第10話

東京は雨だった。


 絶え間なく通り過ぎる車の列、ぶつからないのが不思議なくらいにすれ違う無着色の傘。足下を跳ねる飛沫。人々の流れ。人。 人。  人。

2年ぶりに訪れた灰色の街は今日も、雑然と、整然と忙しく蠢いていた。久しく視界に入れていなかったその目まぐるしさに、一種の酩酊感を覚える。


 真理恵は30歳になっていた。今は地方のコミュニティー雑紙の編集者として慎ましくも多忙な日々を送っている。そんな中、お盆休みと記事の休載を抱き合わせて古巣東京に戻ってきていた。もっとも、目的はこの東京そのものではないが。


 折りたたみ傘を閉じて駅構内に入る。特急列車の発車までにはまだ時間があった。駅なかの喫茶店でコーヒーを注文すると、外が眺められる窓側の席へ。


そういえば、東京にいた頃はずっと外が見える席が好きだったな。


 懐かしく思うと共に苦笑いがこぼれる。結局はなにも変わっていないんだろう。降り続ける雨を見つめながら、遠く、リコと過ごしたあの特別な日々を思い出した。



「リコはどこで英語を勉強したの?」


 ちょうど髪を乾かし終えたリコが寝室に入ってくるのを見計らって、真理恵は ”今夜の話題”を振る。よほどリコの帰りが遅い日を除いて、眠るまでのひとときの会話はふたりの日課になっていた。


「--軍隊生活でよ。徴兵の時に、って前に言わなかったっけ」

「聞いたけど。でも普通にこの国の言葉を使うのでしょう、軍隊でも」

「あー。 トムって男の子がいて。アメリカからのフレンドシップ制度で1年間、ちょうど私が入隊した年に派遣されていたの」


「うんうん」


「英語はそのトムから教わった。彼は周りからはウザがられていたけどお人好しなアメリカ人だった。トムは俗に言うオタクで日本に憧れを持ってたみたい。残念ながら行き先は日本でなくこの国だったのだけどね。よく日本の事を教えてくれたから、日本には良いイメージがあった。もっとも彼の語る日本はファンタジーそのものだったけど」


「そうだったんだ。わたしもリコに助けられたからトムに感謝しなきゃだね」


「彼はお調子者ではあったけど、少なからずアメリカ人は皆 ”ヒーロー ”にならなければならないと思い込んでた。それに比べて自分は身体も弱いし情けないと言ってたわ。人は誰もがヒーローになれるわけじゃないけど、私にとっては新しい世界を教えてくれたヒーローに近い存在だった」


「・・・その、彼に恋愛感情があったのかしら?」

「フフ。まさか。でも彼がアメリカに帰るとき最後のお礼にと言って、1度口でヌイてあげたわ」

「それは聞きたくなかったな!」


ひとしきり笑って。


「その頃から・・その、今の仕事をしようと思っていたの?」

「うーん。そうね、マーレは知らない?楽して儲かる方法が一番自分に向いてるってこと」

「それはそうかもだけど」

「その頃私はまだ一応男ではあったけど、軍の宿舎は女人禁制だから私の美貌はとっても儲かった。それに、彼らが ”一生懸命に ”なっている間、私は確かな万能感を感じることができた。これは私に向いているんだって確信して、除隊後すぐにカトゥーイになったの」


 聞き返すと、レディーボーイのことを ”カトゥーイ ”と言うらしい。そんな才能溢れるリコだから、性転換することにもあまり躊躇しなかったらしい。聞けば聞くほどなんだかすごい世界だ。


「マーレ、今度はあなたの番よ」


 真理恵は一瞬どういう意味だろうかと逡巡したが、まもなく ”会話の続きをしろ”という意味だとわかって一人で赤面した。

 あせった真理恵は確かそのとき、ロケ仕事のときに助っ人で来ていたフリーの音響マンの話をした。腕が太くて優しくて、ご飯を美味しそうに食べた年上の男性。彼の話をした。はじめは気が合うな、くらいに思っていたけど、次に合ったときにこんなことを話そうと考えている自分に気づいたこと。結局その後会うことはなく、結婚していることを後で知ったこと。指輪をしてなかったのは音響の仕事に支障がでるからで、少し考えればわかりそうなことが全然見えていなかった。そんな話をした。

 リコは、道ばたに転がっているような他愛も無い話にすら、 ” フフ ”と子犬のくしゃみたいに小さく笑った。その声が耳のそばで楽しく遊ぶのを、ついこの間の出来事のように思い出した。


 腕時計をチラリと見る。そろそろホームに向かわなければ。テーブルに吊り下げていた傘からは数多の雨粒が落ち、小さな水たまりを作っていた。その水面に映る像は波紋を刻みながら事実をも歪め、また、2年前のあの日に遡る。




 数日前から、リコの様子がおかしいことを真理恵は感じ取っていた。付き合いが長いわけじゃ無い。勘違いなのかもしれないが、焦点を結ばずに遠くを見ているような目線は感情を押し殺しているように感じたから。


「リコ、ひょっとして体調悪い? もう家に帰る?」

「ううん、大丈夫。久しぶりに電車に乗ったから。冷房が寒くて。もうすぐ着くし大丈夫」


 リコはホルモン剤を飲んでいる影響なのか常に寒がりだった。二人は真理恵のビザ延長手続きのために都市部を訪れていたが、その帰りにリコの提案で、郊外の寺院を回ることにしたのだ。真理恵はまだこの国で観光らしい振る舞いをしたことが無かったので横目でリコを心配しつつも片方では胸を躍らせていた。



