第2話

眩しいくらいの日差しに海面の波が白く輝いてキラキラと瞳の奥底まで届く。海中から顔を出して振り返ると、青い空と砂浜の間で手を振る人々がいる。顔ははっきりしないが、この抑えきれない多幸感から親しい間柄なのだと確信した。


ゆっくり岸に向かって泳ぎ始めると、今度は海の中から懐かしい歌声が聞こえる。


カナリアの子供はどこで寝る。アオレオレ。

お母さんにくるまれて 穏やかな風が吹くよ。

あなたの翼はまだ弱く ひとりでは飛べないけど

眠っていた茂みで ごはんをもらうよ。

カナリアの子供はどこで寝る。アオレオレ。

天の恵みにくるまれて 穏やかな風が吹くよ。


 母の声だろうか、それとも姉の声だったろうか。優しい声のする方に潜って必死に泳いでも歌声は小さくなるばかりだ。

気づけば、急に辺りは日が暮れた海のように暗い青色に包まれていて、慌てて海面へと浮上しようとするも足がもつれて一向に進まない。


このままでは死んでしまう


というところで意識は急速に1点に収束し、それこそ海の中から釣り上げられたかのように一瞬で時空を飛び越えた。



 リコは暗闇の中、一糸まとわぬ姿でベッドの上にいた。湿気が素肌にまとわりつく蒸し暑い夜にあって、凍えるように膝を抱えて横たわっていた。それはまるで丸くなった幼虫のようでもあった。長い黒髪に人形みたいな小さな顔。その頬に流れた涙の跡を月明かりだけが見守っていた。


 リコはゆっくりと上半身を起こすと、いびきひとつ立てずに寝入っている全裸の男を横目で見る。すえた匂いが鼻をついた。キングサイズのベッド上に放り投げられた薄いちり紙を何枚か手に取って、丁寧に股間を拭った。しかしどれだけ拭っても異物感だけは消えてくれなかった。しばらく呆然と小さな冷蔵庫が小さく唸るのを聞いていた。


そうだ、そうだった。


 意識が次第にはっきりする。音を立てずにベッドから離れて床に脱ぎ捨てられた男のハーフパンツのポケットからスマートフォンを抜き取る。ロック画面が指紋を弾いて ”ペコ ”と間抜けな音を出した。思わず心臓が飛び出そうになる。そっと振り返ったが幸い男が起きてくる様子は無かった。諦めて今度は財布を抜き取る。中から数枚の名刺を見つける。


やった。


 自分のスマートフォンで1枚1枚写真を撮っていく。改造してあるので音が漏れる心配は無い。予想以上の収穫に心が躍る。スマートフォンの明かりが彼女の瞳に宿る暗い輝きを暴いていた。

 そっと財布を元に戻す。小さくふくらんだ乳房に手早く下着を着け、白のドレスに袖を通した。締め切っていた窓を少し開けると、乾いた風がそよそよと吹き込む。繁華街の喧噪は嘘のように静かになっていた。深夜2時。この夜も終わりの時間だ。


「起きてください」

「・・・ん。」

「ダニエルさん。私帰りますね」

「ん、ああ そんな時間か。またね」

「お店でお待ちしています」


 二度と夜の相手をするつもりはないが、しばらくは泳がせておこう。こんな小物でもいつか「使える」かもしれない。


 高いヒールのサンダルをコツコツと大理石に響かせてホテルのフロント前を通る。膝丈のゴシックドレスが歩く度に揺れ、数名のベルボーイがあくびをしながら彼女になめ回すような視線を送った。それでも、毎日繰り広げられる光景に誰も身元を確認しようなどと ”空気の読めない ”ことはしない。それがこの街の唯一の作法だ。

 ドアマンがドアを開ける。一歩外に歩き出す。終わりかけの花火みたいにまばらに灯った店々の看板。この優しい暗闇が、1日を終えたこの街の少女たちを静かに癒やしていた。



 リコには初めから父と呼べるような存在はいなかった。物心つく頃から母と姉の3人暮らしだった。父親候補の男は何人かいたようだが、コブつき女と所帯を持つような殊勝な男は少なくとも母の周りにはいなかったようだ。それでも母は男を欲し続けていたし、外泊も多かった。

リコが小学校高学年に上がる頃には母はだんだん家に寄りつかなくなっていた。不定期に届く手紙と、添えられたわずかな現金で姉とふたり 生活を余儀なくされた。


 そんな中でも、5歳年上の姉は塞ぎ込むことはなく どこまでも聡明で美しかった。母からの送金が途切れるようになると、姉の決断で母の実家である祖母の家へ転がり込んだ。

貧しい漁村でひとり暮らしをしていた祖母との慎ましくも穏やかな毎日。中学校を卒業するまでの数年間は、ひとときの安らぎとして今も鮮明に記憶に残っている。


その頃、彼女はまだ「リコ」ではなかったし、見た目の上ではかろうじて男ですらあった。


 だが今、シャワールームの鏡の前に立っている身体は、間違いなく女のそれだ。喉を伝う水滴たちは小さな丘を越えて、遮るものもなく下腹部から下肢に流れ落ちていく。


( きっと私より美人になるわ )


