第5話

 小さな麦わら帽子越しに、ジリジリとした熱が真理恵の後頭部を焼きつつあった。海岸沿いの通りは昨夜と打って変わってカラッとした快晴に恵まれている。先ほど乗せられた3輪タクシーの荒っぽい運転が、時間差で彼女の体力を奪って足下を揺るがしていた。そんなことも知らず、隣でスマホを見るサングラスの女性は涼しげだ。


「タクワパー通り、207番地・・。もう1本先の通りね。それにしてもほんっとに何にも無い。こんなとこで暮らすとか、正気?」


「別荘みたいな1軒屋で、安かったので・・・。海まですぐ出られてステキだな、と」


 物件情報を見たときはそう思ったのだ。ただ、市街地へは徒歩でいけないし確かに利便性という意味では問題があるかもしれない、と現地を訪ねて真理恵も思った。写真じゃ分からないもんね・・。


 今日のリコはツバの大きな帽子をかぶり、目にはサングラス。身体のラインを強調した白基調のワンピースの下には黒のアームカバーとレギンスが覗く。リコの「絶対に日焼けしない」気合いが覗える。なんでも、”昼間に外に出る酔狂は観光客だけ ”だそうだ。


 どこからどうみても「セレブ美女」にしか見えない彼女の本来性別が男だという。いったい誰が想像するだろうか。リコにとっても未だに信じがたい事でもあった。

昨夜のカミングアウト後、真理恵は(“元”とは言え仮にも)異性と同じ部屋の中で眠るなどというのは人生初の経験で、一睡もできない。と、予想されたものの、実際はぐっすり寝た。寝てしまった。しかも起きたら昼前だった。起きがけに寝ぼけたリコから向けられた「こいつ誰だっけ」という目線が脳裏から離れない。

 それでもスマホが使えなくなった事情をリコに話すと、彼女は大きなため息をつきながら、出勤前に不動産屋と借家に送ってくれるという。本当に女神様々だ。


「あった。地図だとアレらしいけど?」


 細い指で示された先には、特徴的な三角屋根の平屋が見える。側面には8畳ほどの平たい下屋と、猫の額ほどの庭が付いている。周囲に家屋は無く、植木で隔てられた敷地の外は畑や空き地ばかりだ。


「あ、そうです写真と一緒!」


 2ヶ月の滞在とは言え、新しい我が家に真理恵の胸が膨らむ。近づいてみると屋根は青色に塗装され、白い壁に映えている。たまに管理人が来るのか庭も見苦しく無い程度には整えられていた。


「うん! いい! いいね!」


1畳ほどのエントランスの先に木製の玄関扉。先ほど不動産事務所で受け取ってきた鍵を恐る恐る回すとカチッと乾いた音を立てた。ただ・・・


えっ・・?


「マーレどうしたの? 早く開ければ?」


フンッ!


 丸い取手を力一杯引くが、扉が開く気配は無い。念のため鍵を開けたり閉めたり、押してみたり。それでも全く動く気配はないのだ。


「昨日の雨で湿気を吸ってるのかもね」


リコはチラッと自分の足下を見て靴底の低いパンプスを履いてきたことを確認すると、「どいてて」と真理恵を下がらせた。


 次の瞬間、真理恵は白いヴェールが空中で軽やかに踊るのを見た。

スカートが翻るほどの高さまで引きつけられたリコの太ももは、猛烈な勢いで前に飛び出し、彼女の踵は扉の蝶番の下辺りを射抜いた。


ゴッ!!


衝撃の反動で扉の角が少し飛び出した。目が点になった真理恵を気にもしないで、リコは何事もなかったように扉を引き開いたのだった。


 土壁造りの屋内は、少々埃っぽいものの ひんやりしている。リコは一旦外に出てブレーカーの位置を教えてくれた。室内に間接照明が灯る。


「ふうん、案外良い家じゃない?」


 自分の家のようにリコは歩き回る。リビングには水草を編んだソファにテーブル、小さな液晶テレビ。狭いキッチンの横には古めかしい冷蔵庫が置かれていた。簡素なシャワールームとトイレは一緒になっている。奥の下屋は丸々すべてが寝室でクイーンサイズのベッドが真ん中に置かれていた。寝室から臨む庭にはベランダを通じて出られるようになっていた。築20年以上は経っていそうだがとりわけボロいというわけではなさそうだ。


「問題は、これね」


 壁に取り付けられたクーラーの電源をリコがゆっくりと入れると、遠くでカラカラと何かが動く音。少し間があって涼しい風がそよそよと吹き出し始めた。


「インディードゥアイ!!」


 リコが、とっさに出た現地語で祝福してくれる。こいつが動かなかったら生死に関わるところだったらしい。大げさだ。大げさ、だよね?