 高架鉄道の駅を降りてから相乗りタクシーで40分ほど行ったところにその仏教寺院はあった。高い塀の一角にある門扉で入場料を払うと、真理恵は目の前に広がった野球場2つ分はありそうな広大な敷地に面食らった。大通りの側面には川が流れ、もう一方には無数の土産物屋が軒を連ねている。


「私の知ってるお寺じゃない・・」

「かたちが?」

「規模が」


 客なのか客引きなのか、人がごった返して入り乱れた大通りは真っ直ぐ歩くことができない。様々なベクトルに対応することができずに、おじさんの肩にぶつかり、足下の子供を避け、野良犬に匂いを嗅がれ、おばさんのバッグには顔を押し潰された。フラフラになっていたところを今度はギュッと手首を掴まれる。


「マーレ、つかまって。迷子になっちゃう」


 リコは潮目を読んだ魚のように、ぶつかることなくスルスルと人混みをかき分けていった。


「あそこでお参りに必要な物を買いましょう」


 真っ黒に日焼けしたおばちゃんが、屋台にてんこ盛りのお花と線香を広げていた。マリーゴールドのような黄色の花と棒状の線香を2人分購入。お参りに花と線香という感覚だけ日本と近しいものがある。と真理恵は感慨深く思った。

 大通りをまっすぐ行くと本堂に突き当たる。見上げるほどの金色の建物はソフトクリームのように青空を穿っている。あの中に仏様がいるらしい。

 参拝者の流れに乗って階段に差し掛かったところで、リコがピンク色の洗濯ばさみを真理恵に手渡した。


「ハイこれ」

「えっ何に使うの?」

「靴を脱いで洗濯ばさみで留めて。なくなっちゃうから」


見れば、前方の階段には無数の靴が並んでいる。どうやらここからは土足厳禁らしい。


「靴下もちゃんと脱ぐのよ」


 リコお母さんに促されて裸足になる。よく熱せられたコンクリートが足裏をじわじわと焼いた。


 ようやく本堂に入るとまた人だかりだ。線香を刺す大きな香炉を通り抜けると左右に小さな仏像がいくつも並んでいて、参拝者は皆順番に金箔を貼り付けていた。そのお陰で仏像たちはどれも金ぴかで、焼きそばの上に乗った鰹節みたいに金箔をひらつかせている。

 さらに奥に進むと大きなお堂があった。こちらの人々はあまり列を作って並んだりせず各々に隙間を見つけては入れ替わっている。リコの後に続いて前に進むと、開けたお堂には高さ6mはある大きな仏像が直立したまま周囲を見下ろしていた。仏様は見ようによっては優しい笑顔のようにも見え、怒っているようにも見えた。


 真理恵は教わったとおりに床に膝をついて花と線香を持ちながら深々とお辞儀をした。横目でリコを見ると、頭を床につけんばかりの深い祈りを捧げている。その、目蓋を閉じた彼女の横顔はまるで死人のように蒼白で、白々しい美しさがあった。


「リコは何をお祈りしたの?」


長い参拝を終えたあと、リコに尋ねると、彼女は意外そうな顔で、


「マーレ、お参りというのは来世の自分が幸福になるために行うことなのよ」


と答えた。真理恵は ”afterlife ”という単語が ”来世 ”を意味することにピンと来なかったが、前後の文脈からするとそういう概念なのだろうと勝手に解釈した。「今の ”life ”は?」と尋ねると、「それは前世の行いによるわね。だからもう変えられない」と、にべもない。この国に ”タンブン ”というお布施文化があることは寺院を訪れてから知った。本来、幸福を得るのは出家した僧侶だけだが、その僧侶に寄付をすることで善行を詰んだことと同じになる。それによって僧侶以外でも幸福を得られると、この国の人々は真剣に信じているのだ。だから、リコのような若者もこのように熱心にお参りもするし寄付も欠かさない。


「日本も確か仏教徒がほとんどなのよね? マーレは年にどれくらいお参りをするの」

「いや~。日本の仏教はそういうのあまりしなくてもいいんだよ。誰かが亡くなったときくらいかな熱心にお参りするのは」

「それはもったいないね。それだと来世はハエに転生くらいがせいぜいだよ」


リコは目の前で手をくねらせてハエを再現する。久しぶりに彼女の笑顔を見れた気がした。


「私は毎月のタンブンを欠かさないけど、それでもきっと来世で幸福にはなれないわ」


とリコは残念そうにつぶやいた。真理恵は、きっと彼女が水商売をやっているいことに後ろめたさを感じているのだとそのときは思ったが、その解釈は間違いだったと後に気づくことになる。


「そんなことないよ。リコは立派にやってるよ」


 反応しようとしたリコのバッグから、スマホの呼び出し音が鳴った。リコは画面を見るなりゆっくりと背を向けて電話に出る。相手は男性のようだった。現地語で1分も話しただろうか。スマホを切ったときにはリコの、その整った顔が蒼白になっていた。


「リコ大丈夫??具合悪い?」

「・・・OK、大丈夫。それよりマーレ、お願いがあるんだけど・・・」

「なに?なんでも言って?」


「もう1カ所寄りたい所があって。一緒に付いてきてくれる?」


 懇願した彼女の視線は真理恵に焦点を合わせずに、はるか遠くを見つめていた。ここにあるものを何一つ見ていない。まるで来世を見ているみたいだ。と、真理恵は思った。

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