左の女 5

 どきどきしている。

 花は車酔いのように胸焼けのするどきどきを感じている。身体症状が全ての知覚を乗っ取ってまるで自分の思考が言うことを聞かないような、そんな感覚。

 花は、もしかすると生まれて初めて、人を騙した。嘘をついて人を呼び出した。その罪悪感が、この胸のどきどきだ。体調が悪い。なんならこのまま帰ってしまおうか。そうすると紫苑の信頼が傷つくが、むしろ傷ついたほうがよいのだからやはり帰宅してしまおうか。

 悪しき考えがもぐら叩きのように頭の中で百出しているが、しかし花はその悪の誘惑を全て抑え込んで、断頭台への道のような恐ろしい歩みを進める。どうせ避けて通れないのだから、結論を出しに行こう。そう決めて呼び出したのだ。花は荒ぶる鼓動を鎮めるように、心臓の上の服を左手で握り込む。鎮まれ。鎮まれ。

 大学敷地を囲む壁の、東側の壁を左手に見て、花は一歩一歩南へと歩む。伴走者のように街路樹が現れては後ろへ流れ、やがて人気のない空地へ至る。そこに、彼女が待っている。心臓が、クラックした画像みたいに大きく歪んで、不整脈を起こした、そんなように感じた。

「こんにちは」

 彼女に挨拶する。

「こんにちは」

 と彼女も挨拶を返す。

 彼女、赤石灯はからりと暑い天気に合わせてすらりと足を露出したショートパンツ姿で立つ。立ち姿は美しい。活発な印象と相まって気さくで楽しげな人に見える。実際、灯は気さくで楽しい人だった。暗くじめじめした花とは対極の性格。それが羨ましかった。

 花を認めて、灯はきょろきょろと辺りを見回す。紫苑を探しているのだろう。しかし、紫苑はここに来ない。理由があって花一人で来た。

「紫苑ちゃんは来ないよ」

 告げると、灯は眉を少し顰めて「どういうこと?」と問う。

 嘘を認めて真実を言わなければならない。花は喉にくっと力が籠るのを感じる。

「紫苑ちゃんに頼んで呼び出してもらった。今日灯をここに呼んだのは私だよ。個人的に灯に伝えたいことがあって」

 紫苑に頼んでラインで灯を呼び出してもらった、紫苑の名で。それが灯についた嘘。どうしても、二人で会って伝えたいことがあった。

 呼び出しが紫苑によるものでなく花の策謀だったと知ると灯は、楽しげだった表情を不愉快へと急変させる。花の心が怯んだところに「で、伝えたいことって?」と冷たい声音が刺さる。

 その威力と、これから自分が口にすることの後ろめたさ、無理難題っぷりに、心挫けてすぐには切り出せない。俯いてしまう。

「紫苑がいたら駄目な話なの?」

 まるでこれから話す内容を分かっているかのような、ピンポイントの問いにますます心が詰まる。

「その……」

 なかなか語を継げない。

「私忙しいんだけど」

 灯が話を打ち切る姿勢を見せたので花は慌てて「待って!」と叫ぶ。まだ何も話していない。話さなきゃいけないことがある。だから呼び出した。

「何、早く用件言って」

 灯が髪をぼさぼさと掻き回す。不機嫌極まりない様子。嘘までつかれて、やはり相当怒っている。そこにあれを言うのか。いっそ別の機会を窺うか、とも思う。しかし。それを言うためにわざわざ嘘の呼び出しまでしたのではなかったか。

「あ、あの!」心に力を注いで硬くする。「紫苑ちゃんから、手を引いてくれませんか?」

 何とか言えた。胸が苦しく気持ちが悪い。灯は納得してくれるだろうか。

 灯は「どゆこと?」と冷たい目で言う。

「紫苑ちゃんと、交際しないで欲しい……」何とか言った。

「交際しないでって、言葉も交わしちゃだめなわけ?」

 鷹のように冷淡な目をした灯に、花はこくりと頷く。

「目線が合うとか、それぐらいのことも嫌なの?」

 自分でも無茶な要求だと分かっている、それでも、頷く。

「……酷くない?」

 良識を突き付けるような返答に、思わず「あ……」と声が漏れてしまう。言い訳したかったのかもしれないが、続きが続かない。

「あ、じゃなくて」灯の硬い声。不快、不愉快を露わにしてくる。「私、紫苑と友達なのに、どうして言葉交わしたり目線合わすことさえ禁じられなきゃいけないの」

「それは……」

 紫苑ちゃんの親友は私だから。言えばいい。しかしすらすらと出て来ない。

 花は黙り込んでしまう。言葉にするハードルは高い。剥き出しの独占欲だ。よく言えたものだ。でも言わなければならないのだ。でないと私は紫苑ちゃんを失うことになる……。

「それは、紫苑ちゃんの親友は、私だから……」

 言えた。しかし待っていたのは眉に怒りの乗った灯の反撃だった。

「意味不明なんですけど。論理の飛躍すぎて何言ってっか分かんない」

 痛烈。でも、賽は投げられた、ことここに至って撤退は出来ない。

「ダブルスのペア! ……ダブルスのペアに灯が選ばれたとしても、辞退して欲しい。紫苑ちゃんは私と組むから」

「そんなの、部長と副部長が決める事でしょう? んなの言われても困る。だいたい、さっきからどうしろって指示は受けてるけどなんでかの説明を受けてないんだけど。なんで私が花に紫苑を譲らなきゃいけないの?」

