第9話
海に潜っていた。深い紺色に包まれるほど深く潜っていた。光のカーテンを纏った海面は遠く緑色に輝いている。真理恵は今まで海に潜ったことがなかったので、こんなことができる自分に感心した。一方で同時に、これが現実ではなく夢なのだとどこかで気が付いていた。想像力が乏しいのか周囲には魚一匹泳いでいない。自分の吐く息が泡となり耳をくすぐる他は一切の音が無い。静かな海だ。
上方を海流に身を任せて漂っている少年がいる。逆光でよく見えないが、その輪郭から弟が漂っているのだとすぐにわかった。懐かしい思いでゆっくりと近づいてくと、やがてうつ伏せになった彼の顔がはっきりとする。それは最後に葬儀で見たときの土気色の顔だった。
グッっとお腹に力を込めて通り抜ける。助けることもせず、息苦しさから逃げるように海面を目指して、ひと息に駆け上がる。
目蓋をオレンジの日差しが焼いて、あまりの眩しさに意識をつかみ上げる。目を開けるとカーテンの隙間から差し込んだ一筋の光柱は真理恵を貫いて、薄暗い寝室全体をぼんやりと照らしていた。記憶がはっきりするに連れ、夢の中で背負った喪失感がぶり返しそうになる。
そんなことも知らずに、すぐ隣からはすぅすぅと静かな寝息が聞こえてきた。一定間隔に上下するリコのブランケットを見つめていると、言いようのない安心感と少しだけの罪悪感がない交ぜになる。
やがて、ゆっくりと寝返りを打ったリコは真理恵に正面をさらし、さらにはその涙に濡れた頬をもさらした。
綺麗だ。
真理恵はそっとスマホを探し迷うことなく写真を撮った。思ったより大きな音がしたがリコは目を覚ますことはなかった。真理恵は素晴らしいことをやり遂げた満足感から再び現実を手放し、次に目を覚ましたのはお昼前だった。
「ねえ、マーレ。冷蔵庫に何も入ってないんだけど」
んん?
目を擦るとキッチンに後ろ姿の美女がいた。髪を後ろで束ねているのでタンクトップの間から細い首筋が見える。これは現実なんだろうか。しばらくの間、この家でリコが居候してくれることになった。その事実がまだ信じられない。彼女も例のストーカー問題が解決していないらしく渡りに船だったようだ。どさくさに紛れて勢いでお願いしてみてほんとうに良かった。
「シリアルが、あるよ・・?」
「シリアルだけ? 冗談でしょ」
なんとなく現地語も交えていろいろ非難されたような気がした。仕返しに、
「リコ、どんな夢を見ていたの?」
「ん?」
「泣いていたから」
「・・さあ。忘れちゃったね」
彼女は肩をすくめる。そんなやりとりもなんだか愛おしくて、真理恵はリコの後ろ姿にシャッターボタンを押した。今度こそ気がついたリコはカメラ前に近づいてきて大きく手のひらを広げる。
「ん。」
「え?」
「お金」
「えー?」
「当たり前でしょ。店じゃチップを取るけど、特別にお昼ご飯代でいいわ。何も無いじゃないこの家」
そっちのほうが高つきそうだと思うが、リコの営業スマイルが見れたので、これはこれでいいやと思った真理恵だった。
海岸と繁華街の中間に地元の人が利用するわずかな商店街があり、その一部が露店市になっていた。店主がひとりで食べ物や装飾品、野菜など様々なものを店先に並べている。真理恵はこの国に来てからずっと露店の人々はなぜ自分の店を持たないのだろうと不思議に思っていた。たぶんどの店も安すぎるからだと思う。価格競争のために薄利を貫かないと生き残れないのかもしれない。と真理恵が言うとリコは、
「その気がないだけよ。みんな今の生活に満足してるんだよ」
フフンと鼻を鳴らした。
「私はここの焼きそばが好き」
” ホッケン・ミー ”と彼女が発音したその焼きソバはエビが丸ごとはいっており、殻をむきながら食べるようだ。麺の太さは「そば」というよりは「うどん」に近く、所々焦げている。リコは相変わらず唐辛子と思われる赤い粉をふりかけながら涼しげに食べている。この国の人々はきっと身体のつくりが違うのだろう。真理恵はと言うと隣の屋台で ”カオクルッカピ ”という舌をかみそうな名の混ぜご飯を頼んだ。こちらはエビの風味が強い炒飯という感じで美味しい。野菜やソーセージが乗っており一見ヘルシーと思われたが、野菜に隠れていた付け合わせの激辛ペーストで無事撃沈した。辛いのいらないのに。今度からは「マイペッ(辛くしないで)」と言ってみよう。
真理恵はそのほかにも気になった露店で写真を撮らせてもらうためにあれこれと買い食いをしていた。
「写真を1枚撮る度に食べ物を注文していたらブタになってしまうよ」
リコが呆れた口調で忠告した。
「でも、タダで撮らせてもらうのも悪いでしょう?」
「チップを払えば?」
「お店のものを頼んだ方が印象いいと思って」
リコはきょとんとした後、大きな口で笑いながら、
「そんなの、商品が減らずにお金がもらえる方がいいに決まっているじゃない!」
「そうかなー・・・」
