左の女 2
多種多様な一般教養科目の中で実生活の足しになりそうな科目は実はそれほど多くなかったがその内でも実用的ながら役に立つ場面が来なければいいと望む法律の講義を、花は真面目に聞いていた。
世の中には千を超える種々の揉め事があり、それを時に波風立ててでも平定するのが民法で、故意だの未必の故意だの、または過失だの、罪を犯す側の自覚により罰則の軽重が変わる点は花にとって新発見だった。だからテレビニュースでは故意か過失かの認識を伝えるのであって、故意の犯罪ほど質の悪く罪の重いものは無いのだと知った。
花の右隣には紫苑が座り、真面目に授業を受けている。長い髪が側頭部から垂れ落ち、艶やかに電灯を照り返して美しい。紫苑は昔から美人だった。教室でイケイケの子たちはそのグループ内で誰が可愛いか噂し合い、密かに化粧などして競っていたが、その範囲外で紫苑は燦然と輝く美として立っていた。誰よりも美しかった。
殊更持ち上げられることはないにしても皆誰が一番美しいか御伽噺に出てくる鏡のように知悉していたようで、密かに紫苑の美貌に感嘆する者は多く、それが、なぜ平々凡々たる花の横にいるのかと、陰口が聞こえてきたことは二度三度ではない。ある時は面と向かって女子に訊かれた、なんで花ちゃんなんかが紫苑ちゃんの隣にいるの、と。
花にも不思議だった。紫苑に訊いてみた。紫苑は誰と付き合うかは周りが決める事じゃなくて私が決める事だから、と言った。その自立心に富んだ強く美しい回答に花はますます紫苑を好きになると同時に自分がその隣にいられることに優越を感じた。
紫苑ちゃんは私の一番。私は、紫苑ちゃんの一番?
訊いたことがある。紫苑は謎めいた笑みでくすくす笑い、ストレイシープと言った。何それ、と尋ねると、夏目漱石の『三四郎』だと言う。花は書店で文庫本を購入し読んで意味を確かめようとしたが、難しくていまいち何が何だか分からなかった。紫苑に直接訊いてもストレイシープと言い直されるだけだった。
謎は謎だが、実感として花は紫苑の中で一番だった。実際、花ほど紫苑の横にいることを許された人はいなかった。自分は特別だ。冴えない花にとって、唯一の自信の拠り所でもあった。
眺めていると紫苑が気づいて花に微笑みかける。花も微笑みを返して、また法律の世界に意識を戻した。
授業が終わり、二人で教室を出る。ちょっとした感想を取り交わそうと口を開くすんでのところで、何者かの手が紫苑の右肩を掴み、紫苑がそちらに振り向いた。
「おっすぅ、元気ぃ?」
灯だった。
「誰かと思ったわ」と紫苑は微笑む。「あなたもこの講義を受けていたの?」
「受けてた。っていうか、実は友達んちで昨日酒飲んでたらさ、朝盛大に寝坊しちゃって。遅刻したから授業ほとんど受けてないっちゃ受けてないんだよね」
こんな誰も褒めないことを嬉々として披瀝する灯のような人物は嫌いだった。紫苑に話しかけないで欲しいと思った。関わらないで欲しかった。
「そうなの? まだ入学して日も浅いのに遅刻するなんて、大胆なのね」
紫苑からは、突き放す雰囲気を感じない。私たちからしたら真逆に生きているような輩にどうして心を開くの、ともどかしくなる。
「ハート強いから」灯は笑い、それから形だけ申し訳なさそうに眉を下げ、「それで、なんだけど」と言う。「よければ、ノート写させてくれない?」
紫苑は断らなかった。「いいわよ」と言った。
「やったー」
嬉しそうに小躍りして、それから灯は話の振り先を花に向けて来た。
「花、ちわっす」
不意に声を掛けられて言葉がうまく喉から出て来ない。「こんにちは」
「法律の授業、面白かった?」
「うん」
「私が訴訟起こす日は助けてよ」
