右の女と左の女 ――左の女――
大和なでしこ
左の女 1
昔から新しいことが苦手だった。嫌いですらあった。小学生時代の通信簿に、自分に関する評価として恥ずかしがり屋で退嬰的、と書かれていて、恥ずかしがり屋は理解できたが退嬰的の意味を知らなかったので辞書で調べてみると、それでも良く呑み込めなかったのだが凡その意味としては消極的と同じでどちらかというとネガティヴな評価であると知れた。その時の、低評価に対する落胆と、自分の本性を見抜いた先生への感嘆と信頼は、今でも忘れずに掘りたての野菜のような瑞々しさで憶えている。
そんな青山花は凡そ社会生活には不向きで協調を説く集団生活から乳歯のようにぶら下がって落ちかかるのにはさほどの時も掛からなかったが、それが今日の今日まで、大学入学まで紛いなりにも生き抜いて来られたのは他ならぬ幼馴染の力が大きかった。
真中紫苑。小学一年生に昇級してから乱暴者のクラスメイトから逃れるように教室の隅に逃げ回っていた花にはなかなか友人が出来なかったが、そんな花を集団に引き戻して欲しいという教師の密命を受けた紫苑が、積極的に話しかけてくれることで、花は生徒の営みの輪に飛び込むことはできないながらも一人の友人を得て所謂普通の学校生活を送ることが出来るようになった。紫苑が密命を受けていたと知るのはだいぶ後の話だが、情に厚い紫苑なら教師の依頼無くとも自分を助けただろうと花は信じている。それほどの人格者だと、花はその後の紫苑との長い付き合いで理解した。
或る日の昼食時、ふざけていた男子が花の食器を机から落としてしまった。給食はバケツから水を撒くように勢いよく飛び散り、汁物は床を這い広がりコッペパンは床をアクション俳優のようにころころと転がった。花はショックが大きすぎてただ茫然とすることしか出来なかったが、紫苑は違った。紫苑はてきぱきと後始末を終え、ふざけていた男子に謝罪するよう迫った。男子は結局謝らなかったが、花は紫苑の行動力と高潔さにすっかり打たれて、べそをかくことはなかった。それ以来花にとって紫苑は、自分を仲間に入れてくれるやさしい友人から、格好良くて頼もしい憧れのヒーローとなった。
爾来、花は紫苑の横を離れないようになった。同級生から金魚の糞と揶揄される事しばしばだったが、花はむしろそれをちょっとした自慢にさえ思っていた。私は紫苑ちゃんの特等席を独り占めしている、そういう特別意識が花にはあった。紫苑は絶えず花をケアしてくれたし、花も紫苑の傍を離れ他の誰かのもとへ行くことは決してなかった。
思春期を迎えて多くが異性という観念に目覚める中学の頃、何度か同級生の女子に「紫苑と花ってデキてるの?」と訊かれた。それはからかいの意味で言われたのだが、花は冗談に見せかけた本気の返答として「デキてるよ」と返した。そういう意味で花は紫苑と付き合ってきたのだった。
中学、高校、と進級する中で、花は大学進学の異質さに気づいた。中学までは義務教育として、私立に通う意思がなければ地元の学校にまとめて進級した。毎年同じ面子が顔を突き合わせる閉じた世界だった。高校はその輪ゴムで括られた束縛が解けるものの学区内の進学先は限られ日々付き合っている子と学力が一致すれば皆同じ高校に通うことになる。紫苑を含め十数名の顔見知りが同じ高校に進学した。しかし、大学は、選択肢が全国ほぼ無限大に拡大し、その中で進学先が合致するほうが稀少だ、これは早晩紫苑と一緒にいられなくなる、と花は危機感を覚えた。そこで。
一緒の大学の、同じ学部の同じ学科に進もう、と、花は紫苑に訴え続けた。それは一種の呪縛だった。紫苑が嫌がれば簡単に鎖が断ち切られてしまう、微弱な魔法だった。
しかし、意外にも、と言えば良いのか、紫苑はその呪縛又は魔法を受け入れた。断られるのではないか、大人になれば二人の道は必然分かれるのではないか、と不安の中に悟ったような諦めを抱えていた花は、少なからず驚いた。が、もしかすると、これこそが二人の長年育んだ絆の為せる業なのかもしれない、と、紫苑が自らと同じ進学先を明言して以降思うようになった。
私たちは特別な絆で結ばれている。他の子たちとは違う。
