自分の名前さえも忘れてしまっていたからだ

◆ リリアナと恋人になってから数日が経過し、季節は夏を迎えようとしていたある日のこと――。

エルは、リリアナとデートをするために待ち合わせ場所に向かっていたのだが、途中でリリアナから連絡が入り、急遽予定を変更することになった。

なんでも、リリアナの親戚の子供が熱を出して寝込んでしまったらしく、看病をしなければいけないらしい。

リリアナは、その子供のことをとても可愛がっているようで、心配だからすぐに行かなければならないと言っていた。

そういう事情を聞かされたエルは快く了承すると、すぐさま身支度を整えて部屋を出たのだが――その時だった――――突然、視界が大きく揺れたかと思ったら全身に強い衝撃を受けたのだ―――――。

(あれ?……ここは…………どこだ?)意識が覚醒してきたのか、ぼんやりとしていた思考が急速にクリアになっていくのを感じたエルは、ゆっくりと目を開けた。

すると、そこには見知らぬ天井が広がっていたのだ。

(いったい俺は……)状況を確認しようと身体を動かそうとしたのだが、なぜか全くと言っていいほど力が入らない。

(なんでこんなことに……)エルがそんなことを考えていると、扉を開ける音が聞こえてきた。

そして、そこから現れたのは、一人の若い女性であった。

彼女は、エルの姿を確認するなり、慌てて駆け寄ってきた。

「よかった! 目が覚めたのね! 本当に良かったわ……もう目覚めないんじゃないかって思ってたんだから……うぅ……」

女性は、目に涙を浮かべながらエルに抱きつくと、何度も繰り返し感謝の言葉を口にしていた。

「あの……」「あっ! ごめんなさい! 私ったら、あなたのことが心配すぎて変になってるみたい……」

「いえ、気にしないでください」「ありがとう。

優しいのね」「それで、あの、あなたは……」「あっ、自己紹介がまだだったね。

私は、リリアナの母のララって言うんだけど、あなたは?」「僕の名前は、エルムといいます」「そう。

それで、あなたはどうしてあんなところに倒れていたのかしら?」「それが、僕にもさっぱり分からないんですよ」

「そうなの……」

「ところで、リリアナさんは?」

「あの子なら今は出かけてるけど……」

「そうですか……」

「ねぇ、あなたは何か思い出せない?」

「いえ、何も……」

「そう……」

「あの……」

「ん? どうしたの?」

「ここがどこなのか教えてもらえませんか?」

「ああ、ごめんなさい。

そうよね。

知らない場所に突然連れてこられたら不安になるのは当たり前だもんね」そう言ってララは立ち上がると、「とりあえず、あなたはもう少し休んでてね。

色々と落ち着いたらちゃんと説明するから」

「分かりました」

「それじゃあ、ゆっくりしていてね」

それからしばらくして落ち着きを取り戻したエルが質問を始めると、ララはとても丁寧に答えてくれた。

どうやら自分は記憶喪失になってしまったようだということが分かった。

自分が誰なのかはもちろんのこと、自分の名前さえも忘れてしまっていたからだ。

ララの話によると、どうやら自分はとある国の王子様らしいということも分かった。

なぜそのような立場にある人間が、このような場所で暮らしているのかは全く分からなかった。

しかし、今の自分には何もできない。

まずは怪我が治るまで安静にしておくべきだとララに言われてしまった。

それからさらに数日後、ようやく歩ける程度に回復したため、エルは一人で外に出ることにした。

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