第4話

静かな夜のマーレ( 04 )


 バー ”レジテ・ソーシャ ”は南国の風土に似合わない驕奢な造りで、一見アイリッシュパブにも通じる雰囲気を醸し出していた。間接照明で暖かく彩られた漆喰の壁、革張りのソファーやテーブルが100平米ほどの店内に鎮座している。カウンター席には主に海外のウィスキーやリキュールが並び、磨き上げられたテーブル上にも所狭しと酒瓶が並んでいる。


 開店時間からしばらくし馴染みの客が増えてきた。

この店の嬢が席に付くのは、基本的にボトルを入れた客だけだ。界隈の店に多い下着同然の姿で蠱惑的なダンスを披露する事も無く、ただ「たくさんのボトルをキープしてしまい なかなか減らせないかわいそうなお客様といっしょにお酒を飲んであげる」というのが表向きの名目である。もちろん指名することもできるが、それはどこまでいっても ”ついで ”なのだ。


 嬢の中でも人気ナンバーワンであるリコは、あえてひとつの席に留まらないようにしている。挨拶がてら横に座り一杯頂く。談笑して話が盛り上がりそうになると他の嬢に目配せをして交替するのだ。独占させないことで他の客の溜飲を下げつつ自身の値も下げないことを徹底しているのだ。


 小柄なウェイターが2本のウィスキーを最奥のテーブルに運んでいくと、ソファに深く身体を預けた中年客が、嬢の太ももに触れながらおねだりをしていた。


「なあ、いいだろメーオ(猫)ちゃん。旨いもの出せる店を見つけたんだよ、この後さあ」


 ぷっくりと肥えた腹に脂ぎった顔。この客の中にどれだけの脂肪が詰まっているのか。隣で戸惑っているのは今年20歳になったばかりのクレア嬢。お店で最も若く、一見客にも人気がある。まさに美女と野獣という組み合わせだ。

 連れ出しは可能な店の設定だが、開店もまもなく嬢を連れだそうというのはいささかマナーがよろしくない。リコは別の客の相手をしながら横目で様子をみていたが、客がだんだん苛立ってきているのを察して助け船を出すことにした。


「旦那様、隣よろしいですか?」


返事を待たずに隣に腰掛けるリコ。美しい所作に不意を突かれ、息を飲む男の気配がした。


「クレア目当てのお客様は多いのです。これからの時間に来店されたらがっかりされてしまいますわ」


「・・・だ、だからなんだ!コヨーテじゃないんだ。金さえ出せば連れ出したっていいんだろう!? ・・それとも、代わりにお前が来てくれるのか?」


周辺のクラブやダンスバーと勘違いしてくる客は多いが、嬢が4人しかいないことからわかるようにメインはお酒であり、嬢は肴にすぎない。


「おいしいお酒を楽しんでもらうお店なんです。ご理解くださいませ」


 やんわりと丁寧に語りかけているものの「連れ出しは店と嬢の気分次第。察しろ」というメッセージが込められている。

顔を真っ赤にした客は、こともあろうか目の前のデキャンタを手に取ってリコのドレスに水を放り掛けた。


「売女どもが生意気言いやがって!」


リコの白いマーメイドドレスが水に濡れ滴っても、声を小さくあげたのはクレア嬢だけだった。

人形のように整ったリコの顔立ちはそのままに、その瞳は眼前の汚物をまっすぐに捉えていた。カウンターで事の成り行きを見ていた店長兼バーテンダーのチャンは、目をまん丸に見開いて危機を察した。


あ、キレそう。


「なんだその目は!お前らは男に股開いてりゃいいんだよ!」


客が激高した瞬間、ソファーにヒールを立てたリコは中年客の胸ぐらをわしづかみ、その細腕から想像できない力で宙にねじり上げた。思いがけない反撃に客の目は点になっている。