そういう軽口も花は、食卓を共にした親戚に一品おかずを押し付けられるみたいで嫌いだった。小さく頷いて返答したことにした。
互いに出方を窺うような静かな間の後、紫苑が口を開いた。
「私たち、これから学食でお昼ご飯を食べようと思っているのだけれど、良ければ灯もどうかしら?」
誘わなくていいのに。というのが、花の思いだった。これから学食に行く手筈になっていたので誘うかなと思っていたが、それでも誘わない可能性を花は期待していた。
灯は、少し考える間を置いて、「いいよ、一緒に食べよ」と言った。花は落胆した。
「ノートを渡すのは、その後でいいかしら」と紫苑が尋ねる。
「あ、お願いね」もう貸してもらえる前提で喋っている。「でもなんだか、私がノートたかってるみたいだね」
「したたか、ね」と紫苑は微笑む。
「や、でも、単に一緒に食べたいだけだからね。打算じゃないからね?」
何を今更、と花は思う。たかりで打算じゃないか。
「どうかしら」笑う紫苑に灯が「ほんとだって!」と、少し意地になったように声を張り上げて、花はおやと思う。しかしその違和感を掴み出せないうちに紫苑が「冗談よ」と笑い、灯が「だよね、あはは」と軽く笑う、お決まりのやり取りへと進んでしまう。
今感じた違和感は何だったのだろう。紫苑越しに灯を窺いながら、花は見えない答えを探した。
学食は正午だけあって混雑していて、空席を見つけるのに手間取った。三人が固まって座れる席はなかなか見つからず、やっとの思いで探し出したのが三席横並びに空いた席だった。
椅子に鞄を置き、品を選びに行く。灯はうどんとサラダを選び、紫苑はカレーを選び、花は豚の生姜焼き定食を選んだ。会計を済ませ、三人確保しておいた席に戻る。またあの歓迎会の時のように左に花、右に灯、その間に紫苑が挟まれる形で着席する。
「いただきまーす」
食べ始めてしばらくして、灯が紫苑に話しかける。
「ねえ紫苑」
「何かしら」
「カレー、好きなの?」
「それほど好きなわけでもないけれど」
「え? じゃあなんで注文した?」
「安くて美味しいから」
「好きなんじゃん」
「別段好きという感情はないわ」
「ならなんでカレー?」
「安くて美味しくてカロリーが多量に取れるからよ」
「安くて美味しくて爆カロリーだから?」
「ええ、そうよ」
「もしかして、安くて腹が膨れる食べ物にしたってこと?」
「そうなるわね」
「それって、ケチってこと?」
紫苑はよくカレーを食べていたがその背景は知らない。単なる好みの問題だと思っていた、が、それをケチと言われるのは我慢ならなかった。侮辱された瞬間すぐに手が出てしまった、そんな感じで花は強い口調で言った。
「苦学生なの!」
「苦学生、ってことは」灯は少し怯んだ。しかし、今起きた反発が無かったかのようにざらついた会話の表面を上手に均して、言葉を続ける。「家計大変なの? 仕送りは?」
「仕送りは貰っているわ」と紫苑も何も起きなかった態で言う。「火の車、というほどではないけれど、あなたのようにサラダをプラスできるほど財布に余裕があるわけではないわ」サラダのユーモアを付け加えるのを忘れない。
「サラダって、六十円だけど」灯はユーモアを額面通り受け取り真面目に返答した。
「その僅かな出費さえ、積もり積もれば私の家計に大打撃なのよ」
「マジか」灯は大真面目に困惑している。「バイトする予定はあるの?」
「そのうち探さなければ、とは考えているわ」
「サークルと並行して活動していく気?」
「考え中よ」
「そっか」
灯は少し悩むようにうどんを見つめ、それから言った。
「もしバイトするってなったら、私と一緒にやらない?」
何でもない会話。けれど、花の中で皮膚が粟立つようにぞわぞわとした感覚が広がった。
