左の女 4

 ほんとに来た。

 花はそう思った。生唾を飲み下す。本当に、灯が来た。

 花は映画館のロビーが窺える、休憩室へと続く階段に立ち、紫苑を見下ろしていた。有体に言えば死角から監視していた。

 前日、ラインでの何気ない会話で飛び出た、紫苑が灯と出掛けるという話。花は誘われていないどころか何の知らせも受けていなかった。いつそんな話になったのだろう。サークル活動中に話したのかもしれなかったが基本的に花はいつも紫苑の隣にいたので秘密裏に誘う機会はなかったはずだ。どのタイミングだろう。もしかしてラインで個別に繋がっているのだろうか。疑念は尽きなかった。

 紫苑から聞き出した通りに灯が映画館にやって来て、花は驚いていた。が、想定していなかったわけではなかった。花は普段と違う服、違う眼鏡にマスクをして多少の細工、つまり変装を自らに施している。全ては追跡し、二人を監視するため。

 合流した紫苑と灯は何か話し、打ち解け合った笑みを浮かべ、やがて発券機へと向かった。チケットは事前予約していると聞いたので花はタイトルを何気ない調子で訊いておいた。検索を掛けてみるとアクション映画だった。普段紫苑が見ないような類の映画だった。とはいえ花は紫苑の映画の好みを把握できるほど映画に精通しているわけでもなかった。昔から好きなのだろうか。それとも行動活発な灯に合わせて新しい分野を開拓しているのだろうか。分からなかった。

 二人が売店に向かうのを見届けて、花は急いで階段を降り、発券機をまごつきながら操作し、何とかチケットを発券した。映画の座席予約自体初めてで、昨日は首を何度も傾げながらなんとか予約をこなした。花は不慣れなことが嫌いだったが背に腹は代えられないと必死だった。

 案内開始時間まで間もなかったが、花はひとまず休憩室の階段に逃げ戻った。ここからなら俯瞰する形でフロアが観察できる。二人が何しているかも、位置によっては確認することができる。何より、尾行がバレるリスクがない。

 フロアに入場のアナウンスが響き、二人がチケット拝見所を通過したのを確認して、それから花もチケットを提示して奥へと向かう。スクリーン番号を確認し、部屋へ向かう。様々の広告や説明が終わり部屋が暗くなるまで部屋入口で待つ。座席に至るまでに正体を看破されないよう、更なる保険で帽子を鞄から取り出して頭に被る。

 非常灯しか点灯していない中、スクリーンが放つ薄明かりを背に動き、予約しておいた最後尾の席に座る。そこから客席を見下ろすと、予約の時点で分かっていたが客入りは半数くらいで少なく、後頭部を一つ一つ確認するうちにどこに紫苑と灯が座っているかが分かった。部屋の真ん中の中央に並んで座っている。間に置いたポップコーンへ、時々紫苑の手が伸びる。あのポップコーンは二人の物なのだと思うと、車酔いしたかのような吐き気が胸に競り上がった。

 二人は時折顔を横に向け、何かささめき合っている。花は最後尾の席でアームレストを強く握りながらそれを見ていた。

 上映中もほとんど二人を見ていた。特に喋ることもなく静かに鑑賞している。時々紫苑がポップコーンに手を伸ばす。許されているもののややマナーの悪いその姿が花には信じ難い。紫苑ちゃんはもっと真面目な子で。こんな筋肉バカみたいな映画は嫌いで。全部灯が唆したに違いない。侵略的外来種。セイタカアワダチソウ。様々考えているうちに映画が終わり、場内が明るくなると紫苑と灯も部屋を出て行った。

 この先の予定は知らない。灯がセッティングするので従うだけと紫苑はラインで言っていた。花は二人を見失わないよう、素早く追いかけ、しかし気取られないよう適切な間合いを置く。第三者がよくよく観察したら不審人物と割り出されるに違いなかったがそんな物好きのお世話好きはいない前提で花は追跡を行った。

 映画館を出て二人は近くの喫茶店に入った。道路に面した側が大きな窓になっている店で、花は窓越しに二人の姿を追いかける。一瞬、紫苑が窓外に目線を送って、目と目が合ったような気がして心臓が活きの良い魚のように跳ね上がったが、紫苑の視線はすぐに花から外れて、何事もなかったように灯と向かい合って席に座る。気づかれなかったのだ、と、花はほっと胸を撫で下ろす。

 灯がメニューを紫苑に提示し、視線と意識がそこに集中していることを見届けて花は思い切って喫茶店の中に入る。そのために変装して来たのだ。ウェイトレスがすぐに座席の案内に来たが花は紫苑たちが座った席の斜向かいを要望し、怪訝な顔をするウェイトレスからどうぞという許可を勝ち取る。