その、客とリコの間に間髪入れず割って入る大男がいた。


「おーーろろ。お客さん!だいぶ酔ってしまったみたいだねえ~」


この店の用心棒、”ディー ”だ。


「ま、ま、怒らないでさ~こんな気分の悪い店早く出て、もっといい店行こうよ~ね? 可愛い子紹介するからさあ」


戸惑う中年客の肩を強引に抱いて立ち上がらせる。


「ん?いくら飲んだの?じゃ、こんくらい出しとこうね? おk おk んじゃ!行こっか! みんなじゃあね~ 今夜も楽しんでいこう!!」


 他の客の気分を害さずに迷惑客からしっかり金をむしり取って店から出て行くディー。慣れたもので客から見えないようにウインクまでしている。


「クレア大丈夫?豚にはもっとふさわしい店がいっぱいあるのにね」


 小声でクレアをなだめる一方で、いくら着飾っても、美しくあろうとしても、周りから見れば私たちはどこまでいっても捨て犬同然なんだろう。ともリコは思った。

 振り上げた拳をどこにも下ろしようがないまま、リコは席を立って控え室に向かう。視界に入った窓の外は薄暗く、今にも泣き出しそうにこちらを見ていた。




――※――




夜だ。


こんなに暗い夜はいつぶりだろう。


真理恵は思った。お気に入りのスニーカーは雨に濡れてぐちゃぐちゃだ。歩く度に音をたてて気持ちが悪い。強風でずいぶん前にへし折れた折りたたみ傘は、捨てることもできずデイバッグの中に詰め込まれている。


外を長時間歩くなんて思わなかったんだ。


蒸し暑い気温のお陰で濡れた肌が凍える事は無いが、自分が惨めで惨めで、泣きたくなる。


 タクシーを諦めて街に向かって歩き始めた真理恵は、異国の地でヒッチハイクができるはずも無く、やがて雨が降り始め、海辺特有の強い風に傘を折られ、横を通り過ぎる黄色の路線バスに気づいてもらうこともできず、ひたすら歩き続けた。

1時間ほど歩いたところでようやく街に着いた頃には日も落ち始めていて、必死に地図アプリとにらめっこをしてたどり着いた不動産事務所はすでに閉店した後だった。


 海沿いの観光客向けのホテルは軒並み満室だった。そういえば、今日は土曜日だ。なんでこんな日を選んだんだ と、真理恵は自分に八つ当たりをした。自分を少しでも好きになりたくて、仕切り直したくて選んだ旅だった。なのに。なのに。どうしていつもこうなってしまうんだろう。


 雨の中何度も取り出して見ていたせいか、スマホの電源はいつの間にか落ちていて二度と入らなくなっていた。もうだめだ、と天を仰いだ。


あの日、弟が自殺したあの日から、私には呪いが掛けられてしまったんだ。


いい子でいなさい。

女の子らしくなりなさい。

社会人らしくしなさい。


歳を重ねる度に、弟の分まで上乗せされる両親からの「なさい」は重すぎて、真理恵から走ることを奪った。

こんな遠く離れた場所までたどり着いて、解き放たれた気持ちでいたのに。


「やっぱり、だめなのかな」


 薄暗い海沿いを離れて光のある繁華街へ。とにかくどこでもいい、シャワーを浴びて布団に潜り込みたい。空腹はごまかせても惨めさはごまかせない。


( 近くにホテルはありませんか )


雨のせいか人通りは少なかった。慣れない現地語で尋ねて歩くが、うまく伝わらない。英語ならばと思うが、都市部以外で英語が伝わることは希なようだ。みな首をかしげるか手を振って遠ざかっていく。


「近くにハッピーなホテルあるよ-。安いよー」


ビアバー横の階段に腰かけていた二人組の男は、カタコトの英語でそう答えた。


――助かった


 正直、心の底から安堵をした。してしまった。普段の真理恵だったら人見知りセンサーが仕事をして、こんな怪しげな話には決して乗らなかったに違いない。しかし極度の疲労と惨めさから、彼女の目には「かわいそうな外国人に優しく接してくれる地元の人」として映った。


「ホテル、すぐそこー。ついてきてー」


 一人の男が真理恵の手首を掴み、もう一人が腰に手を回してきた。言いようのないザワつきが手足から必死に頭を目指すが、脳がそれを受け付けることはついになかった。


明るい大通りから暗い裏路地へと曲がろうとしたその瞬間。


「その子は私の客よ。抜け駆けは許さないわ!」


 凜とした声が真理恵の朦朧とした意識にも鮮明に飛び込んできた。

振り向くと、その先には女神がいた。一瞬頭がおかしくなったのかと真理恵は思ったが。幻でもなんでもなく、白い衣をまとった美しい女神が雨に濡れながらも神々しい美しさを保っていた。