「割りの良いバイトだったら、ね」紫苑は笑っている。
「いやマジでマジで。マジで二人で始める? 先輩突いたらいいとこ紹介してくれるかもよ」
灯の態度が大真面目で、本気で二人だけでバイトをしようとしているのだ、と思うと、服についた虫を払い除けたくなるみたいに灯を紫苑から今すぐ振り払いたくなった。
花は心臓に手を当てる。落ち着くよう自分に言い聞かせる。
「ふふふ。それまではカレーで食い凌がなければならないわね」紫苑の声はご機嫌だった。
「いや、サラダくらいなら私奢るけど」灯の返答が必死に聞こえる。
「なら、カレーにサラダで生活しなければならないわ」
灯の真剣な眼差しの上に乗った平行の眉が、くっと持ち上がる。
「これもしかして、お得意のお冗談というやつ?」と訊く。
「お金が無くて苦学生なのは事実だけれど、毎日カレーを食べなければならないほど、というのはフィクションよ」紫苑は種を明かして悪戯っぽく笑う。
「なぁんだよー、本気にしちゃったじゃんかー」
灯は冗談に気づいて緊張が削げたのか呆れたように笑い、しかし担がれたのが気に食わなかったのかどこか釈然としない表情を目元に浮かべている。もしかして、二人でバイトしようという提案を、諦めていないのだろうか。
「バイト、するの?」
どうしても確認が取りたかった。慎重に発せられた声は、低く重かった。
「だから、それは冗談だったんでしょう? 人が悪いなあ、紫苑は」
灯がその可能性などまるでないかのように笑いながら答える。
しかし花は疑っていた。自分に抜け駆けでちゃっかりバイトを始めたりしないかと、気が気でなかった。可能性に警戒していた。
紫苑は涼しい顔でカレーを乗せたスプーンを口に含む。
「紫苑ちゃん、最近よく分からないから……」
玉の輿と言ったり、一気飲みに拍手を送ったり。大学に入ってからの紫苑は、花の知らない顔を見せ始めていた。花は不安で、思わず呟いた。蛇口に溜まった水が重力に負けて一滴落ちるような、思いの滴りだった。
「分からないことないわ。私は何も変わっていなくてよ」
紫苑が、これまで小中高と掛けて来たようなやさしい声で花に言う。花は信じたい思いと、不信と、心が両端に引き裂かれていた。
「二人って、幼馴染なんだよね?」
もう少し紫苑の腹の底を探りたかったのに、灯が話を始めてしまった。ムッとする。
「ええ、そうよ」紫苑が頷く。
「どうして仲良くなったの?」
それは、私たち二人が仲良くしていたらいけないという事だろうか。花の不機嫌は加速する。
紫苑が馴れ初めを話してよいかと目で窺う。
私たちの関係は正しい。私たちは仲良しだ。花は力を込めて頷いた。
「私たちは、小学生の頃から一緒なのだけれど」
紫苑が語ったのは、仲良くなった最初の経緯で、先生に助けるよう言われた事だった。次第に仲良くなり、今の形に落ち着いたと言ったのが花には不満だった。紫苑は特別なエピソードを一つも挙げなかった。
二人の仲を語る上で絶対喋っておきたいエピソードが花にはあった。
「あのね」
花は昼食時に給食を引っくり返された時の話をした。てきぱき後片付けして、悪い男子に謝罪を要求した、かっこいい紫苑。花が紫苑に惚れ込む過程を語る上で重要な話だった。
熱心に伝えた花に対し、灯の反応は冷めていた。「ふーん」一言で終え、特に感想もなく別の話に移行した。
「紫苑の誕生日って、いつ?」
花は唇をぎゅっと引き結び、下唇を舌で舐めた。なぜ、感想を言わない。
「五月五日よ。こどもの日ね」
気のせいか灯は体を捻じ曲げ、紫苑だけ見て話しているように見える。
「祝日じゃん。しかもゴールデンウィーク。え、お出掛けし放題じゃん」
「そんなに出掛けたりしないわ。けれど、そうね、美味しい食品やケーキを買いに出るには、都合がいいわね」
