第16話 院長室
「院長室」、そう刻まれたプレートが嵌め込まれた、大きな扉の前で、ネクトーさんが言う。
「どうだい、レブ、おれが思うに、ここがこの修道院で、いちばん居心地の良い部屋じゃないかな……」
それはそうかもしれない。
ただ、気になるのは、その重厚そうな扉に、深々とつけられた傷跡。並行に並んだ三条のそれは、鋭い爪か、あるいは牙の跡のように見える。
頑丈な扉をこんなふうに引き裂くものとは、一体……。
だが、ネクトーさんは気にしたふうもなく、
「院長様、いらっしゃいますかあ?」
いつもの飄々とした調子で、扉のノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
あっさりと扉が開く。
「ふうむ……」
中をのぞき込んで、ネクトーさんが言う。
「残念ながら、院長様は、どこかにお出かけのようだ。それなら、しかたないな。ひとつ、お邪魔するとしよう」
づかづかと院長室に入ったネクトーさんは、いくつもある燭台にロウソクを灯してまわった。
灯された明かりに、部屋が照らされる。
「な? 良さそうだろ」
ぼくをみて、ニヤリと笑った。
確かに、立派な部屋だった。
高級そうな調度品。
天井まである書棚には、貴重そうな本が隙間なく並んでいた。
その前には、黒檀のどっしりとした机と、複雑な彫刻のある椅子が置かれ、ここで院長様が執務をされたのだろう。
机の前には、高級そうな横長の大きなテーブルと、革張りのソファが置かれていて、これは来客との面談に使われたものか。
扉にはあんな恐ろしい傷がついていたが、意外なことに部屋の中は乱れておれず、荒らされた形跡がなかったのだ。
重厚な石組みのマントルピースを持つ暖炉では、薪がすべて灰となり、完全に冷え切っていた。
ネクトーさんは、暖炉に手ばやく火を起こす。
すぐに燃え上がった火に、いそいそと鍋をかける。
「せっかくの鍋が、さめちまっては台無しだからな……」
などとつぶやいている。
ぼくは、柔らかいソファに腰を下ろして、自分がひどく疲れているのを感じた。
今日のここまでの出来事を思えば、むりもないとは思うけど。
ぐったりと動けないでいるぼくだったが、ネクトーさんは、鍋が温まるまで、手持ちぶさたなふうで、疲れも見せずに部屋の中をぶらぶら歩きはじめた。
書棚の古文書をとりだしてページをめくったり、マントルピースの上の彫刻を手に取ってひねりまわしてみたり、あれこれ見て回っているうちに
「ふん?」
院長様の執務机の上、書類籠に積み重ねてあった茶色の紙の束に目を留めて、持ち上げた。籠の横には、白い羽ペンが一本置かれている。
「なにか、書いてあるのですか?」
ぼくが聞くと、ネクトーさんは束をぱらぱらとめくり、
「いや……なにも。院長様、これから、書き物でもするつもりだったのかもな」
と、何も書かれていない紙をぼくに見せた。
そのあと、紙の束を持ったまま移動してきて、テーブルの上にばさりと置いた。
「これは、鍋敷きにちょうどいいだろう……」
暖炉から、ぐつぐつと煮えた鍋を運んできて、その紙の束の上にのせた。火にかかっていた鍋の底に熱され、紙の焼ける匂いがする。
「さて、ようやく飯にありつけそうだぞ」
うれしそうに言ったのだ。
ネクトーさんの鍋は、アダマンティアさんが言っていたように、本当に美味しい。それはひょっとして、ネクトーさんの、しもべとなる前の過去となにか関係しているのかもしれないが、そこを追求すると恐ろしい目に遭うのは分かっているので、考えてはだめだ。
とにかく、ネクトーさんとぼくは、廃虚となった修道院の院長室で、遅い食事をとったのだった。
二人とも、かなりおなかが減っていたので、あっという間に鍋はきれいにカラになった。
「ふう、満腹だな。……次は茶をいれるか」
ネクトーさんが鍋をもちあげ、そして
「ほう」
「あっ」
二人は同時に気がついた。
鍋敷きに使った、紙の上に。
いつのまにか、流麗な筆跡の文字が現れていた。
ネクトーさんは、鍋をゴトリと脇におろし、紙を取り上げて、一枚一枚、あらためる。
「ふうむ……なるほど。レブも読んでみろ」
そういって、ぼくに渡してよこした。
「これは……!」
読み進むにつれて、ぼくの手は震えた。
そこには、驚くべきことが書かれていた。
それを書いたのは、このパリャード神修道院の、院長様だった。
その、一見白紙の紙の束には、院長様の手によって、この修道院に起こったことのあらましが、記されていたのだ。
「炙り出し、というやつだな。はじめは無色だが、熱が加わると発色するインクを使って、書かれたようだ」
「なんで、わざわざそんな——」
と言おうとして、悟った。
見つかったらまずいからに決まっている。
見つかったら、この手記は処分されてしまうからだ。
だれにか?
その相手とは、まちがいなく領主さまだ。
それはそういう内容だったのだ。
その文章の中で、領主様の行いが激しく糾弾されていた。
神に背く、許されざる行為であると。
そして、ジェーニャや、町の女性がさらわれた理由も、そこに——。
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