そして花は紫苑と同じ大学の学部の学科に進み、今現在、同じサークルに入るべくテニスサークルの新入生歓迎会に参加している。
会場は人間が放つ熱気で空気が悪い。新入生がたくさん集まって、という雰囲気も花は苦手だったし、二十歳未満禁酒の世で会場が飲み屋に設定されていることも動きの繋がらない動画のように気持ち悪い違和感を強く抱かせる。しかし、紫苑がテニスサークルがいいと言うので花は小さなことと目を瞑った。
相も変わらず紫苑の金魚の糞として傍から離れず、彼女の左隣に座り、会が始まるまで紫苑と雑談する。前方に座る新入生が花と紫苑の会話に入り込もうとタイミングを探っている気配がしたので、わざと二人にしか分からない内容の会話をして侵入の糸口を断ち切る。
次第に席が埋まり、時計を確認すれば開会の時間はもうすぐだ。目の前に置かれた烏龍茶のグラスを見つめる。一度、それに手を伸ばして、紫苑にそれは乾杯するまで触ってはいけないものなのよと注意された。教えてくれた紫苑に感謝すると共に、そういう体育会系の因習とこれから付き合うことになるのだと思うと嫌気がさした。運動神経も良くない自分がここでやっていけるのか大いに不安だった。
でも。
紫苑がいるから、大丈夫。
そう思うとこの新入生の群れの中から逃げ出したい気持ちは鎮まった。
紫苑の右隣に髪を短く切り揃えた子が座り、こなれた様子で注文を済ます。その子のもとに間もなくジョッキのビールが運ばれてくる。ジョッキ!? ビール!? と二度驚く。それをすらすら注文してみせる新入生は、自分とは違う世界の生き物のように感じる。しかし、見回せば大半はビールジョッキならずもアルコールを卓に置いており、むしろ異質な生き物はソフトドリンクを注文した花と紫苑なのだと痛感する。大勢は自分たちの側にない。そう思うほど、横に座る紫苑の存在が頼もしく思えた。
開会時間を数分過ぎたところでようやく、上級生が司会を始める。
「はーい、皆さん、ちゅーもーく」会場のざわつきに負けない大きな声。「今日はK大学テニスサークルの新歓コンパに来てくれてありがとーねー。私が部長の比嘉絵里です。エリー部長って呼んで下さーい」
エリー部長が手を宙に差し出すと、そこかしこで「エリー部長!」という声がした。アイドルがよくやる挨拶のようなあれか。エリー部長は嬉しそうだ。
御満悦のエリー部長を引き継ぐように、横にいた上級生が口を開く。
「私はこのサークルの副部長の新谷桃子です。三回生です。皆さん、よろしくお願いします」
「桃子硬ーい!」
エリー部長が茶化し、新谷副部長がそれに怒ったようにエリー部長を叩き、それがバラエティー番組で目にするような定例のやり取りであったように叩かれたエリー部長は特別腹を立てることもなく話を進める。
「みんな! 今日は新入生同士で親睦を深めるための会でーす! 友達を作って仲良くハッピーになっちゃってくださーい! あ、私とも仲良くなりましょうねー。じゃ、これ以上は野暮なんで、始めちゃいましょう、皆さんグラスを持ってぇー」
言われて手にしたグラスは、表面に湿り気を湛えている。滑り落とさないようしっかり握る。グラスが冷たい。
「はい、かんぱぁーーーい!」
なんとなく予想は付いていたのだが不意打ちのように乾杯を求められて花は、慌ててグラスを高く掲げ、それから紫苑のグラスと当てっこする。続いて斜向かい、前方、左隣の子、と、次々グラスを当てる。みんなアルコールだった。
乾杯を終えてグラスを卓に置く。
「こういうのは、下ろさずに今飲むものなのよ」
紫苑に解説されて、花は慌ててグラスを取り直し、烏龍茶を一口、二口飲む。これでいいか、目で窺うと、紫苑は正答を示すようにグラスをコースターの上に戻す。花も倣ってグラスをコースターの上に置く。
間もなく、左隣の子が話しかけて来た。
「どーもー」
花は挨拶を返そうとしたが言葉が喉につかえて上手く出て来なかった。
左隣の子は少し不審に思ったようだが、続けて言葉をかけて来た。
「テニス好き?」
そんなに好きでもない。と思った。それは言えなかったし、第一声でそれを聞かれると思っていなかったのでまた言葉に詰まってしまった。
うん?と言うように、左隣の子の眉間に皺が寄る。「あ」と花は発声する。「うん」と頷く。
