第8話
真理恵がこの借家に住み始めてから20日間が過ぎようとしていた。初めのうちは目に映る物がすべてめずらしくて写真を撮りまくりブログに書き込んでいたが、一通り周辺を狩り尽くすと残ったのは近くの食料品店と海を巡回する程度のマンネリだった。
朝起きれない。映えないご飯。増えない外食 大学生みたい。
これでは東京でニートをやっているのと何が違うのだろう。
狭い流し台で一人分の食器をあらってトレイに立てかける。今食べたのは朝食兼ブランチのシリアルだ。甘ったるいシリアルに牛乳を掛けただけのお手軽メニュー。マスコミ業界の忙しさを言い訳に冷凍食品やインスタントに頼り切った生活をしていたせいで、真理恵の家事力はまったく成長していないことを再確認した。自分ひとり分のご飯に気合いを入れて作ろうと言う気持ちは最初の数日で品切れになり、ブログの写真も料理より周辺の景色や草花のほうが多くなった。
ブログを読んでくれている読者数も、40人をピークに下降しはじめていた。ここルアンは大きな観光地ではなく、遊ぶ場所も見所も限られている。目新しいネタなど期待できそうに無い。この街を訪れる多くの観光客にあやかってマリンスポーツの資格をとるか・・・。いや、無理だ。カナヅチである真理恵にとってはハードルが高い、というより恐怖でしかない。あるいは多くのブロガーに倣って近県の観光地に旅行に出かけることも検討したが、なんとなく億劫に感じている自分に真理恵は絶望した。安定することの心地良さから逃れられない。どこまでいっても突き抜けられない性格。
環境だけ変えてもひとりではだめだ。誰か刺激を与えてくれる人が近くにいないと。
こんなときリコがいてくれたら、なんて言うだろう。
やりとりも少なくなった長髪の美女を想った。再びあの繁華街に行くのは正直恐いが、その中で手を差し伸べてくれた女神が強烈に目に焼き付いていた。
今度、勇気をだしてお店を尋ねてみようか。
真理恵は書きかけのキーボードから目線を外して窓の外を見る。今日も憎たらしいほどの快晴だ。夜にはきっと喉をカラカラにした男達が店の席を埋めるのだろう。リコはその中で輝かしい振る舞いで周囲を癒やすのを夢想した。それはきっと素晴らしく誇らしい景色に違いないのだ。
――※――
「ストーカーくん見つけたからノシといたぜ。」
いつもより遅い時間に入店したディーは、開口一番リコにそう告げた。奴は1階のビアバーに長時間居座って ”レジテ・ソーシャ ”の入り口を監視していたらしい。
「俺っくらいになると常連かどうかすぐわかっちゃうんだなあ~。聞いてた風体に似てたから試しにカマを掛けてみたら真っ青になって面白かったぜ」
相変わらず恐ろしい手腕だ。
「小突いておいたからもう来ないとは思うけどよおリコち、ちょっとまずいことになっているぜ」
ディーは当たり前のようにカウンターに座り、チェンにウィスキーを要求している。リコは周囲を一瞬窺ってディーの隣に腰掛けた。
「まずいって、何が?」
「有り体に言うと、リコちの情報を売った奴がいる」
リコの喉がゴクリを空気を飲み込む。
「オレも直接見たわけじゃねえが、ネットのとあるサイトに隠し撮り写真付きで ”誰とでも寝る女 ”として載ってたんだと。んで、金を振り込むと住所が見れるようになってる。あのストーカーくんがたまたまそれ見つけて、リコちを追いかけてきた・・と」
リコはアルコールの満たされた胃液が逆流するのを感じた。
「悪いことは言わねえから引っ越した方がいいんじゃねえか?勘違いした奴らが他にも押しかけてきたら面倒くさいだろ。オレも面倒くさいし」
「誰が、そんなことを」
果実のように熟れた唇からこぼれ落ちた言葉に、ディーは ” さあてね ”とそっけなく答えた。
誰が? どうして? これからどうしよう? 確かにリコは男に愛想のいい方では無い。知らず知らずのうちに恨みを買っていたのかもしれない。あるいは元同僚の嬢からの嫉妬という可能性もある。考えても答えのでない問いがリコの意識を急速に食い散らかした。
「チェン、ちょっと休憩してくる」
店長に断ってバックヤードに逃げ込むと、一呼吸する。鞄に投げ込んでいたスマホに着信履歴があることに気づいた。サックンからだった。この心理状態でかけ直すのを一瞬ためらったが、結局通話ボタンを押す。4コール目で彼は出た。
「おっアネさん。仕事中だったっスか?」
いつもはイライラするサックンのあっけらかんとした口調が、今は逆にありがたかった。
「こんな時間にめずらしいね。何かあった?」
「あ-、ちょっと進展あったんで、はやく教えなきゃと思って。メイワクだったスかねえ」
「かまわないわ。で?」
「次の ”聖域 ”の開催日がわかったっス」
リコの心臓がドクンと跳ね上がる。
「2週間後の金曜夜。主催者は ” ホセ ”っていう外人っスね。本名かわからないっスけど、予想通りゴラメラの出向役員らしいっス」
「ホセ・・・」
リコの長い爪が、握りしめた手のひらに食い込んでいく。
