真ん中の女 7

「ハッピーバースデー、トゥーユー、ハッピーバースデー、トゥーユー、ハッピーバースデー、ディア紫苑。ハッピーバースデー、トゥーユー」

 頬が膨らむほどに空気を溜め込んで、それを一気に吹き出しバースデーケーキに灯ったキャンドルを紫苑は消火する。火の消えたキャンドルは一筋の煙を宙に漂わせながら、ただの融けた蝋の塊となる。失せた光を補うために電灯を点ける。

「お誕生日おめでとう、紫苑」

 そう言って紫苑の彼女が、恋愛の意味での彼女が誕生日プレゼントをくれる。

「ありがとうこざいます」

 紫苑は両手で受け取って、大事そうに胸で抱き留める。

 五月三日のテニスサークル対外試合は無事K大学の勝利に終わり、今は五月五日、紫苑の誕生日を彼女の部屋で優雅に祝っている。

「本当にお疲れさまでした、桃子さん」

 紫苑の労いに新谷副部長は照れくさそうに頭を掻く。

「いやあ、部長が接戦になった時は正直肝を冷やしたよ、M大学相手に負けたら罰でグラウンド二十周だったからね。途中でサーブ持ち直してほんと良かった」

「エリー部長はほんと、いい加減で波のある人ですね」

「ほんとだよ、副部長としては辛いよ。もっと真面目にやって欲しい。って、紫苑相手に愚痴っても仕方ないか」

「私、テニスサークル辞めちゃいましたしね」

「ほんと、問題児だよ。聞いたことないよ、ダブルスのペアが不服だからサークル辞めます、なんてのは」

 四月二十八日。選択を迫られた紫苑が出した答え。それは。

 私は、どちらとも組みません。私はこのサークルを辞めます。あとは好きにしてください。

 だった。

 花も灯も驚いた顔をしていた。絶句だった。だが、紫苑は涼しい顔で一礼してその場を辞した。

「紫苑には期待してたんだけどなあ。筋がいい子が入ったって。将来うちのサークルを背負って立つ子の候補だったのに。なんで辞めちゃうかなあ」

「桃子さんは、破天荒な生き方に憧れます?」

「破天荒?」

「そうです。ハリウッドアクション大作みたいな、重火器を引きずり回して、良識とか常識とか全部ぶっ放して行く生き様です」

「ぶっ放して行くって……まあ、自由に生きたいとは思うけど」

「私、遠慮したくないんです。我慢したくないんです。それにもう、テニスサークルでの目的は達成しましたし」

「紫苑がテニスサークルに入った理由って、玉の輿に乗るため、だっけ?」

「そうです。桃子さんが私が乗るべき玉の輿なんです」

「それは……随分な博打に出たなあと思うけど、正直今でもどうかなあと思うけど、付き合ってる自分も含めてね」新谷副部長は呆れたような笑いを見せる。「ただ、赤石さんと青山さんを切り捨てるような辞め方、よく出来たねって」すぱっ、と、新谷副部長は水平にした手刀で自らの首を切ってみせる。

「灯は、とても話の合う子でした。テニスも巧いし、魅力的な子でした。でも、ちょっと負けん気が強すぎて。そういう、支配欲の強そうな子は、不要です」

「不要、不要ね」また呆れたように新谷副部長は笑う。「怖いな、すっぱり言われちゃうと。でも、青山さんは? 長い付き合いなんでしょ? 幼馴染とか。それを見捨ててサークルを去っちゃうなんて、まあよく出来たもんだねって思うよ」

「花ちゃんは」紫苑は言葉を選ばずさくさくと答える。「実際仲の良い子でした。でも、これから大学に入って人付き合いしていくうえで、絶対に障害になる。私が恋人を作れば、絶対にあの子とどちらを取るかで問題になります。だから、その問題をさっさと処理することができたと思えば、合点の行く措置だったと思いませんか」