真理恵はなんとなく釈然としなかったが、実際に少額のチップを渡して撮らせてもらったときの方がポージングや笑顔などサービス満点だったので、パンパンに膨れたお腹をさすりながらひとり唸った。郷に入っては郷に従え。ようやくこの国に片足を入れたような気分になった。
夜、自分のアパートに荷物を取りに行ったリコが帰ってくる。バーが定休日の彼女は黄色の旅行ケース1つを連れてきた。荷物がそれだけか聞くと、「問題ない」とだけ。インド旅行にもこれひとつで行ったらしい。中身はメイク類と着替え。仕事に必要な物はバーに置いてきたらしい。まもなく寝室のクローゼットの半分に彼女の荷物が並んだ。薄着なのでそもそもかさばらない。その中で赤のジュエリーケースだけが印象的だった。いつかお願いして彼女の宝物を見せてもらおう。
「マーレ。なにか日本でのあなたことを聞かせて?いつも働いてる時間だから当分眠くならないと思う」
枕を並べたリコがスマホをベッド上に放り投げて真理恵のほうに向き直した。持ってきたトリートメントなのか香水なのか、リコは霧深い夜みたいな香りがする、と真理恵は思った。すべてを覆い隠す優しい闇の香り。
「そうだね・・あまり上手に話せないかもだけど」
「問題なし」
それじゃあ、と前置きして二人は頭を並べる。
どこから何を話したものかと考えあぐねて、結局は仕事の話をした。解雇されたとはなんだか言いたくなくて人間関係が嫌で辞めたことにした。リコはマスコミの仕事と聞くと声を弾ませて、
「すごいじゃないマスコミなんて。どうしてなろうと思ったの」
と前のめりだ。
「本当はジャーナリストになりたかったんだけど、なれなくて。ちょっとシリアスな話になるけど、私には弟がいたんだけど死んじゃってて。私が高校のときに。えっと単語が出てこない、自分で自分を殺しちゃって。彼はクラスメイトから理解されていなくて攻撃されていたから、たぶん」
「うん」
「なにも動いてくれなかった大人に腹が立って、何もしてあげられなかった自分にも腹が立って。私以外にも、同じように悲しんでる家族がたくさんいるんじゃないかって思って。ごめんうまく説明できないけど、そういう現状もマスコミの力なら変えられるんじゃないかって、思ってた。うまく行かなかったけど」
「そう。マーレは戦った?」
「・・戦った、と思う。でも向いてなかったんだと思う」
「そっか・・。うん。今、弟さんはなにをやってると思う?」
真理恵は自分の翻訳間違いかと思ったが、軽い口調とは裏腹に気鬱げに伏せた彼女のまつ毛が、決して聞き間違いではなく彼女なりの気遣いなのだと語っていた。
「・・そうだね・・ゲームが好きだったからアッチでたくさんしているかも」
「へえ、私と気が合うかもしれないな」
「リコもゲームとかするの?」
「 うん ”パズル&マジック ”(ローカルなゲームアプリ)ならこの街イチだよ多分」
「なにそれ狭いな!」
「こんど対戦したらフレンド申請しとくね」
胸の内に刺さっていた棘がほんの少し消え失せた気がして、リコに話せて良かったと心からそう思った。
――※――
それから1週間。低迷ブログ「ゆるマレ」に突如登場した現地人美女のオフショットは、下降気味だった閲覧数を飛躍的に増やした。
当のリコも最初しぶしぶ掲載OKをくれていたが、読者から感想が届いたり質問を受けたりしているうちに、まんざらでもない感じになった。「Lico」という名前も源氏名(仮名)だと言うのでそのまま載せるようになると彼女のファンが付くようになった。
真理恵は自分の発信力以上に彼女の人気が出てしまったことで内心複雑な気持ちだったが、注目を浴びることが純粋に嬉しくてひとり優越感に浸っていた。やがて現地語でハッシュタグを入れる事を覚えると、現地人と思われる読者からも反応をもらえるようになっていった。承認欲求、恐るべし。
「また撮ってるの?」
「もっちろん」
露店で買ったクレープを片手にリコにカメラを向ける。
「元TVマンだというわりにマーレ、写真下手だよね」
「これは!・・・スマホのカメラだから・・」
「うーん。てか、距離遠くない?かして。」
リコは真理恵のスマホを奪い取ると、腰に手を回してセルフィーモードにした。
シャカッ!
「フツーこうでしょ」
画面にはキメ顔のリコと、キョドる日本人女性が映っている。
「アップしていいよ。ハニー」
「いや、無理無理無理無理!!!!」
またとっさに日本語が出てしまう真理恵だった。リコはその白い歯を覗かせて少年の様に笑っていた。
これはきっと神様が与えてくれた期間限定の夏休みなんだ。
うだるような暑さを手のひらで追い出して空を見上げる。遙か遠く上空を小さな雲がまばらに漂っている。しばらく雲の行方を目で追って真理恵はまたその中に誰か姿を探していた。
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