「へー。ねえ、今年は一緒に祝おうよ。私プレゼント贈るよ」
「あら。嬉しい申し出ね」
小中高と、紫苑の誕生日は花が一緒に過ごしてきた。その不文律を破って紫苑は灯に傾いてしまうのか。心配と、そんなことはないという反発が、胸中で練るお菓子のように混ざり合って花の心に毒々しい妬みの花を咲かす。拒否して欲しい。断固断って欲しい。けれど、自分からは言い出せない。
「けれど」と紫苑は言った。「先のことは分からないから約束はできないわ」
その瞬間、まるで自分に主権が戻って来たかのような快を、花は感じた。自分を選んでくれた喜び。そして徐々に詰まっていた灯との距離を突き放した紫苑に対する快哉。口元が綻ぶのを感じる。
「なんで」
灯はあからさまに非難する口調だった。それが猶の事小気味良かった。
「言った通りよ。先のことは分からないから、約束しかねるわ」
紫苑は柔らかい口調ながら確実に壁を設けている。花はそう感じた。
「え、いいよ確約できなくても」灯が食い下がる。「お誕生日一緒に祝おうねって、ただ現時点で約束するってだけで。別に守れなくてもいいし」
紫苑は何も言わなかった。花は笑っていた。
「もしかして……花と一緒に過ごすの?」
灯はきつい口調で問うた。納得できないと表明している。自分への間接的な非難が、快楽と愉悦に転ずることがあると、花は初めて知った。
紫苑はどう答えるのか。きっと花と過ごすと言ってくれるに違いない。実際、小中高と共に過ごしてきたのだ、花と紫苑の間には長年紡いで来た信頼関係に基づいた友情がある。
「どうかしらね。先のことは分からないから」
え、と小さな声が漏れる。花は紫苑の回答が信じられなかった。自分の耳を疑う。本当に紫苑は分からないと言ったのか。今聞いたことは本当に起こったことなのか。
「ねえ紫苑」
灯の声に、花の意識はようやく現実に舞い戻った。
「何?」紫苑が言う。
灯が言う。「誕生日を一緒に祝う約束ができないならさ、せめて私を親友にしてくれるって、約束してよ」
何の話だろうか。どういう論理展開なのだろうか。花の理解は追いつかない。
「親友?」と紫苑。
「そ。ちょっと論理の飛躍だけどさ、そっちが無理ならこっちは通してよってやつ。私を紫苑の親友にしてよ。これなら約束できるでしょ?」
親友になりたいらしい、ということだけ分かった。
「親友はするものではなくなるものだと思うのだけれど」
紫苑が距離を取ったように思った。
「いいから。約束して、ね?」
もう一度、灯が言質を取りに来た。
「ええ、いいわよ」と紫苑が言った。
紫苑が灯を親友にすると約束した。約束したのだ、と気づいて、まるで火にかけられた鍋がぐらぐら沸騰するような、抑えがたい感情の沸き立ちを花は感じる。紫苑が自分以外に親友を作る。紫苑が私以外の席を設ける。特別が、揺らぐ。
ふと、灯と目が合った。
灯は小僧のような悪辣な笑みを向けて来た。
やっぱりそうなんだ。この子は私の特等席を奪いに来ている。
花は睨み返した。
慌てて視線を外したり表情が柔和にならない時点で、突き付けられた悪意は明白だった。
赤石灯。この子は、私の敵だ。
確信した。
灯は何事もなかったように食事と会話を続ける。気兼ねなく紫苑と喋る。時折会話の都合上花に話しかけてくるが、紫苑の横から除外しようとしているのは明らかだ。許せない。許せない。
許さない。
食事を終え別れ際、灯は紫苑から法律のノートを借りた。渡さないで欲しい。その言葉が喉までせり上がって、しかし口に出来ず胸やけだけが残った。
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