冗談めかした姉の笑顔が思い出される。


「・・全然だよ、姉ちゃん」


 鏡に映った同じ顔が目の前にあっても、やはり姉の美しさには勝てそうに無い。記憶に焼き付いた凜とした輝きには生者の誰もが敵わないような気がした。


 リコは髪を乾かし後ろで簡単に束ねると、薄い下着姿のままタバコに火を着ける。客から貰った海外の銘柄は少し重く、いつも以上に彼女を酩酊させ、またハイにさせた。

彼女が住む小さなワンルームアパートは物が少なく簡素で、まるで個性が感じられない。深夜の静まりかえった空気の中をタバコの煙がゆっくりと泳いで空に上がっていく。


 リコは床の上にあぐらをかいて小さなメモ帳を開く。スマホに収められた今夜の戦利品、名刺の写真を1枚ずつスナップする。今日の客は、とある食品系商社の「流通部門のチームリーダー」という肩書きだった。2枚目、3枚目、取引先を示す数枚の名刺の中にその名前はあった。赤い牛が角を突き出すメーカーロゴに「ゴラメラ」という社名。名刺に書かれた工場長の名前と連絡先をメモする。


これでまたひとつ、奴に繋がる手がかりができた。


すぅ。


 短くなったタバコをゆっくり吸い込むと、胸の内にささくれたトゲを撫でられるように心が凪いで行くのを感じた。


 書き加えた1枚をメモ帳から切り取って、赤いジュエリーボックスに放り込む。姉が愛用していたこのジュエリーボックスは、表面を赤く染めたシルクで仕立てあり中央にイミテーションのダイヤがあしらわれている。リコはそっとシルクの肌触りを確認する。


「もうすぐだよ姉ちゃん。待っていてね」


 窓の外がゆっくりと白み始める頃、ようやくリコの1日が終わる。寝室のブラインドを締め切って冷たい炭酸水をベッドサイドで飲む。毎朝繰り返されるルーチーン。誰にも邪魔されない聖なる儀式。


・・カナリアの子供はどこで寝る。・・アオレオレ・・


眠り姫は再び目を閉じて、光あふれる世界へと旅立っていった。



翌日の夕方。



 海沿いの繁華街から一本外れた裏通りに彼女の務めるバー ”レジテ・ソーシャ”はあった。建物は2階建ての瀟洒な造りで、なんでもフランス人富豪オーナーが趣味で始めたらしく、1階部分はビアバーとして他のオーナーに貸し出している。


 リコは外部階段を昇って2階にあるバーの重たい扉を開けた。

ワックスで輝く床が今日最後の夕日と間接照明を反射している。この店はヨーロピアンな佇まいが目立つクラッシックなバーで、南国らしいオープンな他店とは別格の雰囲気を醸し出している。


「オハヨ、リコ」

「オハヨ」


 バーテンダー兼店長の ”チェン ”は、毎回発音の悪い現地語で挨拶してくるのでこちらまで変な発音になってしまう。


「キノウのお客、どうだった?ハズんでもらったでショ?」

「もちろん」


 リコは肩をすくめてみせる。元々周囲の相場よりも高いこの店の中で、リコのペイバー代(連れ出し料)は他の3人の女の子の数倍に設定されている。はじめからお金持ちしか受け付けないのだから当然だ。しかも気に入った男しか相手にしない。


「でもめずらしいね?リコがお客とるなんて。しかもロングで」


 先に出勤していた同僚の” メイ ” 嬢だ。華やかな髪色と肌色の多い衣装は若干この店の雰囲気には合わないが、周囲の店と比べるとまだ大人しいほうだ。


「ちょっと、気になったから」


リコはあえて悪戯っぽく笑って返した。


 バックヤードに入り、出勤用のノースリーブとハーフパンツを脱いで鏡台の前に座る。顔には絶対の自信があるのかあまり濃いメイクは好まない。それよりも胸まで届くストレートの黒髪を丁寧に整えるほうがアガる。

クリーニングされた衣装を取り出し、袖を通す。白地のゴシックドレスに黒のフリル付きリボンが胸元についている。


さて、


 姿見で最終チェックを済ませるとまもなく営業時間だ。

フロアに繋がる扉を一歩でも出たら、そこは愛憎渦巻く夜の街に繋がっている。高級店の看板娘は背筋を伸ばす。すらりとした手足に整った愛らしい顔。


 わざわざ大都市の繁華街を捨てて辺境のリゾート地までやってきたのだ。” リコ ”という名前を轟かせて、より多くの手がかりを得たい。そう、最愛の姉を死に追いやった男をこの手で裁くまでは。


「いらっしゃいませ。

ようこそ ” レジテ・ソーシャ ”へ。」

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