 二人が座る席に背中を向けて着席し、メニュー表を窺いながら耳をそばだてる。音は遠いがなんとか一言一言が聞き取れる。

「そうなの? 私は甘いだけのほうがいいけどなあ、人生は」と灯。

「西瓜に塩を振るように、きっと人生にも陰の部分がないと、味気ないものになってしまうわ」と紫苑。

「ビターは遠慮したいなあ、子供舌だから」

「大人になれと無理に強いるつもりはないわ」

 いきなり人生の話をしている。何があったのだろう。

「なんかあれだよね。紫苑って、時々物事を引いて見てるっていうか、ドライなとこあるよね」

「そうかしら?」

「なんていうか、何考えてるか予測不能な時がある」

 灯も自分と同じことを考えたんだ、と花は思う。目の前の人が急に知人だと知れた時のような親近感を胸に抱き、が、すぐに意地の悪い考えが浮かぶ。灯も紫苑ちゃんのことを理解できているわけではない。そこはおんなじなのだ。灯のほうが紫苑ちゃんに近い、なんてことはないのだ。日頃偉そうにしてるけど、あいつが勝ってるわけじゃない。

 やや間があって、紫苑が返答する。

「花ちゃんも最近、私が何を考えているか分からなくなると言っていたわ」

 紫苑が花の話題を持ち出した。

 そこで、お待たせしました、と、二人が注文していた品が運ばれてきて話が中断する。音もなく配膳を終えたウェイトレスが、花の傍を通って定位置に戻る。紫苑と灯は花の話を続けるだろうか。クイズ番組で正解不正解が告げられるまでの間、のような緊迫した沈黙を花は味わう。

「花が紫苑のこと、分からないって言ってるの?」

 灯は話を続行した。

「最近、分からなくなるそうよ」

 紫苑の物言いはどこか冷たく聞こえ、花は冷えた手で内臓に触れられている気になる。

「例えば、どういう時?」

「それは私も尋ねたわ。でも、具体的にどこが、というものでもないそうなの」

 具体的には、灯なんかと絡んだり、一気飲みに拍手を送ったり、その他細々としたことが花には分からない。紫苑が高校生の頃まで花に見せていた顔とは別人の肖像がそこにはあり、それが花を混乱させるのだ。しかし、具体的に言及する勇気もなく、花は時々分からなくなるとだけ伝えていた。

「全般的に、分からなくなった?」

「それは花ちゃんに訊いてみなければ分からないけれど、おそらく全般的に、よ」

「そっか。そうなんだ」

「花ちゃんの疑問は、私には測り兼ねるわね」また紫苑の口ぶりから冷徹を感じた。

「やっぱちょっと引いてるっていうか、そこで疑いを晴らしにはいかないんだね」気のせいか、灯の声が少し弾んでいる。

「疑いも何も、昔と最近とで私に違いなど無いもの。あるとしたら、それは花ちゃんの中で見方が変わっただけよ。花ちゃんの変化なのだから、私がどうこうできることではないわ」

 本当にそうなのだろうか。受け手の問題なのだろうか。紫苑は本当に何も変わっていないのだろうか。

「だから特別なことは何もしない」灯が言う。

「ええ」と紫苑。

 またウェイトレスが二人の卓に向かい、手にしたケーキを置いてまた去って行く。と思いきや、去ってまたすぐお冷を持って今度は花の卓に来た。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 会話に集中していて注文が疎かになっていた。花は慌ててメニュー表に目を落とす。何が何だか分からない。慌てて「コーヒー、一つ」と言った。

「そもそも、なんで紫苑って花と仲が良いの?」灯が気になることを言った。

「アイスですか、ホットですか」ウェイトレスが問う。花は無意識の脊髄反射で「アイスで」と答えて、意識をすぐに斜向かいのテーブルに向け直す。

「なぜって」と回答する紫苑の声が聞こえる。「以前、説明したと思うのだけれど。私は小学校の先生に――」

「畏まりました」と言って、一礼してウェイトレスが去る。花は急いで紫苑の言葉に耳を傾ける。

「あ、聞いた聞いた」

 聞こえて来たのは灯の声だった。紫苑は何と言ったのだろう。

「あの時」紫苑が言う。どの時だろう。「灯は感想一つ洩らさなかったわね。だから興味がないと思っていたのだけれど?」

「正直さ、私にはなんで紫苑が花なんかと仲良しなのか、理解できないんだよね」

 話の流れは追い切れていない、だからその発言までの経緯が分からない、それでも分かる。その言葉は聞き捨てならない。

「というと?」と紫苑。

「だって、釣り合わないんだもん。あの子、全然面白くないじゃん。映画や小説の話しても全然物を知らないし、機転も悪いし、テニスだってはっきり言って下手くそ。紫苑みたいなきらきらした人とじゃ、全然釣り合わないよ。つか、なんでこいつと付き合ってんの、って感じちゃう。紫苑のブランドが傷つく」