じっと見つめて来た左隣の子は、「そっか」と素っ気なく言い、興味の糸が切れたのか身体を翻して反対側の子に話しかけ始めた。早速話が弾んでいる。
「うまく喋れなかった」右に座る紫苑に言う。
「誰でも初対面は戸惑うものよ」紫苑はやさしく微笑みかけてくれる。
「でも、もう少しうまく切り返せないものかなって、自分でも思うんだよね」甘えた声を出してしまう。
「今日はそれを練習する良い機会ではなくて?」紫苑はいつもやさしい。
「ねえねえ」斜向かいの、紫苑と向かい合う子が紫苑に話しかけてくる。
「何かしら」
「何かしら……」斜向かいの子は繰り返し、「もしかして、御嬢様?」と問う。
「十九世紀的因習の中で育ったのは確かだけれど、御嬢様というほど大切にされてきたわけでもないわ」
斜向かいの子は一瞬ぽかんとしてしまい、二の句を継げずにいる。花にはそれが紫苑お得意の冗談だと分かっている、が、事前学習なしに言われた側には理解し難かったかもしれない。何かフォローを入れたいのだが花には適当な言葉が思い浮かばない。
「あ、うん。ふふ」
斜向かいの子は謎の笑みを残して、会話を打ち切ってしまい、アルコール飲料を飲んでグラスを手の中で転がしている。
紫苑がそっと私に耳打ちする。「私も、初対面相手だとうまく喋れないみたいだわ」
「それは受け手の問題だよ」斜向かいの子に聞こえないよう声を潜めて返す。
「だといいのだけれど」
紫苑がふっと微笑んで、花もふっと微笑み返す。その瞬間、この会場に来て初めて安心したように思う。
会話に少しの間ができる。間が出来ても焦らない、むしろ沈黙が苦にならないのは信頼関係の為せる業だと花は思う。一口飲んだ烏龍茶は柔らかなやさしい味わいだ。
それから紫苑と、受けた講義の感想を、特別思慮もなく喋り合っていると、紫苑の右隣の子が会話に割り込んで来た。
「ねえねえ」
紫苑が右に振り返る。話しかけて来た髪を短く切り揃えている子が、少しだけ紫苑のほうに身体の向きを変える。
「何学部?」
「私は、理学部よ」紫苑が答える。
「私は文学部。日本文学科なんだ」と右隣の子が言う。
「私は生物科学科よ」と紫苑も応じる。「お名前はなんて言うの?」
「私の名前は、赤石灯」と右隣の子は言う。「赤い石ころであかいし、あかりは火に丁って書いて灯。街灯の灯」
「赤石さんね、よろしく」と紫苑。
「あ、灯でいいよ。むしろ灯って呼んで。そっちのほうがしっくり来るんだ」と灯が言う。
「じゃあ、灯って呼ぶわね。私の名前は、真中紫苑。真ん中の、あの植物の紫苑と書いて、まなかしおん」
「真中紫苑」
「そう」
「じゃあ、紫苑って、呼んでいい?」
「それでいいわ。紫苑と呼んで」
まるでテニスのラリーが続くみたいに話が淀みなく行ったり来たりする様を見ていて、花は形容しがたい不安を感じる。紫苑の身体越しで灯の顔がよく見えない。もう少し身体を倒して覗き込んでみる。それを仲介して欲しいというサインだと受け取ったのか紫苑が、灯に花を紹介する。「この子は、青山花よ。私と同じ理学部生物科学科」
「よろしく」
誰にでも尻尾を振る子犬のように臆面もなく灯が挨拶するので少し驚いてしまい、花は返事を返すのもやっとだった。
「よろしく」
「花って呼んでいい?」
勢いよく返され、花はまたしどろもどろの態で返事する。「うん」
そこから灯は迷うことなく紫苑に話しかける。
「二人共理学部生物科学科だなんて、凄いね。偶然? それとも他の会で仲良くなって、並んで座ったの?」
紫苑が花を見る。別に隠すことも無いよね、と視線で問い、花がそのままの表情でいるとゴーサインと見做して灯に身の上を話し出す。
「私たち、実は幼馴染なの」
「幼馴染?」
「そうなのよ。実は私と花ちゃんは、小学校の頃から一緒に過ごしてきて、中学、高校と同じ学校に進学して、そして大学も同じ所に通おうねって、約束してK大に入ったの。それで今同じ学科に所属しているの」
灯が問うような視線を送ってきたので花は頷く。
「へえ。そうなんだ。とっても仲が良いんだね」
「大の仲良しだよ」
仲が良いという賛辞に思わず勢い込んで賛同してしまった。灯は少し驚いたように目を見開き、視線を外して続く言葉を選んでいる。
「そっか。そりが合うんだね」