「出席した金持ち連中に言わせても最高のパーティーなんだとか。なんとかチケットを入手できないか手回ししてみるっスけど、基本VIPしか招待されないっぽくて、 ”費用 ”もたくさん掛かっちゃいそうなんスよね・・」
「そんなはずは・・! それじゃあ裕福じゃなかった私の姉が呼ばれるはずなんて無い・・」
「お姉さん?」
「いや、いいの。 忘れて。 とにかくお金の心配はしなくていいから、情報集めてなんとかチケットもお願い」
「やってみるっス」
「それと、サックン、念のため確認したいんだけど・・」
「なんスか?」
「--ううん。ごめん、なんでもない」
猜疑心に捕らわれて、危ない橋を渡ってくれている彼を疑うような質問をしようとしていた自分を、リコは恥じた。姉を死に追いやった奴の名前がわかった。どこの誰だかわかった。そして、どこに行けば会えるのか、わかった。それで十分じゃないか。ネットに自分の住所を晒した奴がどんな奴だろうと些細な問題だ。
ただし、これからは慎重に行動しなくてはならない。失敗など許されないのだから。少しでも不安な材料があるならすべて排除しなくてはならないと、リコは心に誓った。
化粧台の鏡に向き合う。目の前には最愛の姉の生き写しが眼光鋭く睨み付けている。
もう少しだよ、姉ちゃん。
バックヤードから店内に戻ると、目に飛び込んできた明るく華やかな日常が急に愛おしく感じられた。
「リコちゃん待ってたよ!こっちこっち!」
瞳に焼き付けるように深呼吸をし、佇まいを正す。バー ” レジテ・ソーシャ ”は最も客入りの多い時間を迎えていた。
――※――
「わたしこのまま死ぬのかな」
暗い寝室のベッドに丸まって、真理恵はそう遠くない未来をぼんやりと思い描いた。指先を動かす力も無いくらいに、その身体は深くベッドに根付いて離れようとはしない。
発端はブログのネタ探しに遠出をしたことだった。相乗りタクシーで大きめなショッピングモールまで行ったところまでは良かった。ショッピングモールはどこも空調がいまいちで、喉が渇いた真理恵はマンゴースムージーを注文した。マンゴーと氷を一緒にミキシングしたものの上にゼリーと果物を乗せた ” 映えドリンク ”だった。しっかり写真を撮り、食レポを書いて久々にホクホクした気持ちで帰路についた。問題はその後だった。
家についた途端、猛烈な腹痛とともに嘔吐と下痢。体中の水分が全部抜けるみたいに吐き出し続けた後に、高い熱が出た。食あたりだ。身体が震えるほどの悪寒に苛まれつつ今日自分が食べたものを思い返したが、火の通っていない食べ物はマンゴースムージーくらいしか浮かばなかった。生水は飲まないように気をつけていた真理恵だったが、“ 生水で作られたのだろう氷 ”はノーマークだった。
熱に意識を奪われながら、「このまま死んだら誰が見つけてくれるだろうか」「親は悲しんでくれるのだろうか」「一族の恥さらしだと罵られるのだろうか」と涙が出た。激しい後悔と不安を抱えながら、発熱から何度目かの眠りについた。
遠くで潮騒が聞こえる。額がひんやりとして気持ちがいい。けだるさはあるが熱が引いた実感があった。そのかわり着ていたTシャツが汗でベトベトして居心地が悪い。ゆっくり目蓋を上げると置き時計が深夜3時を示していた。額の濡れタオルがぽとりと目の前に落ちる。真理恵はそれを見て「寝ている間にお母さんが看病に来てくれたのか」と、ぼんやりと思った。
< 真理恵、起きた? >
優しい声が耳に届いた。だがそれは、日本語ではないように聞こえた。暗い寝室。リビングの明かりでシルエットが浮かび上がる。
「マーレ、何か飲む?」
そこにはラフな格好のリコがペットボトルを持って真理恵を見下ろしていた。
「・・・リコ。 どうして」
「どうしてって、全然連絡つかないからなにかあったのかと思って。具合悪いなら連絡しなよ。びっくりするでしょ。というか玄関鍵かかってなかったし不用心過ぎ・・」
「リコぉぉ・・・!」
真理恵は子供みたいに涙と鼻水を吹き出させた。
「なになになに、恐いんだけど!」
「いて欲しいときにいるのズルい・・と思う」
リコは深いため息をついて、
「とりあえず水飲んで、身体拭いて。そこから話聞くわ」
「・・うん」
真理恵は、いかに自分がダメな人間か、ひとりでは何もできないかを精一杯の英語で語った。リコは隣に腰掛けてずっと静かに聞いてくれていた。そして一通り気が済むまで話をしたあとに、じっと真理恵の瞳を見つめて、
「Need my help?」
と問いかけた。真理恵はそのニュアンスに「あなたはどうしてほしい?」と感じ取った。
「リコに、私の隣にいて欲しい」
彼女は少しびっくりした表情を作った後、茶化して、
「マーレごめん。ボクは男専門なんだ。ソッチはやってないんだけど」
と笑いながら答えた。真理恵は詰まった鼻先で微かに笑ったあと声色を一段落としてこう返した。
「難しいことは何もないわ。ただ隣に寝てくれたらいい。このベッド、私ひとりには大きすぎるのよ」
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