 途中から、耳がかっと熱くなってきて、その血流の音までもが聞こえそうなほど過熱していた。侮辱。酷い言い様。それが紛いなりにも言葉を交わす人間に下す評価か。

 対する紫苑の返答は、なかなかに感情を読み取るのが難しい、簡素な返答だった。

「随分、正直な物言いね」

「だって」と灯が言葉を連ねる。「本当のことだもん。紫苑と花じゃ釣り合わない。花が雑魚すぎる」

 しばらく沈黙があって、それから紫苑が言う。「花ちゃんは、悪い子じゃないわ」

 花は救われた気持ちになる。紫苑は自分の側に立ってくれた。灯の弁を否定してくれた。

「紫苑」と灯はまだ続ける。「紫苑が付き合うべきは花なんかじゃなくて私だよ。私のほうが紫苑に相応しい。私のほうが紫苑と話が合う。私のほうがテニスが巧い。親友にするならさ、花じゃなくて私なんだよ、紫苑」

 沈黙。それが小気味いい。

「親友にするって約束してくれたよね? そうだよ、私を親友にしてよ。親友に選んでよ。花なんか遠ざけたほうがいい。聖人君子でいたいかもしれないけど花じゃ紫苑のブランドイメージに合わない、あの子が隣にいたら紫苑の価値が下がる。紫苑。あの子を捨てて、私を選んで。ね?」

 灯の焦った顔が目に浮かぶ。ざまあみろ。灯も自分の言葉が紫苑に響かないと見たのか、多弁を止める。紫苑ちゃんはその話に乗っからない。灯は恥を掻いた。いい気味。

 随分長く紫苑は言葉を発しない。黙っている。次第に、何が起こっているのか定かでなくなり、花は振り返って確認したくなる。しかし不用意に振り返って紫苑と目が合ったら気まずい。それはできない。花は背中で状況を聞き続ける。

 と、ようやく紫苑が口を開いた。

「ダブルスのペア、誰になるのかしら」

 何の話だろう。花は心中で首を傾げる。今なんでその話題になるのだろう。

 灯が十分な間を置いて、「ねえ紫苑」と言う。

 何の反応もない。ただ喫茶店のざわつきだけが聞こえる。

「ダブルスのペアが誰になるかなんて、部長と副部長にしか分かんないって」

 灯も花と同じ思いを語った。「それより」と何かを言い掛けて止め、それから、「ペアに選ばれた人が、親友に相応しいってこと?」と言い直した。

 ダブルスのペア、誰になるのかしら。その真意は、ペアになれた者こそ親友に相応しい、という意味なのだろうか。その発想はまるで無かった。花の頭はまだ現実に追いつけないでいる。

「でも、私と花以外が選ばれる事だって、十分にあり得るんだよ」

 灯が言葉を重ねる。そっか、第三者が選ばれることもあるわけか、と花は思い至る。

「ねえ、そんなのじゃ決着がつかないよ。もっとちゃんと、私と花とで選んでよ」

 紫苑は黙ったままだ。本当に紫苑はどっちがペアかで優劣を決めようとしているのか。それさえ分からない。

 と、唐突に紫苑の声が聞こえた。

「ダブルスのペア、誰になるのかしらね」

 同じ言葉の繰り返しだった。謎かけのような。ダブルスのペアに選ばれろ。でないと話にならない。そういうことなのだろうか。

「そういうことだよね?」

 灯の発言は指示代名詞で意味が確としない。何がそういうことなのか。でも、きっと、ペアになったほうが偉いのだ。その者こそ、紫苑の隣に相応しいのだ。負けたほうは選ばれなかった者なのだ。

 いつの間にか、アイスコーヒーと伝票が卓に置いてあった。ストローを咥えて花は勢いよく液体を吸引する。痛いくらいに冷えたコーヒーが口中に溢れ返り、ふくよかな香りを鼻腔に戻して、喉を下って行く。微かな苦みが、舌に残る。