と灯は言った。そこからどうして、いつから仲が良いのか、という質問に備え花は紫苑とのエピソードトークを頭の中で練る。
しかし、灯はそれ以上深掘りして来ない。目の前に綱があるように見えて実はそれはARで触れようとすると手がすり抜けてしまった、といった感じで、予想外の手応えの無さに花は戸惑う。横目で見た紫苑は、特に表情を変えた様子はなかった。
無言を経て、灯の卓に飲料が運ばれてくる。灯はそれを右手に持ち、軽々と呷った。全体の印象からカルピスサワーだと思っていたがカルピスなのかもしれない。しかし続く灯の「カルピスは何やってもカルピスだわ」という台詞を訊くとそれはやはりカルピスサワーに違いなかった。カルピスサワーの呷りっぷりを見て花は、この子、苦手だな、と漠然と感じた。
「紫苑はさ」と灯が言う。
「何かしら」と紫苑が応じる。紫苑が何でもない事のように応じたことに、花は嫌な感じを覚える。
「お酒飲まないの?」
紫苑は家の方針で二十歳までは絶対禁酒だ。その金科玉条を代弁しようかと身を少し乗り出したが紫苑がどう答えるかに興味があり、踏み止まった。もしかして紫苑は、勧められれば家の者には内緒で飲むと言い出すかもしれない。
困惑とも苦笑いともつかない笑みを浮かべた紫苑が、答える。「うちは、教育方針が厳しくて、二十歳になるまでは飲酒しないよう厳命されているの」
やっぱりそうだ。その生真面目さこそが紫苑なのだ、と花は思い直す。
「だから」と紫苑。
「飲み会でも飲まない?」と、答えを先回りして灯が言う。
「ええ」紫苑は小さく頷く。
「そうなんだ」
言って灯が視線を落とす。先程紫苑に話しかけて撤退した斜向かいの子に似た反応。ここで話が打ち切りになると思うと、ほっとしている自分がいた。
しかし。
灯は気を取り直したように視線を上げ、「ねえ、好きな音楽は?」と紫苑に問うた。
花には灯が問いを続けたことが意外だった。紫苑の好きな音楽を訊き出すと灯は、自らの嗜好も披瀝し、今度は好きな俳優の名も聞く。さらには好きな小説や映画についても。
花は、不快に思った。視線を落とした瞬間、もう二人の関係は切れたと思った。これ以上紫苑にこの女が関わろうとはしないと思った。しかし灯は交わりを断とうとはせずに質問を重ねる。あまつさえ、小説や映画にかかわる会話は盛り上がりを見せている。
嫌だ。この女は嫌だ。
電動空気入れで空気を吹き込むように花の中で例えようのない嫌悪が急激に膨らんでいく。早くこの会話終われ。早く紫苑から離れろ。そう思う傍で二人は話に花を咲かせている。
「同世代でこんなに話できる人、正直初めて出会ったかも」
灯は嬉しさの滲む笑顔で言う。
「そう? 一般教養として、外せないところは押さえた、といった程度だと思っていたけれど」
紫苑は小首を傾げて見せたが満更でもないと思ったに違いない。
「謙遜?」と灯が問う。
「え?」と紫苑が言う。
「謙遜とも感じないわけね。いや、やっぱ大学って面白いなって」
灯が笑みを弾けさせる。
「自分を面白がる人と出会えるなんて、やはり大学は面白い所のようね」
紫苑も笑む。それがもう、駄目だった。
「面白い話?」
花は顔を出して二人の会話に割り込んだ。イヤホンで聞くようにはっきり会話は聞こえていたのに全ての話を振り出しから説明させるための質問を挿入する。これで話の勢いは死に、零から会話を組み上げなければならない。
「面白い話」と復唱した灯は会話を打ち切られてやりづらさを感じただろう。どう切り出すか見物だ。
灯は少し考える様子を表し、それから意外にも「花は、映画や小説に詳しかったりする?」と、この会話に花を巻き込もうとした。
花は自分を、自ら決闘を仕掛けて負けたガンマンのようだと思った。悪意を持って会話を止めたまでは良かったが、その先の作戦が用意できていなかった。花はインドア派だが小説や映画のようなフィクションに耽溺するのはあまり得意ではなかった。これは花にとって得意な分野の質問ではなかった。
「私は、映画や小説はあんまり」何とか答えた。
そっか、と言いたげに灯の眉が下がった。それが無性に腹立たしかったが残念ながら自分には披瀝すべき知識もないことは自覚していたので口を噤んで耐えた。
