第3話
暑い。
意を決してひとりで降り立った異国。空港から外に出た瞬間、さぞ感慨深い一歩を刻むのだろうと考えていた真理恵だったが、口から出た言葉は3歳児のそれだった。「ついに来てしまった」という気持ちはもちろん強かったが、センチメンタルな感傷は肌に染み入る南国の暑さに簡単に追いやられてしまったのだ。最長で2ヶ月滞在することを考えたら髪をもう少し短く整えてくるんだったと早くも後悔した。
空港から高架鉄道で都市部へ向かう。切符と思わしきプラスチックのカードを恐る恐る改札機に通し、程なく到着した電車に飛び乗ると今度は猛烈な冷房が天井付近から吹き出ている。到着駅に付くまでの20分間、真理恵のむき出した手足は完全に冷え切ってしまっていた。
市街地は人で埋め尽くされていた。これは比喩でもなんでもなく、見渡す限りの道路に車が寿司詰め状態で走っており、わずかに残った隙間を無数のバイクやスクーターがクラクションを鳴らしながら曲芸のごとき動きで駆けていた。怪しげな音楽が流れる小さな路地にも人や露店が詰まり、めったなことで地面を拝むことはできない。満ちあふれる人々のエネルギーが渦を巻いてクラクラする。
これはとんでもないところに来てしまった。
真理恵は思ったが、自分の退路を絶つために2ヶ月間の賃貸予約を日本で済ませてしまっている。どうあっても逃げられないのだ。逃げられないのだからなんとかするしかないんだ。と、自分に言い聞かせる。この土地で何を掴めるか自分への挑戦のつもりでもあった。
予約をした不動産屋は駅から徒歩10分の高層ビルの中にあるらしい。道ばたに座り込む人々の目線を気にしながら あまり綺麗とは言えない歩道を歩く。国の数だけ香りがあると言うが、この国の第一印象はドブの匂いになりそうだ。少し歩いただけで額に汗が滲む。ランダムに遭遇する段差にキャリーケースが引っかかるうちに本当に海外に来たのだという実感がわいてきた。賑やかな反面、陸橋にホームレスたちがごろ寝をしていて貧富の差を感じた。
不動産屋に到着すると長袖のカーディガンを羽織った女性店員がカウンターに案内してくれた。案の定、店内は寒かった。感覚がバグりそうだ。と思った。
生活に必要な現地語は ” 音として ”予習してきた真理恵だったが、契約書に書かれた蛇が繋がったような文字は一切読むことができない。幸い英語が並記してあったし、女性店員もカタコトの英語で補足してくれたのでなんとか書き進めることができた。
「海辺の一軒家をお借りになるなんてめずらしいですね。メイドはおつけになりますか?」
一瞬 老齢の執事やメイド服のおねえさんが頭をよぎったがそんなわけがない。どうやらお手伝いさんの斡旋もやっているようだ。真理恵はなるべく滞在費用を安く済ませるために借家を借りたことを伝えてメイド派遣は断った。担当の女性は珍しがっていた。借家には生活家電がすべてついているとのことなので、自分ひとりでもなんとかなるだろう。
契約手続きが終わり、借家の鍵がもらえるのだと思ったのだが、
「それはできないんです。あなたの家はここからとても遠いので私たちは鍵を持っていませんし、連れても行けません。現地の大家を尋ねて鍵を受け取ってください。家についての質問も大家から聞いてください」
という。真理恵が借りた家は都市部からかなり離れた小さなリゾート地 ” ルアン ”にあった。まあそれもそうかと思いつつも、彼らが借家に連れて行ってくれてあれこれ説明してくれるものだと勝手に思い込んでいたので面食らった。いきなり予定外の事態だ。
日本人 はじめてのお使い
脳裏にテロップがインサートされる。
おもしろい。やってやろうじゃないの。しばらくはブロガーをやろうと思っていたしネタになるかもしれない。写真を撮りながらのんびり行こう。
幸い時刻はまだお昼前。多少時間がかかっても夕方には十分たどり着ける計算でもあった。それくらいの時間であれば大家さんとやらも対応してくれるだろう。
気を取り直して再び高架鉄道へ。目的地のルアンまで鉄道は通っていないのでなるべく距離の近い駅で降りて、そこからはバスかタクシーを拾わなくてはならない。
「そろそろ何か食べたい気分」
スマホで情報収集しようとするが付近の観光情報だけで食事の情報があまりヒットしない。これは出たとこ勝負だね。不安が半分、ワクワクが半分。
最寄り駅で降りた真理恵は駅前の露店をいくつかなめ回して、ライスに蒸した鶏肉が乗ったメニューを選んだ。
「おいしいよ」
歯の抜けたおばあちゃんが平皿に雑に盛り付けてくれる。路上に置かれた小さなテーブルと丸椅子に腰掛けて、強い日差しの下 この国はじめての食レポ写真を撮った。
ちょっと辛い味噌のような味? 吊り下げられた鶏肉にハエが盛大にたかっているのをなるべく見ないようにすれば、味は悪くはない。選べるドリンクはコーラしかなかったので一緒に飲んだ。何年ぶりのコーラだろう。
「はあ~~異国だねえ~~」
