右の女 5

 十二時半が過ぎ混雑の峠を越えた学食でカレーを食べ、灯は大学の敷地の、南東の端に移動する。そこは植物が生い茂る空き地があるだけの無目的な場所で、基本的に誰も通過しないデッドスペースになっている。果たして、そこには誰もいない。灯は宇宙空間に立つようにぽつんと一人で立つ。

 スマホを開いてメッセージを確認する。ここに十三時に来て欲しいと紫苑が言っている。目印として楠の下とか何かしらの目標物があってもいい気はしたが南東の空き地にいてというざっくりとした指示だ。間もなく十三時だが人気がない。本当にここで合っているのだろうかと灯はそわそわする。

 と、大学敷地を囲う壁の、東壁に沿って女性が一人南下してくる。身長が低めの、地味な服装の女。彼女は灯の下まで来て、「こんにちは」と言った。

「こんにちは」と灯も返す。

 女は青山花だった。ということはもうすぐ紫苑も来るのだろうか。見回していると、「紫苑ちゃんは来ないよ」と言われた。

「どういうこと?」

 花は硬い表情で言う。「紫苑ちゃんに頼んで呼び出してもらった。今日灯をここに呼んだのは私だよ。個人的に灯に伝えたいことがあって」

 紫苑に頼んで、と言えば聞こえがいいが、有体に言えば騙し討ちだ。灯は紫苑に会うために立っていたのに本当は花と会うための予定を入れられていた。灯は大きく鼻息を吐き、風船が萎むように自分の中の明るい気持ちが萎んで代わりに険のある顔つきが支配的になるのを感じる。それをそのまま表す。作り笑顔で誤魔化さない。

「で、伝えたいことって?」冷たく言い放つ。

 花は急に瞬きして、俯く。言いづらいこと。

「紫苑がいたら駄目な話なの?」なぜこの場に紫苑がいないのか。それは紫苑がいると喋れない内容だから。訊くまでもないことを敢えて問う。

「その……」と言って花は黙り込む。こういう愚図なところが苛々する。

「私忙しいんだけど」

 さらに追い詰めると、花は顔を跳ね上げ、縋るような顔で「待って!」と小さく叫ぶ。灯の心に虫を潰して殺すような残酷さが疼く。小学校で花を虐めた子たちの気持ちが何となく分かる。

「何、早く用件言って」

 灯は髪をぼさぼさ掻いて苛立ちを演出する。花はもう泣きそうな顔になっている。分かりやすい奴、と思う。

「あ、あの!」どもりながらようやく花が言う。「紫苑ちゃんから、手を引いてくれませんか?」

 びくびくと上目遣いで訊いて来る様がこれ以上なく嗜虐心をそそる。痛めつけたらどんなにか良い顔で泣くのだろう。

「どゆこと?」

 花は口をパクパクして、それから「紫苑ちゃんと、交際しないで欲しい……」と言った。

「交際しないでって、言葉も交わしちゃだめなわけ?」

 こくりと花が頷く。

「目線が合うとか、それぐらいのことも嫌なの?」

 やや間を置いて、花は頷いた。

「……酷くない?」

「あ……」

「あ、じゃなくて。私、紫苑と友達なのに、どうして言葉交わしたり目線合わすことさえ禁じられなきゃいけないの」乾いた笑いを付け加える。

「それは……」

 花は黙った。花にそんな権限はない。なぜ灯が遠慮しなければならないのか。それを語らせる。

「それは」と花が言う。「紫苑ちゃんの親友は、私だから……」

「意味不明なんですけど。論理の飛躍すぎて何言ってっか分かんない」

「ダブルスのペア! ……ダブルスのペアに灯が選ばれたとしても、辞退して欲しい。紫苑ちゃんは私と組むから」

「そんなの、部長と副部長が決める事でしょう? んなの言われても困る。だいたい、さっきからどうしろって指示は受けてるけどなんでかの説明を受けてないんだけど。なんで私が花に紫苑を譲らなきゃいけないの?」

「それは……紫苑ちゃんの親友は、隣に相応しいのは、灯じゃなくて私だから、紫苑ちゃんは灯より私を優先しなきゃいけないの」

 腹の底から笑いが込み上げて来た。あははと笑う。「それ、ちゃんと紫苑に訊いた? 紫苑のご意向完全無視なんですけどそれ。花のほうが相応しいなんて、んなの花の妄想じゃん、悪いけど」