 そのあと二人は再び3輪タクシーを捕まえて、5分の場所にあるコンビニへ。ダメになった真理恵のスマホ代わりにプリペイド式のスマホを購入した。ネットは空港で借りたポケットWi-Fiとノートパソコンでなんとかなりそうだったが、スマホを身につけていないと不安だったから。(初期設定はリコがやってくれた)

 ついでにコンビニ近くのスーパーで当面の食材も買う。現地語が読めなくとも肉類はなんとか見た目で見分けが付いた。野菜は半分くらい。魚介類はほぼ全滅だった。その他加工品はパッケージの絵で判別する他ない。支払い方法をリコから学べたのはありがたかった。借家に戻ったところでちょうどリコの出勤時間となった。


「リコさん、本当にありがとうございました。このご恩は忘れません」

「やめてよ。一晩泊めただけで大げさな」


それより、と前置きして。


「マーレはこの国に何しに来たの?バカンスというわけでも、男を買い漁るでも無さそうに見えるけど」


一瞬、言いよどむ


「それは・・ちょっといろいろあって・・」

「・・まあ、それ以上聞かないわ。 じゃあね」


 手をフリフリと振ったリコは、一度も振り返ることなく、颯爽と夕日に溶けていった。見送る真理恵の頬に、潮の匂いを孕んだ風がやさしく触れた。明日、海まで歩いて行ってみようと真理恵は思った。


 その夜


 簡単な掃除を済ませた後、キャリーケースに入れて持ってきた衣類を整理しながら、真理恵は1日ぶりに自由と孤独を思い出していた。入国まもなく美女と3輪タクシーにのって買い物をするなどともちろん想像もしていなかった。スーパーで色々と説明してくれたリコの横顔と落ち着いた声を思い出す。

 どうして見ず知らずの観光客にあそこまで良くしてくれたのか。ついに聞きそびれてしまった。それに、


(この国に何しに来たの?)


というリコの問いに上手く答えられなかった自分に、ことの外ショックを受けた。


 我に返り、止まっていた手を再び動かす。パソコンを立ち上げてポケットWi-Fiにつなげる。買ってきたインスタント麺に、電気コンロで沸かしたお湯を注いだ。自炊は追々していくことにしてとりあえずのお腹を満たす。


 さて、何から始めよう。


 新生活はブログを立ち上げるところから始めると決めていた。ブログサイトを探し、新規登録する。ユーザー名を入力する画面ではたと手が止まった。これまで使っていたハンドルネームは使わず心機一転したいな。パソコンの画面とにらめっこをする。いくつか候補は考えたものの、どうにもしっくりこない。新しい自分、特別な自分・・。何かの気配を感じて、指はひとりでに「マーレ」とタイプしていた。


 ずいぶん前に落ちた陽。気づくと外は漆黒に包まれていた。強い風が吹いているのか、窓はガタガタと震えて不気味な風鳴りを家中にまき散らしている。気分転換にテレビを点けようとしたが、故障しているのか電源も入らなかった。

 キッチンに置かれていたラジオの電源を入れると、タレントらしき男女二人組のMCが曲のリクエストに応えている。言葉はわからないものの、あっけらかんとした恋の曲やダンスミュージックのお陰で、真理恵はなんとかはじめての夜を越えようとしていた。



――※――



トントン


 窓が震える音で目が覚めた。視界は闇に包まれている。おかしい。ベッドサイドの読書灯は点けっぱなしにしていたはずだった。あわてて点けようと紐を何回も引っ張るが反応がない。故障した? 周囲が見えない分だけ耳を澄ませると、唸りが気になっていた古い冷蔵庫が一切音を立てていないことに気づいた。


停電だ。


慌ててスマホを手探りで見つけると時刻は深夜2時を示していた。不動産屋から「停電が多い」とは聞いていたが、これ程とは。庭の木々がざわめいて雨が弾かれる音を肌で感じる。嵐で停電にでもなったのか。それとも・・? 



  コンコン



 心臓が縮み上がるのを感じた。それは風の音では無い。「玄関ドアをノックする音」だ。そう確信すると、急激に心拍数が上がり、恐怖心がせり上がってくる。


 そもそもなぜ家賃が安いのか? 簡単に外国人に貸してくれた違和感も。東京でも越してきた当日に新聞屋が訪ねてきたことがあったよね。色んな疑念が脳内をすさまじいスピードで通り過ぎて行く。どこかで見られていた?後をつけられていた?ひとりになって夜になるのを待って外のブレーカーを落とした?



  ゴンゴンゴン



 ノックの音はだんだん大きくなっている。喉はすでにカラカラに乾ききっていた。周囲に民家はない。叫んでも気づいてもらえる可能性もない。遠い異国の地、周りすべて何一つ信じられる物なんてない。


この家には誰もいません! 何もせずに帰って!! お願い!!


叫びを必死に飲み込んで、気配を消そうと縮こまっていると、突然スマホからけたたましい着信音が流れた。


音!!  音!!!!


薄い毛布を背負ってスマホに覆い被さると、煌々と光る着信画面には「Lico」の表示。買ったばかりだから自分で番号登録した覚えはない。であれば、購入時に彼女が入れておいてくれたものに違いなかった。


藁にもすがる思いで真理恵はスマホに飛びつき、背後に恐怖を感じながら必死に声を絞り出す。



「 リ コ ・・・ たすけて・・・! 」

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