左の女 6
灯に、紫苑を譲って欲しいという御願いを断られて数日。四月二十八日を迎え、五月の連休は間もなくだった。
花はテニスサークルで、只管素振りに励んだ。それは空を掴むような行いで、やってもやっても上達している実感は持てなかった。相変わらずラケットに振り回されていた。身もあまり入らなかった。自分がいくら努力したところで灯に敵わないことは明白だった。なら、何のために苦しい思いをして素振りをするのだろうか?
灯は楽しそうだった。灯に指導される紫苑も楽しそうだった。花だけが楽しくなかった。今後に関する憂い物思いばかりが頭に浮かんだ。私は紫苑ちゃんから離れていく運命にある。その先にいったい、何が待つ? 私は何を見つけられるだろう?
ぞっとした。何も考えないよう素振りした。しかし素振りもいずれ疎かな動作となり、また未来について悩んでいた。その堂々巡りだった。
そしてゴールデンウィークを前に、ついにダブルスのペアが決まる日が来た。
「みんなー、集合してー!」
エリー部長がテニスコートの端でラケットを振り、部員を集める。集まったところで新谷副部長が話し始める。
「いよいよ、練習試合が迫ってきました。時は五月三日、相手はM大学です。エース級は手強いけどレベル的にうちが負ける相手じゃないです、必ず勝ちましょう。では、試合に出場する選手を発表します」
選ばれた者が名前を呼ばれ、選出された証として皆の前に並んで立つ。選ばれた者と選ばれなかった者の対比。それは何もスポーツに限ったことではない、人生とは選ばれるか否かの連続なのだ。いつだって選ばれない者がいる。
「以上がメンバーです、はい拍手!」
エリー部長の声掛けで、選手に拍手が送られる。三回生の中に二回生が混じっている。煌めきを持つ原石は過ごした時間が短くても選ばれるのだ。
「続いて、一回生の、ダブルスのペアを発表したいと思います」
いよいよだ、と、花は身を硬くする。新谷副部長がA4コピー用紙に記されたペアの氏名を読み上げていく。沈黙の緊張の中に、歓声や嘆声が混ざる。まだ自分の名前も、紫苑の名前も、灯の名前も呼ばれない。永遠に呼ばれない、という未来もいいのではないか、と思う。選択が為されない灯と花と紫苑の関係。無様な延命だって、それでいいじゃないか。
しかし。
「真中紫苑」
ついに運命の時が来る。事件の人質のように首元にナイフを押し付けられた気分となり花は自由に呼吸ができない。次の瞬間に、自分は死ぬのだと思う。
「と組むのは、赤石灯」
心臓を一突きされたように思った。絶命。
「よっし!」
灯がガッツポーズしている。何人かが、その何人かにとっては大袈裟に過ぎるリアクションに驚いて灯に視線を送っている。でも、それがそれだけ重大な発表だったのだと、花だけには分かる。
灯は選ばれた。花は選ばれなかった。
背中が丸くなる落胆。紫苑を見る。紫苑は顔を喜びにも残念にも歪めることなく、超然と佇んでいる。これであの美しい顔とも縁が切れる。
「あの」
声が出ていた。
「何か?」と新谷副部長が訊く。
「私」声に力が籠る。「私、紫苑ちゃんとペアがいいです」
新谷副部長はまるで予期していたとでも言うように花の反応に淡々と対応する。「……青山さんは紫苑とが良いかもしれないけど、これは部長と副部長の私が実力を基準に組んだペアです。ダブルスのペアになるのは実力が釣り合った者のほうがいい。だから、紫苑とは赤石さんが組みます」
「相性を考慮してくれるんじゃなかったんですか?」
縋るように訊いた。
「青山さんと紫苑の仲が良いことは知っています。その上で、この判断です」新谷副部長は原稿を読むようにすらすらと返す。
「それでも、私は紫苑ちゃんと組みたいんです」
言葉を重ねるほどに、花の中で思いが強くなる。まるで渦を巻く台風がどんどん強くなるように、思いが思いに重なって諦めなられない思いが深まっていく。口調も、お手玉を取り落としたような第一声に比してどんどんと硬くクリアになっていく。
「赤石さん、青山さんがそう言ってるけど、ペアを組む人としてはどう?」
新谷副部長が少し日和った。意見を求められて灯は口を開く。
「花の言っていることは、花の視点だったら理解できるけど、本当に紫苑を思うなら、どうすべきかは歴然自明だと思います。花が聞き分けなさすぎだと思います」
灯の言っていることに理があると思った。結局、花とずるずる交際を続けることが、大学に入った紫苑にとって良いこととは言えない。灯に鞍替えしたほうがためになる。
それでも。
「紫苑ちゃんと組めなきゃ、私、サークル辞めます」
それでも、掴んでいる手を放したくなかった。
「私は赤石さんの言っていることに理があると思うけど?」
新谷副部長が冷静な判断を下す。それでも猶それに逆らう。
「紫苑ちゃんから選ばれなかったら私、無になっちゃうんです」
ダブルスのペア、誰になるのかしらね。
紫苑はダブルスのペアに選ばれたほうと付き合う。選ばれなかったほうは去る運命にある。今の紫苑に相応しいのは灯。去るべきは花。理屈では分かっている。でも、一度手にした富は、易々とは手放せない、執着してしがみ付いてしまうものなのだ。
花の強情に新谷副部長は参ったと言いたげに鼻で大きなため息を吐き、それからあまり気乗りのしない顔で紫苑に問う。
「ということだけど、紫苑はどうしたい?」
話を振られた紫苑は、何の感慨も起きないかのように表情筋一つ動かすことなくすらすらと答える。
「私に選択権と決定権があるんですか」
新谷副部長はエリー部長に振り返る。エリー部長は「いいよ、それで」と答える。
全ては紫苑の意向に託された。紫苑次第で答えが出る。
「紫苑は、赤石さんと青山さん、どっちと組む?」新谷副部長が問う。
「私は――」
私を選んで欲しい。灯のほうが魅力的なのは分かる。それでも私を選んで欲しい。たとえ見苦しい醜いアヒルの子だとしても、私は誰よりも紫苑ちゃんを好いている。愛してすらいる。灯は誰でも大丈夫。でも、私は、私には、紫苑ちゃんしかいないんだよ。だから紫苑ちゃん、私を選んで。
紫苑が続きを口にする。「私は――」
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