右の女 4

「お包みしましょうか」

 灯は少し考えて、あまり仰々しいと引くかもしれないな、と思い、「いえ、大丈夫です」と店員の勧めを断る。畏まりました、と答えて店員は簡易な箱に入った商品を小さな袋に入れ直して灯に手渡す。灯はそれを受け取り、意気揚々と小物雑貨店を出る。

 駅ビルを出て道なりに進み、映画館に辿り着く。入口付近のロビーのような場所で紫苑と落ち合う。

「待った?」

「ううん。大丈夫よ」

「大丈夫って言われると不安になるなあ」

「言葉通りに受け取って頂戴」

 冗談を言い合って、それから発券機で予約しておいた映画のチケットを発行する。アクション映画。正直、紫苑の映画遍歴は文学趣味で、大衆映画館でなくミニシアターにでも行かない限りは要求を満たせないと思った、ゆえに、敢えて大味ざっくり、ビジュアルが爽快であればそれで良いヤドクガエルのように派手派手しいアクション大作を選んだ。紫苑の反応は、というと。

「こういう、ミントガムを噛む爽快感、のような映画もいいわね」

 概ね好評だった。

 スクリーンのある部屋に入り、指定された席に座る。買ったポップコーンを紫苑の席との間に置く。紫苑は映画館のポップコーンは初めてだと言う。

「どうせアクションだから。咀嚼音が入っても映像さえ追えれば、音声は究極どうでもいいかなって」とふざけてみると、

「そうね。映像を見ろと言っているのだから、他に集中する必要もないわね」あっけらかんと返す。

 他映画の宣伝や映画鑑賞マナーの説明を終え、ようやく本編に入る。短髪のマッチョが重火器を手に画面狭しと駆けずり回り、予告なしに相手を射殺して一切悪びれない様はアメリカンジャスティスの現在地のようで興味深いし日本人の常識に照らしてのツッコミをやめて主人公の行動に諸手で賛成すると堅苦しい日常から逸脱できて気分は晴れやかだった。ムカついたら殴れ。従わない奴は屈服させろ。そういうマッチョな精神性は、行使する側にとってはストレスレスで多幸感があった。

 紫苑がどう感じているかが気になり、隣を窺うと、紫苑は時折ポップコーンに手を伸ばし、概ね笑顔でスクリーンを眺めていた。映画が終わり、退場時に真意を問うと彼女は楽しかったと答えた。「破天荒な人を見ていると、自分がなんてつまらない常識に拘っているのだろう、と思えて、気持ちが楽になったわ」

 映画館を出て、事前に下調べしておいたシンプルでスタイリッシュなカフェに入る。窓際に着席し、お店お勧めのチーズケーキとブレンドコーヒーを注文する。

「紫苑は? 好きなケーキってある?」

「私は、チョコレートベースのケーキが好きよ」

「そっか。ザッハトルテと、もっと普通のチョコレートクリームのケーキがあるけど、どっちがいい?」

 メニュー表の該当箇所を開いて提示し、サンプル写真と値段を見せる。

 紫苑はじっと見つめ、「ザッハトルテにするわ」と言う。

「ブレンドコーヒーでいい?」

「ええ」

 テーブルに備え付きの呼び鈴を鳴らし、ウェイトレスを呼ぶ。シンプルでシックな制服に身を包んだ長身のウェイトレスがやって来る。彼女がお冷をテーブルに置いてから灯は注文し、それをメモしてウェイトレスは店の奥へ消える。

「チョコ系が好きなんだ?」と灯は問う。

「甘いだけでなくほんのりビターなところが好きよ」と紫苑は言う。「まるで人生みたいにね」

「そうなの? 私は甘いだけのほうがいいけどなあ、人生は」

「西瓜に塩を振るように、きっと人生にも陰の部分がないと、味気ないものになってしまうわ」

「ビターは遠慮したいなあ、子供舌だから」

「大人になれと無理に強いるつもりはないわ」

「なんかあれだよね」灯は笑う。「紫苑って、時々物事を引いて見てるっていうか、ドライなとこあるよね」

「そうかしら?」紫苑は首を傾げる。

「なんていうか、何考えてるか予測不能な時がある」

 紫苑の笑みが褪色するように失せ、灯はどきりとする。まずいことを言った。

 挽回せねば、と慌てて言葉を追加しようとしたタイミングで「花も」と紫苑が言う。花、という単語を聞いて、灯は弁解をやめる。言葉の続きをとぐろを撒いて獲物を待ち構える蛇のような気持ちで待つ。