「二人はさ、どうしてテニスサークルを選んだの?」
沈黙を破ったのはまたしても灯だった。まだ紫苑から離れようとしない。
蛞蝓女。
胸中で毒づいた瞬間、灯と視線が合い、慌てて逸らす。質問は何だったか、と考え、テニスを選んだ理由だったと思い出し、それは紫苑のみが知ることだと思い、そもそもなぜ紫苑はテニスサークルを選んだのだろう、と、純粋な疑問の目で紫苑を窺う。
紫苑は答えに迷った様子だったが、やがて口を開いた。
「とても卑俗な答えで、灯はがっかりするかもしれないけれど」
私はがっかりしない、と花は思った。
「がっかりって、大袈裟な」と灯が笑う。
「テニスって、社交の花形でしょう? そこでなら良い相手を見つけて、玉の輿に乗れそうな、そんな気がしたのよ」
青天の霹靂と言えば良いのだろうか、紫苑の口から玉の輿なんて打算的で下品な単語が出て来るとは想像だにしていなかった。花は脊椎に金属棒を突っ込まれたような、全身を貫く衝撃を感じた。そんな、嘘だ、という思いしかなかった。
それは灯も同じなようで、彼女の戸惑いも手に取るように伝わってくる。
「良い交際相手探し? 有体に言うと」
灯の辛うじての返答に、紫苑は訳もないと言わんばかりの確たる返答を返す。
「そうなるわね。有体に言うと」
花は眩暈を感じた。周りがアルコール臭いから、だけでは説明がつかない明らかな眩暈だった。
きっと冗談なのだ。場を盛り上げるためについた紫苑らしくない冗談に違いない。そう思うことにした。
「みんなー、新谷副部長が一気飲みするぞぉー」
唐突にエリー部長の張り上げた声が聞こえて、顔を向けた先にはグラスに口をつけた新谷部長がいる。彼女が、天を振り仰ぐように顔を上げ、黒い液体を飲み干し始める。
一気飲みを促す声がそこかしこで上がり、黒い液体はぐいぐい減っていく。会場は沸き立ち、皆の注目の中新谷副部長は見事に飲み干して見せた。
拍手が起きたが、こういうのが心底厭だと花は思った。毎年ニュースで一気飲みをするなと注意喚起が為され、時に救急搬送された学生の話題が出るのに、なぜ人は一気飲みをするのか。なぜここまで愚かなのか。そういう、道理を弁えないところが、花には物凄く不快だった。
なのに。
左隣の子が拍手を送るのはいい。どうでもいい。けれど、紫苑までもが拍手を送っているではないか。
なぜ。紫苑ちゃんも、応援するの?
玉の輿と言った紫苑の、清らかな声が耳に蘇る。紫苑の本質はどっちなのだろう。
問い質したい。がしかし、それができる状況でもない。
新谷副部長を見つめる紫苑の横顔をじっと見つめていると、エリー部長の声がする。
「コーラの一気飲みでしたぁ」
笑いのさざ波が起きて、紫苑も微笑んだ。
「みんなぁ、お酒の一気飲みは命に係わるから、絶対やらないように! 私の首が飛ぶので!」
再び笑い声がして、やり遂げた新谷副部長への疎らな拍手が続く。また紫苑が拍手している。
「凄かったね」と灯が紫苑に話しかける。余計な事言うな。
しかし紫苑も「格好良かったわね」と嬉しそうに返す。なぜ。
そのやり取りを終えると、紫苑と灯を繋いでいた会話の糸がぷつりと切れてしまったようで、灯は御手洗いに行くと宣言してすっくと立った。御手洗いへ向かうその背中を視線で追いかけ、トイレのドアの向こう側へ消えたところで紫苑に訊いた。
「玉の輿、って?」
紫苑は可笑しそうな笑みを見せ、何でもない調子で言った。
「ほんの冗談よ。一匙の虚構が入ったほうが、お喋りは楽しくなるものよ」
それを聞いて、身体から緊張の力みがするすると抜け落ちて行くのを感じた。しかし力みは、全て抜け落ちて行く手前で、まるで軒先に先日の雨粒が残るように、全部捌けることなく花の身中に跡を留めた。
あの拍手は何だったんだろう。
一匙の疑念。それがどうしても拭い落とせず、花は目前の新入生歓迎会に集中できなかった。向かいの子が紫苑に話しかける内容を盗聴することを疎かにしてしまった。心が現実に上手く照準合わせできなかった。
早く帰ろう、と紫苑に訴えた。紫苑は頷き、一次会を終えたところで二人は帰った。
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