左の女 3
まだ四月だというのにテニスコートは人も空気も過熱気味で暑苦しい。スポーツ嫌いの花にはいるだけで苦痛の、可能であれば今すぐにでも離れたくなる場だった。
それでも頑張るのは紫苑がテニスサークルを選び今のところ玉の輿に乗ることもなく女子の群れの中でテニスラケットを一生懸命に振っているからで、花は自分でも不細工だと思う素振りを振り続けていた。
やがて新谷副部長の号令と共に休憩に入る。紫苑と「疲れたね」「そうね」と言葉を交わし、既に疲労困憊の花はその場にへたり込む。体中で不快な汗が滲み、ウェアをぱたぱた扇ぐことで空気を通し不快感を和らげようと試みる。扇いでも扇いでも身体の芯が熱しているので汗が止まない。陽射しがきつくて日焼け止めを塗ったのに肌が薄ら赤くなっている。これを三年間も続けるのか、と思うと気が遠くなる。
紫苑はポケットに入れたハンカチを顔に当てて汗を拭う。その様は精悍でラケット姿がよく似合う。凛とした立ち姿に、地面に尻もちをついて休む花は憧れを持って見惚れる。
紫苑ちゃんは、さすがだなあ。
紫苑の運動する姿は昔から格好良かった。体育では良い成績を残し、その美しい姿を密かに応援する女生徒も多かった。今、紫苑はますます格好良くなっている。花はそれが嬉しい。
「大丈夫?」
紫苑に心配されるのが、ケアされることが、心地良かった。
「うん」
花はまだまだ大丈夫だと示すために重い尻を上げ、しゃっきりと立つ。ウェアに付いた砂埃をぱんぱん払うと、少しだけ気合いが入る。まだ立っていられる。それに気づくと顔もにこやかになる。
「大丈夫そうね」
紫苑が嬉しそうに、眩い笑みを見せる。
「なんとか、ね」
調子に乗って素振りをすると、ラケットの重みに引っ張られてたたらを踏みそうになる。てへへと笑うと、うふふと紫苑も笑う。
そこに、異物の声が混じる。
「おっすー」
灯が手を振りながら近づいて来る。その後方では灯の友人であるひかるが渋面で立って灯を見送っている。
「こんにちは」
紫苑が挨拶を返してしまう。相手にしなければいいのに、と花は思う。紫苑が灯を引き抜こうとしているとひかるに誤解されたらどうしようとも思う。灯を迎え入れることに益など無いのだ。
しかし紫苑はそこに勘付かないのか勘付いて猶灯を拒絶しようとしない。
「素振り、どう?」と声を掛ける灯に、紫苑は「こんな感じかしら」と素振りの実演をしてみせる。
応えなくていいのに。
花のそんな思いに、紫苑は気づいているだろうか。あるいは気づいているのではないだろうか、と、走れメロスに登場する王のような猜疑心を花は抱いている。一気飲みに拍手を送ったり、誕生日を共に過ごすことを留保したり、紫苑は大学に入って少し変わった。もしかして花との関係も変えてしまうのではないだろうか。花は震える小動物のような怖れを密かに抱いているが問い質せずにいる。
「ラケットはさ、もっと、こう持ってさ」
灯が手取り足取りで指導して、紫苑の動きがまた一つ階段を上ったように洗練される。美しいフォームの素振りとなる。その様を眼前で見せつけられて、花は心が落ち着かない。
「いい感じ。その感じでやるといいよ」灯は頷き、
「教えてくれてありがとう」と紫苑は微笑む。
嫌な場面だと花は思う。早く去れ。あっち行け。
「教えるだなんて、そんな。仲良いんだし、一緒に練習しようよ」
しかし灯は留まることを選択する。よくもずけずけと。
まるで無礼者に掴み掛かる思いで、しかし口調はあくまでフレンドリーに、花は灯に言う。
「佐川さんやあき子ちゃんとは付き合わなくていいの?」
灯は瞬間的に眉を顰めたが、間を置かずに言葉を返してくる。
「まあ、ひかるやあき子はそんな了見狭くないし。紫苑と花と喋ってても、別に問題ないかな」
「佐川さん、最近灯が付き合い悪いって、私たちにまで言ってくるんだけど」
