第36話 選択
ネクトーよ、
化け物が、魔神/ネクトーさんに呼びかけている。
化け物の、ネクトーさんを
ぼくらは、固唾をのんでそれを聞いていた。
なにをばかな。
どんなことを言われたって、こんな、ぼくのジェーニャを攫い、罪もない女性たちを生け贄にささげて召喚されるような「神」を信用できるわけがないじゃないか。
そう思う。
だけど――。
もし、異星の神のしもべとなれば、ネクトーさんは、邪神ハーオスとの契約から解き放されるのだという。
ネクトーさんは、奪われた過去を取りもどすことができるのだという。
たしかに、異星の神にはそれだけの力があるのかもしれない。
まだこの地に降臨しておらず、先鋒としてのあの化け物を送りこんでいるだけなのに、それでもなお、邪神のしもべである魔神/ネクトーさんが苦戦するだけの力をもっているのだから。
その神がこの地に到来すれば、ネクトーさんに約束したことを実現することも不可能ではないのだろう……。
ネクトーさんが、万一、異星の神の呼びかけに応えたら、その時、いったい何が起きてしまうのか。
それは、ぼくたち、この世界の人間にとって、とんでもなく恐ろしいことが待っているのではないのか。
まちがいない。
だけど――。
ネクトーさんが置かれている今の境遇、ここまでの苦難。
なにを得るために、邪神と契約までしたのか、その目的さえ今は分からず、そしてその願いが叶えられているのかすらも分からず。
何も知らされないまま、終わりのない彷徨をつづける、ネクトーさん。
それでもなお、あんなふうに優しく、ジェーニャを助けるとぼくに請け合ってくれたネクトーさん。
それを思うと、ぼくには何も言えなくなる。
おそらく、アダマンティアさんもそれは同じなんだろう。
何も言わず、魔神/ネクトーさんを見つめている。
化け物の声が、執拗に呼びかける。
ネクトー、
汝はただ、「諾」と言うだけでよい。
さあ、ネクトー、われらのもとで、その呪われた鎖を断て!
魔神/ネクトーさんが、ふっと顔を動かし、空を見上げた。
光が。
館の上空に分厚く垂れこめ、星の光を完全に遮っていた、雷雲。
その黒い雲をかいくぐるように貫いて、一筋の光が降ってきた。
聖堂に到達した光は、まるで照明のように、魔法陣の一角を丸く照らした。
そして、その光の中に、ぼんやりとなにかが形を取り始める。
三つの影。
あれは?
影は次第にその形を明らかにして。
ああ、あれは人の姿ではないのか。
一つだけが小さくて、それは子どもなのかもしれない。
子どもを真ん中に手をつないだ親子三人の——。
はっきりとその姿が形作られる寸前に、
ズダダン!!
怒ったような雷鳴が鳴り響き、新たな黒雲が四方八方から、聖堂上空にどっと流れ来たり、そして光の筋は、ふつりとかき消えた。
今まさに現前しようとしていた三人の姿も、断ち切られたように消えた。
まるで、
魔神が、ゆっくりとぼくらをふりかえった。
ぼくや、アダマンティアさんや、ジェーニャや、姫様や、囚われていた女性たちをみた。
その目に、その表情に、ぼくは、燃えさかる邪神の怒りとともに、ネクトーさんの哀しみを見たように思う。
「……ネクトー、好きにしていいよ。わたしはあんたに従うよ、なにがあっても」
アダマンティアさんが小さく言った。
その声は、はたして届いたのか。
魔神/ネクトーさんが、ふたたび、化け物に向き合う。
一歩前に出て、その鋭い爪の生えた、漆黒の手で、化け物を串刺しにしているパリャード/ハーオスの柱に触れた。
そして、
それは、まるで何かを祈るかのようだった。
そして、
(わるいな……)
ネクトーさんの声——魔神の声ではなく、まぎれもなくネクトーさんの、ひょうひょうとした声が、ぼくらの頭の中に響いたのだ。
(おれなんかに、なんだかたいへんありがたいお誘いなんだが……まあ、おれは、レブと約束しちまったからな。
妹をたすけてやるってな)
魔神/ネクトーさんは、串刺しの柱をがっしりと握り直し、ぼくに言ったのだ。
(さあ、もたもたするな、やれ、レブ! こいつを滅ぼせ!)