青空を見上げながら、誰に語るでもなく自然と口からこぼれ出て、なんだか可笑しくてたまらなかった。
うん、私いま自由だ。 自由というのは、この孤独のことなんだな。
真理恵はほんの短い間だけ遠い島国を想った。感傷に浸りながらバス停を探す。バス停はあったが言葉が読めない。システムもよくわからない。目的地まで2時間ほどかかるので万が一 違う路線に乗ってしまうと取り返しが付かなくなると思い至って、結局タクシーを捕まえることにした。最初で最後の贅沢にしよう。
ぼったくりが恐かったのでチェーンのタクシー会社にしたかったのだが見つからない。個人のタクシーと交渉すると、こちらを日本人と判断するや相場より高い金額を提示したり、「遠くて帰りが遅くなるから」という理由で断れたりした。いやいや、商売っ気を出せよ。
辟易しているところにクラクションが鳴る。乗り場の反対側に車を留めていた古めかしいベンツからだった。
「乗ってけよ。安いよ」
交渉するとエアコンが壊れているかわりに、前払いすれば相場以下の金額で乗せていってくれるらしい。本当にラッキーだ。トランクにキャリーケースを丁寧に収めてもらい、後部座席に乗りこむ。シートの革張りはボロボロに荒れていてアウトローな雰囲気を出していた。目線を前に向けるとバックミラーに吊り下げられた無数のお守りらしき飾りが目に付く。仏教徒なのか料金メーターの上には小さな仏像まで座っていた。
「えっ!?日本からひとりで? いいね!ウェルカムだよ」
怪しい英語を話す現地人ドライバーは陽気で、頼んでもいないのに歌まで歌い出した。ハゲ上がった頭が揺れる。それより真理恵が気になったのは、彼の運転するタクシーが片側交互車線のど真ん中をずっと走っていることだ。慌てて尋ねると、
「どっちにも行きやすいだろ?」
という妙な答えが返ってきた。上手く言葉が伝わらなかったのかもしれない。車が発進してすぐにその意味に気づくことになる。このドライバー、ガンガン飛ばすのだ。そして抜きまくる。「どっちにも」とは「どっちの車線にも」という意味らしい。狂っている。こうなったら事故らないことを祈るだけだ。
1時間後。無謀に思えた運転がどうやら本当に事故らないらしいという確信を得て、ウトウトとしはじめた時だった。
ガン!
短い打音とともに、ハゲ親父の悪態が続く。真理恵は何事がと跳ね起きて見ると、車はみるみる速度を弛めて路肩に停車した。エアコン代わりに全開にした車窓から焦げ臭い匂いが入り込んでくる。運転手は真理恵に車内で待っているように促した。彼はエンジンルームを開けながらどこかに電話しはじめた。どうやらエンジントラブルのようだった。
「ベルトが切れた。修理を呼ばなきゃならならない。なに、すぐ来るよ。問題ない」
簡単に言ってくれる。真理恵は生まれてから一度も車が故障した場面に立ち会ったことが無かったので心の底では動揺していた。
車内は焦げ臭かったので仕方なく道ばたの木陰に腰を下ろして待つことにする。海岸線を走ってきたのか、目の前には青い海がどこまでも広がっていた。
「・・海だ」
あえて、声に出してみる。
真理恵がこの国、この訪問先を選んだ理由に海がある。南国ならどこでもよかったし、どう考えても都市部のほうが遊び甲斐があったのだけど、自分の再出発は海から始めたかったのだ。
海無し県に生まれた真理恵にとって、海の思い出と子供の頃の家族旅行は切り離せない。仕事の忙しかった父はあまり旅行に連れて行ってくれなかったが、年に一度お盆休みだけは欠かさず海に連れて行ってくれた。母の実家を訪問するついでのようなものだったが、それでも家族四人で海に出て半日。砂浜でボール遊びをしたり、泳いだり露店で買った焼きそばをみんなで食べて、パラソルの下で昼寝して。屈託のない弟の笑顔を思い出す度に陽だまりの中にいるみたいに温かい気持ちになれる。もう、取り戻すことはできないけど。それでも。
今、目の前にあるのは同じ海でもエメラルドグリーンに近い青、鮮やかで穏やかで美しい海。旅行代理店のパンフレットは嘘つきじゃ無かった。
「ベンツの部品は持ってなかった。まだかかりそう」
真理恵は信じられない言葉を聞いた。結局30分も待たせて到着した青色のサービスカーは、目当ての部品を持っておらず、同じ時間をかけて会社に取りに戻るという。
「困ります! わたし5時までに街に、ルアンに着きたいんです」
必死に抗議をすると運転手は困った顔をして、同業の友達は遠くにいるから来られないとか、歩きながら路線バスを捕まえたらどうかとか、ヒッチハイクをしたらどうかなどと およそ客相手とは思えないような提案をした。
ああ、ああ・・・どうして私はいつも ” こう ”なんだろう。
天を仰ぐ真理恵の気持ちを代弁するかのように、遠く水平線に控える黒雲が静かに遠雷を轟かせていた。
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