それは実際に言われた事だった。たとえ現状灯を攻撃する上で格好の素材を切り抜いてきただけであったとしても、事実は事実だった。
「まあ、ほら、いろいろあるからさ」
灯が適当言って誤魔化した、その誤魔化しのヴェールを剥ぎに行く。
「いろいろって?」
「いろいろっていろいろだよ。いろいろすぎて一々言葉で表せない」苛立ちが隠し切れず口調に表れる。「けど、ちょっと合わないんだよね、金銭感覚が。ひかるパリピだし」
「ふーん」花は軽蔑の眼差しで灯を見る。どうせ派手好きのくせに。
「灯は」そこで紫苑が口を開いた。「ケチなほうが合う、ということで良いのかしら」
食堂でカレーを食べる紫苑に灯が言った台詞の引用だ。揶揄のようにも聞こえるが、紫苑と長く付き合った身には分かる、これは紫苑独特のユーモアだ。
「そうそう、私もケチなほうが合うの。苦学生だから」
灯も苦学生という言葉を引いて話を合わせる。それだけで腹が立つ。通じ合っているとでも思い上がっているのか。
「あんまり、苦学生には見えないけどな」
嫌がらせとして口を差し挟む。
「灯は苦学生よ。何せ、カレーが好きなのだもの」
その紫苑の言葉に花は振り返ってしまう。紫苑が灯を庇った。どうしてそっちの肩を持つの。理解できない。灯なんか、どうせ苦学生でも何でもないって紫苑ちゃんなら分かってるだろうに。
「ねえ紫苑」調子づいた灯が紫苑に言う。「テニスで分かんないことがあったら、私に訊いてよ。大概のことは教えられるから」
ここ数週間のサークル活動で嫌というほど知れた。灯は初心者の指導ができるほどテニスが巧い。
「そう?」紫苑は誘いに乗る構えだ。乗らないでよ。
「テニス歴長いからね。先輩らは他の子の指導で忙しいみたいだし、私に任せてよ」
「個人コーチ、かしら」やる気だ。
「やるやる」やるな。
「いいわね。お願いするわ」なんで。
不意に灯が視線を花に向けてきて、花は思わず視線を伏せてしまう。私は今、明らかに失望した顔をしている。見られたくなかった。
新谷副部長の掛け声により休憩が終わり、練習が再開する。灯は再び手取り足取り紫苑を指導し、紫苑の動きがさらに上達していく。美しくなっていく。
花は負けじとラケットを振る。しかし、自分の動きはまるで地を這う蟇蛙で見苦しいったらない。自分は完全に灯に劣っている。灯は花を無視している。並び立つ力が花にはないからだ。歯牙にもかけないとはこの事だろう。
もしかして、紫苑の隣に相応しいのは、私ではなくて灯なのではないだろうか。そんな疑念が、線香花火の玉が付着して焦げ付いたみたいに脳裏に焼き付いて離れない。越えても越えても絶え間なく続く波のように、花の中で懊悩が踊り狂う。私は劣っている。紫苑の隣に相応しいのは、灯。私は劣っている。紫苑の隣に相応しいのは、灯。
上級生のサーブ練習が一段落したところで、エリー部長が集合をかける。彼女の下に集まると、新谷副部長が話し始める。
「五月の連休に、他校との試合を行います。その際に誰が出場するかを近々決めます。まあ、それはほとんど三回生から選ばれるんで、一回生や二回生は関係ないと思うかもしれないけど、その試合までには新入生もダブルスのペアを決めることになるので、身を入れて練習してください。練習風景を見て、大体力量の釣り合った相手とダブルス組ませるんで、努力精進してください」
ぞっとした。力量の釣り合った相手。私ではなく、灯。
「仲の良い相手同士自主的に組んじゃ駄目なんですかぁ」
あき子が間延びした声で尋ねる。花は食い入るように新谷副部長を見る。
「相性も考慮するけど、基本的には私と比嘉部長でペアを決めるので」
考慮はされど全ては部長と副部長の一存で決まってしまう。新入生の仲の良さなんてほぼ頭にないだろう、となると、実力審査となるのが濃厚。花は灯を盗み見る。その横顔はにやにや笑っているように見える。
「他に質問は?」
新谷副部長が問う。誰も挙手しない。
「では、練習に戻ってよし!」