「ネクトーさん!」
「わかった、ネクトー!」
ネクトーさんのその言葉に、アダマンティアさんが間髪をいれずに動いた。
ぼくを抱えて、高く跳躍し、ネクトーさんが押さえ込んでいる化け物の上に舞い降りる。
ネクトー、愚かな。
化け物が問い返す。
ぼくの心の中でも
ネクトーさん、それでいいのですか?
たまたま知り合っただけの、こんなぼくとの約束のために——。
ネクトーさん。
(バカだな、レブ。いいからさっさとやれよ)
「ぐううっ!」
いつの間にか、ぼくの目からは涙が吹きこぼれていた。
ぼくは、泣きながら、アダマンティアさんに支えられて、父さんの短刀を両手で振りあげ、
ずぐっ!
化け物の黒い腹に、光る刃を思いっきり突き刺した。
(よおし、レブ、よくやった)
魔神の熱い手が、隕鉄の短刀を押しつけているぼくの両手を包んだ。
ゴアアアアアッ!!
とてつもなく大きな力が、魔神/ネクトーさんの手から、ぼくの手をとおして、短刀にそそぎこまれていく。
この地を統べる神の力。それが、怒濤のように流れこむ。
それはパリャード様か、ハーオスなのか、どちらの神の力なのか、ぼくにはわからないけれど。
待てネクトー! いや、お前の真の名を告げ――
消滅させられる寸前、化け物が苦痛に満ちた声で、ネクトーさんに何かを言おうとしたが、
ゴバアッ!
その先を言う間もなく、巨体が爆発する泥となって、吹き飛んだ。
その勢いで、生け贄を吊していた柱がすべて、倒れた。
ザアアアアッ!
高く高く噴き上がった泥が、まるで雨のように降り注ぐ。
化け物がはじけとび、生け贄の柱も倒れた異星の聖堂の床には、ただ、化け物を突き通していた、パリャード様の柱のみが、なにかの証しのように屹立していたのだった。
泥の雨がおさまると、ぼくの背中に、ぐうっと重みがかかった。
ぼくの手に重ねられた、魔神の手は、いつの間にか、白く、指の長いネクトーさんの手にもどっていた。
背中には、ネクトーさんの温かい身体を感じる。
「ネクトーさん?」
「だ、だめだ……」
ネクトーさんは、力なくぼくの背中におおいかぶさり、弱々しい声をだした。
「どうしました?!」
「レブ……腹……腹が減って……死にそうだ……たすけて」
「ええっ?」
「このままじゃ、飢え死にしちまう……ああ、力がはいらない……」
どんどん背中が重くなる。
アダマンティアさんが
「はあ……待ってなネクトー、すぐに何かとってくるから。お姫様、館の厨房はどこ?」
「はい、ご案内します」
「あっ、あたしも手伝います!」
ジェーニャが元気よく言った。
「おや、ジェーニャ、あんたもいっしょに来たいのかい? じゃあ、乗りな」
アダマンティアさんは、姫様とジェーニャを背中に乗せて、すごい速さで壁をよじ登り、走り去った。
「あの……ネクトーさん……」
ぼくは、空腹にうめくネクトーさんを背負ったまま、小さな声できいた。
「……ネクトーさん、ありがとうございます……でも、これで、良かったのですか。もし——」
「ん…? レブ、お前、おれが領主にいったこと聞いてなかったのか?」
「え?」
「ぜったいに
「あっ、はい」
ぼくはくすりと笑った。
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