「合点の行く。合点の行くねえ」新谷副部長は相変わらず呆れたような苦笑いを浮かべている。

「不服ですか」

「まあ、分からなくもないっちゃあ、分からなくもないけどね。でも、いつからそのつもりだったの?」

「いつの間にか、でしょうか。故意でもなく過失でもなく、未必の故意、というやつです」

 新谷副部長は丁寧に取り除けたキャンドルを小皿に置き、別の装飾の美しい小皿に、切り分けたケーキを載せる。

「それで」と新谷副部長が言う。「どちらも選ばずに、辞めちゃうと」

「ええ。ダブルスのペアにどちらかを選べば、それはその子が私に相応しい、という、取り決めみたいなものがあったので、私はそれ自体をボイコットしました。理由は、どちらも私に相応しくなかったことをはっきり示すためです」

「私の彼女怖いなあ」新谷副部長はケーキを移す際に指に付着した生クリームをぺろりと舐める。

「桃子さんには一途な彼女ですよ」紫苑は答える。

「信じて大丈夫?」

「信じてください、自分の彼女を」

 笑って答えると、新谷副部長も可笑しそうに笑う。

 じゃあ、と言って、新谷副部長はシャンパンを冷蔵庫から取り出し、卓上に置く。その間に紫苑も一旦誕生日プレゼントを脇に置く。

「開けてみる?」と新谷副部長がシャンパンを勧める。

「はい」

「まずは、その金属線みたいなのを取り除けて、その後コルクを少し回しあげて抜けやすい状態を作って、あんまり捩じったりしちゃだめだよ、そのまま抜けちゃうから。そこから、コルクの出っ張ってるところに親指を引っかけて、押し上げるの。そうするとポンって抜けるから。やってみて」

 指示通りに作業して、親指でコルクを持ち上げようとするがなかなか抜けない。親指が痛くて辛いのでもう一度手で掴み、持ち上げて抜けやすくしようと試みると、そのまま勢いよくポンとコルクが抜けてしまった。呆気ない終幕に新谷副部長を見ると、謂わんこっちゃない、と言いたげに歯を見せて笑っている。

 紫苑は膨れっ面を作る。新谷副部長はごめんごめんと詫びる。

 おまけでついてきたプラスチックのシャンパングラスもどきにシャンパンを注ぎ、乾杯をする。

 新谷副部長が訊く。「そう言えば、紫苑の家ってけっこう厳格で、二十歳まで飲酒は許さん!って教育方針だったよね。本当に飲んじゃっていいの?」

「いいんです」と紫苑は答える。「出来れば、桃子さんにお酒の飲み方、教えて欲しいです」

「お酒の飲み方って、そんな大層な極意があるわけじゃないけど」新谷副部長は少しの戸惑いを見せる。「くどいようだけど、本当にいいのね?」

「はい。私、新入生歓迎会でも、その後の飲み会でも、お酒は一切飲みませんでした。前に灯に居酒屋に誘われた時も、一切飲みませんでした。でも、そろそろ、初めてを捧げてもいいと思うんです」

「……なんか、責任重大だな」新谷副部長は冗談めかして笑う。

「責任重大ですよ」と紫苑は言う。「今まで、花ちゃんにずっと甘えられて来ましたから、甘えることに飢えていたんです。桃子さんは頼り甲斐があります、甘え甲斐があります。そんなところが大好きです。だから、大事な後輩を、彼女を、きちんと教え導いてくださいね」

「悪の道に?」新谷副部長が悪い笑みを口元に浮かべる。

「どんな道にでも」紫苑は答える。

 きっと、こういう雰囲気なのだ、と思い、紫苑は目を瞑る。新谷副部長が這い寄る衣擦れの音がして、紫苑の両肩に手が添えられる。来た、と紫苑は思う。

 間もなく、潤った柔らかい物が紫苑の唇に触れた。確かな硬さを持った舌が、閉じた唇を割って侵入する。紫苑は新谷副部長に身を任せてキスをした。

 ごめんね、花ちゃん。ごめんね、灯。私が選んだのは、この人なの。

 この誕生日、彼女とどこまでも乱れて行こうと、紫苑は思った。

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