エリー部長が胸を張って指揮官のように言い放つ。集合していた部員が三々五々と散り、しかしなぜだか、あるいはやはりと言うべきか、灯はひかるやあき子といった友人とつるむのでなく、紫苑の隣を離れず歩く。
「ダブルス、ペアになれるといいね」
打ち解けた雰囲気で灯は言ったが紫苑は微笑みつつも少し壁を作った。
「そればかりは、部長や副部長が決める事だから分からないわね」
チャンスだ、とばかりに花は二人に割って入る。
「相性も考慮するって言ってたから、紫苑ちゃんは私とペアになるんじゃないかな」
絶望的ではあったが相性の部分を強調すると、灯は傲然と返して来た。
「それなら私にだってチャンスはあるんじゃない? 仲良いし」
「チャンス?」そんなものは万に一つでもない。そう言いたいのに、言えなかった。仲が良いという専売特許が奪われつつある。花は灯に挑みかかるように訊き直すのがやっとだった。
「そう、チャンス。機会。可能性」と灯は傲慢の宿る瞳で言う。「だいたい、力量の釣り合った相手と組ませるって言ってたじゃん? なら、私が組むことがあっても、花が紫苑と組むことはないんじゃない?」
図星だった。花の力量は足りていない。紫苑とは組めない。
平静でいたいのに顔が歪むのが分かった。屈辱だと思った。
「有り得なくない?」と灯が言った。
嗤われたような気がした。
「紫苑に相応しいのは私だと思うん――」
続きを続ける灯に、花は思いきりラケットを投げつけた。ラケットは灯の腕に当たり、地面に転がった。
「ちょっと、花ちゃん!」
紫苑が、未だかつて聞いたことのない声を出した。驚いて、怒っている。でも、花は謝らなかった。謝りたくなかった。だからそっぽを向いた。
灯は「痛っ」と呻きながら打撲部をさすっている。
「花ちゃん!」
紫苑が花の両肩を掴んで揺さぶる。どうしてそんなことをしたのか、と言っている。それは、許せないからだよ。私を侮辱したことも許せないし、灯が紫苑ちゃんの隣に座るのも許せないからだよ。確かに灯のほうが紫苑ちゃんの隣には相応しいのかもしれないけど、それでもそれを許したくはないんだよ。そう答える代わりに花は唇を引き結んで押し黙り続けた。何度紫苑に「花ちゃん!」と呼ばれようと、言葉が溢れないよう堪えた。
「どうした? 何事?」
騒動に気付いて新谷副部長が駆けつける。花や紫苑に、ではなく、腕をさすっている灯に説明を求めた。
「花が、いきなりラケットを投げつけてきて」
灯が、今まで駆け引きしていたことが明白なのにいきなりなどとしらを切ったのが頭にきた。
「いきなりじゃない!」
思わず怒声を上げてしまう。何がいきなりなものか。ずっと嫌がらせして来たくせに。今日だけじゃない、いつもいつも紫苑ちゃんの傍では嫌がらせばかりしてくるくせに。何がいきなりだ。
ざわつく周囲をエリー部長は傍観している。新谷副部長は灯、そして花に視線を移し、それから言った。
「追って事情は訊くから、まずは保健室行っておいで。紫苑、付き添ってあげて」
腕をさすっていた灯の頬が盛り上がり、ほんの一瞬、星の瞬きのような刹那ではあるが、灯は舌をぺろりと出して悪戯っぽく笑い、それを瞬時に仕舞い込んで再び痛そうな顔つきで、紫苑に付き添われて保健室へと歩み去って行く。
花は唇を引き結んで見送ることしか出来なかった。
「それじゃあ、青山さん、一緒に自販機に行こう。飲み物奢るから」
新谷副部長の腕が花の肩に回され、力が加えられて花は否応なく歩き出す。きっと事情を訊かれる。何を話そう。今ならトップバッターとして印象操作工作もできる。でも、何をどう話そう。
花は乱麻のように混乱する頭の、思考回路の一本一本を摘まんで精査して一本の長い線に繋ごうと試みる。自動販売機に至るまでにどんな物語が仕上がるのか、花にも想像が付かなかった。
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