「それは……紫苑ちゃんの親友は、隣に相応しいのは、灯じゃなくて私だから、紫苑ちゃんは灯より私を優先しなきゃいけないの」

 あははと灯が壊れた目覚まし時計のように笑う。「それ、ちゃんと紫苑に訊いた? 紫苑のご意向完全無視なんですけどそれ。花のほうが相応しいなんて、んなの花の妄想じゃん、悪いけど」

「妄想じゃない」自信は、まるで無い。

「紫苑は何て言ってるの? 私と花とで、どっち取るの?」

「……訊いてない」そんなこと、怖くて訊けない。紫苑が自分との友情を切り捨てたらどうしよう。その可能性を思うと、恐ろしくて訊くことができなかった。

「だから、花の独りよがりなんじゃんって言ってんの。紫苑がどっちか選びたいって言ったならまだしも、花が勝手にどっちが親友か、相応しいか、なんて言って、紫苑の交友関係を限定しようとしてるわけでしょ? 何様だよ。それを決めるのは紫苑でしょ」

「紫苑ちゃんは……決めるつもりなのかもしれない」

 この話には、論拠がないではない。

「え?」

 灯は冗談を聞いたように笑っている。それが冗談でないことを示すために、喫茶店での話を持ち出す。

「紫苑ちゃん、ダブルスのペアに誰が選ばれるかで、親友に相応しい人を決めるって、言ってた、ような気がする」

 ダブルスのペア、誰になるのかしらね。

 それが紫苑の言葉だ。それ以上のことは言っていない。けれど、それは婉曲に、ペアに選ばれた者こそ親友に相応しいと言っていたように花は感じた。

「え?」

 灯はやはり冗談を聞いているかのような顔つきで笑っている。この状態で果たして自分の理論が聞き届けられるだろうか。不安はあるが己の考えを述べるしかない。

「ダブルスのペアに選ばれた人が、紫苑ちゃんの隣にいていい人で、選ばれなかったほうは、もう隣にはいられない。私たち、どっちかが選ばれたら、どっちかは去らなきゃいけないと思うの。二人共、紫苑ちゃんに深入りしすぎてる」

「深入り?」

「私たち、二人共、紫苑ちゃんに好かれたいと思ってる。灯や、あるいは私がより尊重される様なんて見たくないと思ってる。そこまで深入りしちゃったら、選ばれなかった状態に耐えられない。きっともう、紫苑ちゃんの傍にはいられなくなる」

 灯の頬から笑みが消え、いつの間にか真剣な眼差しとなっている。となると、灯にも意味が通っている、ということで良いのか。

「灯のほうが、紫苑ちゃんに相応しい」紫苑ちゃんは灯よりも私にこそ相応しいと先程述べたが、本音はこっちだった。「私よりテニスが巧いし、話も合う。見た目も、他の華やかな子たちと同レベルで、私じゃ敵いっこない。灯のほうが紫苑ちゃんに相応しい」抱えて来た劣等感。紫苑ほどではないがそれに次ぐ輝きを持った人と、輝かないただの石ころでしかない自分。その対比が生み出す光と影。

 だけど、と花は語を継ぐ。

「紫苑ちゃんを私に、譲って欲しい。紫苑ちゃんを私から奪わないで。紫苑ちゃんは、私にとって全てなの」

 ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染。同じ大学、同じ学科に定めて進学した。とてもとても好きな人。それを奪われたら、花は大学最初の一年にして、人生の大切な部分を失ってしまう。羅針盤まで失ってしまう。それはどうあっても阻止したかった。たとえこのように無様な頼み込みをしてでも。

 だが。

「嫌だ」

 灯は嫌だと言った。嘲るような冷たい目でなく、人間的温かみを宿した理知的な瞳で、灯は嫌だと言った。

「断る。紫苑に相応しいのは私だって、分かってんじゃん。なら花が譲ってよ。どっちが紫苑のためになるかだって、分かってるんでしょ?」

「でも!」

 食い下がるように花は叫ぶ。しかし灯は言い切る。

「紫苑に相応しいのは私。それが答え。悪いけど、雑魚は帰ってくんないかな?」

 花の、紫苑を譲って欲しいという願いに対する灯の返答は、ノーだった。人間的魅力では灯が花を段違いに上回るので、いずれ紫苑の隣は灯が座ることになる。ダブルスのペアに選ばれるのもどうせ灯だ。もう、花がどうにかできる事ではなくなってしまった。紫苑は花の下を去る。楽しい日々はこれで打ち止め。それを思うと、眦が熱くなって、自然、涙が零れる。

 花は踵を返しその場を走り去る。もうお終いだ、何もかもがお終いだ、紫苑ちゃん、紫苑ちゃん!

 無我夢中で走り、通行人にぶつかってしまう。

 通行人は男性で、がたいのいいその人は微動だにしなかったがぶつかった反動で花だけが吹っ飛んで地面に叩きつけられる。

 氷が解けるようにじわじわと、痛みが皮膚からその奥へと伝わる。

 花はついに、大声をあげてその場で泣き出した。

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