 真理恵は真抜けな顔をさらしながら、堂々とこちらに歩いてくる女神を見つめていた。周囲の時間が止まり、音が止み、雨粒も感じなくなっていた。女神は真理恵の手を取って頷くと、大通りをグイグイとひっぱっていく。するとどうだろう、色とりどりのネオンが足下に反射してキラキラと輝き始めるではないか。


まるで夢の中にいるみたいだ。と思った。


 女神は真理恵の方に顔を向けて、そのお人形のように整った顔が屈託のない笑顔になる瞬間を見た。そのとき確かに真理恵の目の前には、真っ青な海が、波が、潮騒が、通り抜けた気がした。


あはは


いつの間にか自分も笑っていた。大きな口を開けて、頭を空っぽにして、笑っていたんだ。



ーー※ーー



「あったかい。シャワーあったかい。生きてる。私生きてる。」


 真理恵は見知らぬアパートのバスルームでそう呟いた。熱の塊に頬を打たれ指先の血管まで熱が行き渡っていくの感じるのと同時に、さきほどまで霧がかかっていた意識がだんだんとはっきりしてくる。薄手のバスタオルで身体を拭いて首に掛ける。女神に渡されたパイル地のショートパンツとTシャツはゆったりしていて、このままパジャマ代わりに使えという意図だと察した。女神もこういうラフなの履くんだ。と思いつつ、いやいやそんなわけあるか、見知らぬ人に泊めてもらおうとしてる私普通にやばいだろ。などと一人でぼけたり突っ込んだりしていると、ドアをノックする音がする。


「上がった?開けてもいい?」

「あっ!ハイ!」


女神はハスキーな声で綺麗な英語を話した。

ドアを開けると、目の前にドレスを脱いだ女神が、タンクトップ姿の女性が追加のタオルを手に持って立っていた。


「髪はよく乾かしたほうがいいよ。テーブルの上にトマトスープがあるから良かったら飲んで。インスタントだけど」


 身長は真理恵より少し高い程度で、アジア人にしては鼻筋が綺麗に通っている。メイクを落とした目も信じられないくらい大きく まつげも長い。近づきがたい絶世の美女というよりは愛らしく、可愛らしいと片付けられないほどの気品を眼前にして、真理恵はようやく声を絞り出す。


「あの・・ありがとうございました!助けていただいて・・」


「ん。・・えっと、そのすぐ人を信用するの、やめた方がいいよ、あなたが破滅的な旅行者でないのならね。繁華街には危ない奴も多いんだから。あなた騙されて売られそうになってたんだからね??」

「えっ? それでも、ありがとうございました!」


 まあ、いいや。と彼女はため息をついて、とりあえず今晩は彼女の家に泊めてもらえること、ベッドを使ってもいいことを確認した。

「あの、すみませんでした、私のせいでびしょ濡れになってしまって・・・」


「・・私はリコ。あなたの名前は?」

「私は ”真理恵 ”と言います」

「マレ?」

「ま・り・え」

「ああ、“マーレ”?ね、OK 今日は仕事も乗り気じゃ無かったし、それに、外に出る前にはもう びしょ濡れになっていたからね。気にしないで」


 微妙に ”マリエ ”の発音が気になったが、日本人の名前は呼びにくいのだろう。


「リコさんは英語がお上手なんですね、助かりました」

「そう?うれし。 昔 軍隊にいたときに暇だったから勉強したんだよ」

「・・えっ軍隊??」


 イメージ外の単語が出てきて一瞬聞き間違いかと思ったが、彼女の拳銃を構えるポーズから察するにそうではないらしい。


「知らない?この国には徴兵があるの。21歳から」

「いや、それは知ってますけどそうじゃなくて、女性にも徴兵があるんですか・・?」


リコは、ああ・・・。と含み置いて真顔で。


「私、男だけど?」


「・・またまた、まっさかあ!」


 担がれているのだと思い、条件反射的な半笑いでリコを見ると、彼女はまっすぐな瞳でこちらを見つめていて。

 しばらくの沈黙のあいだ真理恵の脳内を駆け抜けた様々な感情が行き場をなくし、変換不能な日本語の叫びとなって静寂を破ったのだった。


「・・・ ま じ で !!?」。

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