「花ちゃんも最近、私が何を考えているか分からなくなると言っていたわ」

 お待たせしました。と言ってコーヒーが運ばれてくる。この会話を打ち切ることも出来たが、灯は継続するほうを選ぶ。ウェイトレスが去ってから、改めて訊く。

「花が紫苑のこと、分からないって言ってるの?」

「最近、分からなくなるそうよ」紫苑はコーヒーに砂糖を入れ、ゆっくり撹拌する。

「例えば、どういう時?」

「それは私も尋ねたわ。でも、具体的にどこが、というものでもないそうなの」小瓶のミルクを注ぐ。ミルクが渦巻き模様でコーヒーの黒に差し、その後砂煙が上がるみたいに輪郭が茫洋となる。

「全般的に、分からなくなった?」

「それは花ちゃんに訊いてみなければ分からないけれど、おそらく全般的に、よ」

 花は紫苑を見失っている。それを思うと口端が笑みに浮き上がる。灯は思弁しているように見えるよう真面目な顔で口元を手で覆い隠す。

「そっか」と答える。「そうなんだ」

「花ちゃんの疑問は、私には測り兼ねるわね」微かだが、自分から踏み込む気はない、という冷めた態度が伝わる。

「やっぱちょっと引いてるっていうか、そこで疑いを晴らしにはいかないんだね」

「疑いも何も、昔と最近とで私に違いなど無いもの。あるとしたら、それは花ちゃんの中で見方が変わっただけよ。花ちゃんの変化なのだから、私がどうこうできることではないわ」

「だから特別なことは何もしない」

「ええ」紫苑ははっきりと頷く。

 チーズケーキとザッハトルテが卓に供される。ここで会話の方向性を少し変える。

「そもそも、なんで紫苑って花と仲が良いの?」

「なぜって」紫苑は少し困ったように笑う。「以前、説明したと思うのだけれど。私は小学校の先生に孤立している花ちゃんと仲良くなるよう頼まれて、初めはそういう意図だったけれど次第にその指示を差し置いても仲良くするようになったのだと」

「あ、聞いた聞いた」

「あの時、灯は感想一つ洩らさなかったわね。だから興味がないと思っていたのだけれど?」

 確かに二人の馴れ初めを聞かされた時、灯はふーん一言で流した。それは花と紫苑の関係が特別であることを意識させられるのが嫌でわざと一顧だにしなかったのだ。興味がなかったわけではない。

「正直さ」

 この先を続けるべきか、思案し、続行の時だと決断して胸につかえて止まった言葉を吐き出していく。

「私にはなんで紫苑が花なんかと仲良しなのか、理解できないんだよね」

「というと?」

「だって、釣り合わないんだもん。あの子、全然面白くないじゃん。映画や小説の話しても全然物を知らないし、機転も悪いし、テニスだってはっきり言って下手くそ。紫苑みたいなきらきらした人とじゃ、全然釣り合わないよ。つか、なんでこいつと付き合ってんの、って感じちゃう。紫苑のブランドが傷つく」

 紫苑はザッハトルテを一口口にし、ゆっくりと上品に咀嚼嚥下してから、口を開く。

「随分、正直な物言いね」

 平静な声。なんとも思わなかったのか、努めて冷静を保っているのか、窺い知れない。

「だって、本当のことだもん。紫苑と花じゃ釣り合わない。花が雑魚すぎる」

 心臓に冷えた金属を押し当てられたような冷や冷やを感じながらも勇気を出して重ねて言うと、紫苑はまたゆっくりと一口ザッハトルテを咀嚼嚥下し、今度は珈琲も飲み下してたっぷり間を開けてから、言う。

「花ちゃんは、悪い子じゃないわ」

 その台詞は、面白みのない子を紹介する時に「やさしい人です」と言うような、無難な回答だった。硬い声からは抗議の意思も垣間見えるが灯の侮辱に反論しないところを見ると紫苑の中でも花は一段劣っている存在と認識されているようだ。