「妄想じゃない」反駁にしては声が小さかった。

「紫苑は何て言ってるの? 私と花とで、どっち取るの?」

「……訊いてない」

「だから、花の独りよがりなんじゃんって言ってんの。紫苑がどっちか選びたいって言ったならまだしも」カフェで、紫苑は誰がダブルスのペアになるのかと言った。それは、間接に、どちらかを選ぶということ。灯の背筋に寒い蛇が這いずる。一瞬声が小さくなる。「花が勝手にどっちが親友か、相応しいか、なんて言って、紫苑の交友関係を限定しようとしてるわけでしょ? 何様だよ。それを決めるのは紫苑でしょ」

「紫苑ちゃんは……決めるつもりなのかもしれない」

「え?」また瞬間的に、心臓がとくりと跳ねた。

「紫苑ちゃん、ダブルスのペアに誰が選ばれるかで、親友に相応しい人を決めるって、言ってた、ような気がする」

「え?」

 訊き直してしまう。それは、あの日、カフェで紫苑と話したこと。それをなぜ花が知っている? もしかして紫苑がラインか何かで花に喋ったのだろうか。

「ダブルスのペアに選ばれた人が、紫苑ちゃんの隣にいていい人で、選ばれなかったほうは、もう隣にはいられない。私たち、どっちかが選ばれたら、どっちかは去らなきゃいけないと思うの。二人共、紫苑ちゃんに深入りしすぎてる」

「深入り?」意味が判然としないが、謂わんとしていることは分かる気がする。

「私たち、二人共、紫苑ちゃんに好かれたいと思ってる。灯や、あるいは私がより尊重される様なんて見たくないと思ってる。そこまで深入りしちゃったら、選ばれなかった状態に耐えられない。きっともう、紫苑ちゃんの傍にはいられなくなる」

 確かに、灯は紫苑に好かれたい。他の誰よりもケアして欲しいと思っている。それが、自分より花のほうが大事にされていると分かったら、出血するほど顔を掻きむしるくらいに嫉妬するだろう。実際、紫苑への近さに嫉妬しているから花に意地悪な態度で臨んでいるのだ。もし選ばれなければ、灯は紫苑から遠ざかるしかないだろう。

「灯のほうが、紫苑ちゃんに相応しい」眉と眉の間に深い皺を寄せて、花は苦悩を滲ませる。「私よりテニスが巧いし、話も合う。見た目も、他の華やかな子たちと同レベルで、私じゃ敵いっこない。灯のほうが紫苑ちゃんに相応しい」

 だけど、と花は語を継ぐ。

「紫苑ちゃんを私に、譲って欲しい。紫苑ちゃんを私から奪わないで。紫苑ちゃんは、私にとって全てなの」

 小学校からの幼馴染。大学まで一緒の学校、同じ学科に通っている。それは、その子が全てだろうな、と思う。もし自分が奪われる側だったら。灯も花と同じ行動に出たのかもしれない。

 だが。

「嫌だ」

 花の顔から、潮が引くように血の気が引いていく。絶望のさざ波が、今彼女の頭の中で鳴っていることだろう。それを承知で、灯は言う。

「断る。紫苑に相応しいのは私だって、分かってんじゃん。なら花が譲ってよ。どっちが紫苑のためになるかだって、分かってるんでしょ?」

「でも!」

 食い下がる花を崖から突き落とす気分で突き放す。

「紫苑に相応しいのは私。それが答え。悪いけど、雑魚は帰ってくんないかな?」

 花が泣きそうな顔で灯を見つめる。目を細め、顔を歪め、痛苦の極致という顔つき。それでも灯は譲歩しない。酷薄な応対を取り消さない。花の感情が臨界値に達し、両の眼から涙が零れた次の瞬間、花はコインを引っくり返すように鋭い勢いで反転して、走り去った。目の位置に腕を押し当てている。その光景に心痛まないでもなかった。だが、紫苑を譲る気もなかった。なら、花に去ってもらうしか、ないではないか。

 熱いくらいの日差しを避けて木陰に入る。カフェで紫苑が口にした言葉を思い返す。

 ダブルスのペア、誰になるのかしらね。

 それが、自らに振り下ろされようとしている真剣のように思えて、灯は身震いする。大丈夫、と唱える。紫苑はきっと灯を選ぶ。スペックを見れば灯が花を圧倒している。だから大丈夫。

 しかし。万が一でも紫苑が自分を選ばなかったら。

 灯はあの輝きから取り残されてしまう。あの煌きにもう触れられない。あの光と無関係に生きなければならない。それは、恐ろしいことだった。

 風が揺らした葉擦れが、大きな音となって灯の耳にこびりついた。

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