第15話 腕
やがて
ネクトーさんは、厨房の壁にかけてあった、おそらく何十年、いや百年以上、この修道院で使われているのではないかと思われるような、年季の入った、大きな金属の匙を手にし、鍋をかき混ぜては、ときどき味をみている。
「おう、これまた、いい出来じゃないか」
満足そうだ。
しかし、ぼくは気が気じゃなかった。
一つは、部屋が暖まるにつれて強くなる、この生臭いにおいだ。
そして、もう一つは。
さっき、ネクトーさんがのぞいて、ぼくには見るなといった、床のあの収納庫。
いったい中に何があったのかわからないが。
その収納庫の扉が、なんだか、すこしずつ持ち上がってきているように見えるのは気のせいだろうか。音もなく、ひっそりと、まるで中にいる何かが、様子をうかがっているかのように。
「あ……あの、ネクトーさん?」
ぼくはネクトーさんに声をかけた。
ネクトーさんは、開きかけたその扉を、ブーツでばん!と踏みつけると、
「ん? どうしたレブ」
平然とした声で言う。
その間も、扉はなんどか無理に持ち上がろうとし、ネクトーさんは足に力を込める。
扉の中からは、がりがり言う音が聞こえはじめた。
「それって……なにか、とっても……怖いんですけど……」
「ハハハ、やっぱり気になるよな」
くったくなく笑うネクトーさん。
あたりまえでしょう、そう抗議しようと思った途端に、
「おおっと?!」
「うわあっ!」
ネクトーさんの足をはねのけて、扉がぐん!と持ち上がり、その隙間から飛び出したものは。
——人間の片腕だった。
腕は真っ白で、血の気はない。あちこちに大きな傷口が開き、茶色く変色した肉がのぞいている。そこからも血は流れてこない。
さいどネクトーさんが足に力を入れたため、その腕は扉にはさまれ、それ以上出てくることができずに、じたばたとその指を動かしていた。
節くれ立った指が厨房の石の床をひっかき、爪がばりばりとはがれるが、意に介するようすはない。
「ねっ、ネクトーさん!」
腕は、赤黒い血の染みにまみれた、本来は白いはずの衣の袖から突き出していて、おそらくあの衣は、パリャード様の修道士の装束だ。
ぼくは震える声で言った。
「ネクトーさん、ひょっとして、あの……それは……中に生存者の方が……」
「んなわけないだろう、レブ」
腕がぐるっと回転して、べきべきべきっと、生木が折れるような音がした。
そして、体から自由となった腕は、ずるりと衣を扉に残したまま飛び出した。猛烈な速さで指をうごかして床を逃げ、壁に取りつくと、這い上がり始めた。ちぎれた腕の断面からは、断裂した腱や筋肉がぶらさがり、ぎざぎざに折れた骨ものぞいている。
「逃がすかよ」
ネクトーさんが、これも匙のよこにぶら下がっていた大きな肉切り包丁をつかみ、壁をよじ登る腕に向かって、投げつける。
包丁は回転しながら飛んで、みごとに腕をまっぷたつに断ち割るのだが、
ガイン!
刃先が、ひどく固いものに打ち当たった音がした。
衝撃で腕は落下し、床をごろごろと転がる。
「レブ、来い」
ネクトーさんはそこに走りよると、断ち割られた腕の断面から飛び出し、逃げ去ろうとした黒い塊を、すばやく掴みとった。
腕の中に潜んでいた、その黒いものは、ぼくには見覚えのあるあれだった。
ぼくの家で、ネクトーさんに踏みつけられていた、あれ――。
ジェーニャをさらったあの化け物を小さくしたような、黒いかぶとのような、これまでに聞いたこともない、なにか。
それが、ぐねぐねした管を何本もうごめかせ、管はネクトーさんの腕に巻きついて先端を食い込ませ、皮膚に穴をあけようとしていた。
「さあ、やれ、レブ」
ネクトーさんは、そいつをつかんだ手を、ぼくに突きつけた。
黒いかぶとの裏側には、鋭い歯が並んで生えた円形の口があり、すぼまったり開いたり、威嚇するように動いている。
しがみついた管が、とうとう皮を突き破り、ネクトーさんの手から血が滴る。
「頼む」
「はい!」
何をすればいいかはわかっていた。
父さんのあの短刀だ。
空から落ちてきた隕鉄で造られたという、あの刀。
腰に付けたその短刀をつかみ、そして、その黒いものの中心に突き刺した。
ぼくの家でもそうだったように、短刀はやすやすと、化け物の外殻を突き通し、とたんに、ぐねぐねした管がびんと硬直したかと思うと、力を失い、だらりと下がった。
ネクトーさんが手を放すと、黒い化け物は、床に落ちたが、落ちる途中でぐずぐずになって、べちゃり、床には泥の塊が広がった。
「なんなんですか、これは——」
ぼくはネクトーさんに尋ねた。
「修道士の腕の中から、でてきたようですが?」
「ああ」
ネクトーさんはうなずく。
「お前さんの家でもな、あの騎士の体から出てきたんだよ、こいつが」
「体の中から……」
ぼくは慄然とした。
「まあ、本来、この世界のものではないのは確かだろうな」
「この世界のものではない?」
でも、この世界のものではないとしたら、それはなんなのだ。
さらに、ネクトーさんが、とんでもないことを言う。
「だから、あいつの力も、いまひとつ効きにくいようなんだ」
破壊と暴虐の邪神ハーオス、都市一つでさえ、まるでロウソクの火を吹き消すかのように、こともなげに滅ぼしてしまうような、圧倒的な力を持つ、怒りの神、そのハーオスの力がおよばないなんて。
もしそうだとしたら。
そんな化け物にさらわれたジェーニャはどうなってしまうのか。
そんなとんでもない化け物からジェーニャを救い出すなんて、出来るはずが——。
目の前が真っ暗になるぼくを見て、ネクトーさんが言う。
「おいおい、レブ、そんなにすぐ弱気になってどうするんだ」
「だって、ネクトーさん……」
「心配するな、レブ。おれは『効きにくい』って言ったんだ。『効かない』とはいってないぞ。それにな」
にやりと笑って
「お前のその刀もあるじゃないか、なあ、レブ、おれはな、お前を頼りにしてるんだぜ」
と、本気とも冗談ともつかない顔で言うのだった。
ぼくたちは、厨房を出た。
ぼくは角灯を掲げ、ネクトーさんは鍋をぶら下げている。
「ま、さすがにあそこで食うんでは、飯もまずくなるよな。もっと居心地のいいところに移ろう」
ネクトーさんが言う。ぼくも当然ながら賛成だ。
それで、ぼくたちは、本堂の中に侵入し、適当な部屋を探していった。
「おう、ここだ。ここがいいぞ」
ネクトーさんが、一つの扉の前で立ち止まる。
威厳を漂わせた、その分厚そうな扉。
扉には、文字を刻んだプレートが掲げられていた。
「院長室」と。
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