 紫苑はコンセンサスが取れたと思ったのか言葉を足さない。灯もあれこれ聞かない。花も、きっとそういう意味で合っているのだ、と思う。

 ペアを勝ち取れ。その者が親友だ。

 今まで測れなかった灯と紫苑の距離と花と紫苑の距離との差が、急に可視化されて一目で分かるようになった気がした。簡単な物差し。勝つか負けるか。

 しかし、勝つか負けるかと考えた瞬間、負けるのは自分ではないか、という恐怖が花を襲う。花はテニスが下手だ。灯の言を侮辱だと思ったが、実際問題花はテニスが下手で灯には勝ち目がない。ダブルスのペアは相性も考慮するものの基本的に実力が釣り合う者で選抜されると新谷副部長が言っていた。なら、テニスという土俵に載せられたならば、負けるのは花ではないか。

 ならば縋れるのは相性のみ、と考えて、花は更に苦悶を深くする。花には紫苑と過ごしてきた長い歳月がある。しかし、それは相性とは言えない、ただ長い付き合いなだけだ、本当に相性がいいのは、小説も映画も一緒に語れる灯のほうなのではないか。いや、なのではないか、ではない、灯だ、と断言できる。

 花はもう一度アイスコーヒーを啜った。良く冷えた液体が口中にゆっくりと侵入し、全てを冷やして鼻に僅かな香りと舌に強い苦みを残して喉を下りていく。砂を呑み込まされるような、敗北の味。

 花は負けを意識した。急に怖くなってきた。震えが始まった。

「そうだ、ちょっとしたプレゼントで、買ってきたんだけど」

 花は思わず振り返る。何を買ってきたんだろう。プレゼントだなんて、紫苑は花以外の友人から貰ったことがあったか。

「待って」と紫苑が言った。「私、受け取れないわ」

 良かった、断った。花は自分の危険な振り返り行為に気づき、慌てて体を捩じり直して前を向く。紫苑が断ったことに対する喜びと自分の身元がバレたかもしれないどきどきとで胸は激しく脈打った。

「……それは、私の物は嫌だということ?」灯が問う。

 紫苑の返答はない。それが答えだ。

「今は受け取れないってこと?」

 灯が食い下がるがやはり返答はない。

 僅かの間があって、灯が申し出る。

「この後、まだ時間空いてる?」

「ええ」と紫苑が言った。

「飲みに、行かない?」

 飲み、とは、酒飲みのことだろうか。花の理解は一拍遅れでついて来る。

 紫苑の返答はない。

「新入生歓迎会の時も」と灯。「その後の飲みの場でも、紫苑、お酒飲んでないよね。もしかして二十歳までは飲まないって家の方針、律儀に守るつもり?」

 紫苑は沈黙を保ったままだ。

「いいじゃん。二十歳未満は飲酒禁止だなんて、誰も守ってないよ。少しくらい飲んでも大丈夫だよ。紫苑ほど賢い子がさ、進取の体験を見逃すなんて、らしくないんじゃない? 化石みたいに幾星霜もお家の金科玉条を大事に抱き締めてるタイプでもないでしょう?」

 やめろ。紫苑ちゃんを悪の道に誘うな。お願いだからやめて。消えて。

「いいわ。行きましょう」紫苑が言った。

 信じられない、という花の思いの上に「やった!」という灯の歓声が被さる。花はまだ信じられないでいる。

「ただし」と紫苑が付け加える。「飲み屋には行くけれど、お酒を飲むとは限らないわよ」

 そうだ、まだ飲むと決まったわけじゃない、と思いつつ、なんでそんな誘い受けちゃうの、という思いが、渦潮のように花の中で激しく逆巻く。分からない。紫苑ちゃんが分からない。

「よし、いいよ」灯は言った。

 席を立つ音がして、花は頭を下げる。その脇を紫苑と灯が通過する。会計を済ませる様をストローを咥えて眺め、二人が店を出ると花はすぐに会計を終え、後を追った。

 道行く人を避けながら、二人が進む。その少し後ろを花は行く。接近して話し声を盗み聞きしたかったがあまり近づき過ぎると勘付かれるかもしれない。ぎりぎりの距離を保って、どちらかの顔が横を向く度どきどきして、花は引っ捕まえたい思いを何とか抑えて追跡を続けた。

 やがて居酒屋の前に二人が立った。灯がドアを開け、紫苑に入るよう促す。紫苑はそのまま中に入ってしまう。灯が後を追い、居酒屋のドアが閉まる。

 店の中は暗く、通路も折れ曲がってドアのガラス越しに中は窺えない。

 紫苑ちゃんは、お酒、飲んでしまうんだろうか。

 花はその場に突っ立っていることしか出来なかった。

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