの単語だけははっきりと聞き取ることができた。


「この人と日本にいく」


彼女ははっきりとそう言った。それが本心なのかどうか真理恵にはわからない。けれどもし本当ならば隠しておく必要はどこにもなかったはず。と同時に、嘘をつく理由にも心当たりがなかった。


見えない蛇に身体を締め付けられるような、言いようのない不安。リコはストーカー以外に何か事件に巻き込まれている? そうでもない気がする。あの揺るぎない瞳が、彼女自身の意思で動いている証拠に感じられたから。


リコと暮らしはじめて、彼女のことはだいたいわかってきたつもりだった。思ったよりずぼらで、気分屋で、女神ではあるけれど同時にどこにでもいる普通の女性のようでもあった。でもそれは彼女のほんの一面で、その心の奥底に潜んでいる闇を真理恵には見せようとしない。それが、たまらなく悔しかった。


私はまた、何もできないまま同じ過ちを繰り返すのか。

過去の苦々しい日々を思った。



翌日の夕方、軽く夕飯をすませ食器を片付けている真理恵の横でリコは出勤前の支度をしていた。長い自慢の髪を軽く梳かす。メイクはベースだけにし、仕上げは店に入ってから。それが彼女のルーチーンだった。ポーチにスマホを放り込む時、いつもは見慣れないものが入っていることに真理恵は気づいた。ラベルもない小さなプラスチックの容器に透明な液体が入っている。


「リコ、それって化粧水?」


指さすと、リコは


「これ?ローション」


と、ぶっきらぼうに答えた。


「スる前に塗るの。痛くなるから。マーレも使う?」


ようやく使用用途にピンときて、真理恵は一瞬硬直した後、猛烈に気恥ずかしくなって赤面してしまった。


「いえ・・・結構です」

「はは、なんで敬語。変なの。今夜は帰るのが遅くなると思うから先に寝てて」


そこまで言われて、真理恵は恥ずかしさではない、もっと根源的な感情が自分の内側にあることに気がついた。

いつもは持ち歩かない ” 行為のための ” 道具。仕事の後に遅くなる理由。通常の業務ではない、誰かのための準備。


「誰かと、会うの? ・・今日」


我慢したが、声は震えていたと思う。


「・・・うん」


真理恵は確信にぶち当たって激しく狼狽している自分に気がついた。押さえつけていた嫉妬の感情と疑問が喉を突いてせり上がってくる。

「ねえ。昨日、おばあちゃんと話していたとき、” 日本に行く ”っていったのはどうして?」


「な。ど、どうして今その話? というか聞こえてたの?」

「答えて」

「なんてことないよ。ああ言えばしばらく安心するんじゃないかって思っただけ」

「嘘だ。リコだって気が乗らなかったんでしょう?そのためになんでわざわざ。それにおばあちゃんリコのこと ちゃんと” リコ ”って呼んでた。” リコ ” は仕事で使う仮の名前じゃなかったの? それに、弟がいるって初めて聞いたし。テオって誰なの?」


 うるっさいなあ


真理恵の耳に信じられない音色が突き刺さった。刻んでいた時計が一斉に止まり、真理恵を静寂の中へと突き落とす。


「マーレになにか関係ある?仕事のこととか、おばあちゃんのこととか」


「・・し、心配なんだよ! 私にはどうしたらいいかわからないけど。リコ、もっと自分のこと大事にして!?」


仕事行ってくる、と吐き捨てて、リコは足早に玄関を目指した。一度も振り返らずに。少し乱暴にドアが閉まった瞬間、真理恵はリコを怒らせてしまった後悔よりも、話を続けさせてくれないリコに深い悲しみと怒りを覚えた。


わかっている。


わかっている。自分が彼女にとって何者でもないこと。彼女は夜の仕事で生計を立てていて、私はただの部外者だってこと。1ミリだって彼女の人生に影響を与える事なんてできないってこと、わかっている。


わかっているけど。  でも。


 真理恵は亡霊のように、まっすぐクローゼットを目指す。不可侵であるクローゼットの半分はリコのテリトリーだった。その約束を破ってゆっくりと引き戸を開けた。キャリーケースで隠されるように、彼女が大事にしている赤いジュエリーボックスが奥に置かれているのを真理恵は知っていた。そして、彼女が深夜に起きて夜な夜なその蓋を開けてはなにかしていることも。


赤いジュエリーボックスを手に取って、膝の上に置く。

この中にきっと、リコの秘密が隠されている。真理恵がこの蓋を開けた瞬間、元の関係には戻れなくなるのではないかという葛藤と静かに戦った。

さげすまれてもいい。もう一緒に暮らせなくてもいい。それでも私はリコの役に立ちたい。そうしないと絶対に後悔するって知っているから。


窓の外はすっかり夜の帳を下ろしている。風は無く静まりかえっていて、遠く冷蔵庫の音だけが時の進みを示していた。止めていた冷房のせいか手のひらにはじっとりと汗が滲んでいる。


真理恵は決心をし、ゆっくりとその蓋を開けた。その瞬間、目に見えない暗闇が一斉に箱から吹き出して部屋を覆ったのを、汗が伝う背中が感じ取った。


後戻りは、もうできそうにない。

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