 ここが攻め時だ。灯は前のめる。

「紫苑。紫苑が付き合うべきは花なんかじゃなくて私だよ。私のほうが紫苑に相応しい。私のほうが紫苑と話が合う。私のほうがテニスが巧い。親友にするならさ、花じゃなくて私なんだよ、紫苑」

 紫苑は黙って聞いている。

「親友にするって約束してくれたよね? そうだよ、私を親友にしてよ。親友に選んでよ。花なんか遠ざけたほうがいい。聖人君子でいたいかもしれないけど花じゃ紫苑のブランドイメージに合わない、あの子が隣にいたら紫苑の価値が下がる。紫苑。あの子を捨てて、私を選んで。ね?」

 紫苑は黙っている。食べも飲みもしない。

 その無反応に灯は焦って語を継ごうとするが、言いたいことは全て言った、これ以上付け加えるべき言葉はない。あとは紫苑が何というかだ。灯は待たなければならない。

 黙り合いが数分続いた。

 紫苑が動きを見せる。ザッハトルテを一口、また一口口へ運び、コーヒーを飲む。上品な仕草。まだ何も言わない。またザッハトルテを食べ、コーヒーを飲む。何も言わない。灯は何か言いたくなる。意見はないのか問いたくなる。が、この針の筵に座るような沈黙を只管耐える。もう正直な思いは伝えてしまった。やり直しは効かない。

「ダブルスのペア、誰になるのかしら」

 唐突に紫苑が言い、灯は戸惑う。灯の呼びかけに対する返答はないのか。黙っていても、紫苑はそれ以上何も言わない、先程までの灯の熱弁もなかったことのように倦んだ目を窓の外に向けている。

「ねえ紫苑」

 呼びかけるが紫苑は振り向かない。窓の外を行き交う人をぼんやり眺めている。

「ダブルスのペアが誰になるかなんて、部長と副部長にしか分かんないって。それより」

 もしかして。と思う。なぜダブルスのペアを気にするのか。

「ペアに選ばれた人が、親友に相応しいってこと?」

 紫苑の意識は窓の外。まるで聞こえていないみたいだ。

「でも、私と花以外が選ばれる事だって、十分にあり得るんだよ」

 それは灯か花かの二択になっていない、第三者を多量に含む選択だ。そんなの、選択にもなっていない。

「ねえ、そんなのじゃ決着がつかないよ。もっとちゃんと、私と花とで選んでよ」

 紫苑は横を向いたままで、灯の言葉は虚しく他のテーブルの歓談に掻き消される。まるで相手にしてくれない。

 ため息を吐いて、灯がチーズケーキをひと掬いしたところで紫苑の顔が突然灯に向く。

「ダブルスのペア、誰になるのかしらね」

 出てきたのは同じ言葉だった。紫苑はケーキを食べ終え、コーヒーを飲み終え、カップをソーサーにことりと置く。真っ直ぐに灯を見る。それが答えだと言わんばかりに。

 ダブルスのペアになった者が、紫苑の親友。その者だけが紫苑の隣に相応しい。きっとそう言っているのだ。

「そういうことだよね?」

 指示代名詞のみの台詞に紫苑は是とも非とも言わない。何らの反応も示さずケーキとコーヒーを楽しんでいる。

 親友になりたければペアの座を勝ち取れ。そういうことなのだ。

 それから無言で、まるで急かされるように灯はケーキを食べ、コーヒーを飲み終える。お冷を半分飲んで、飲食が完了した気配のない紫苑に言う。

「そうだ、ちょっとしたプレゼントで、買ってきたんだけど」

 灯が来る前に購入した品を鞄から取り出そうとすると、紫苑が「待って」と言う。「私、受け取れないわ」

「……それは、私の物は嫌だということ?」

 紫苑は謎めいた微笑を浮かべて明答しない。

「今は受け取れないってこと?」

 問うても返答がない。

 プレゼントを渡すのは諦める。少なくとも今は受け取る気はないということだ。これに関しては潔く引き下がる。でも。

「この後、まだ時間空いてる?」

 慎重に、しかし強気で駒を進める。

「ええ」と紫苑が言った。

「飲みに、行かない?」

 紫苑は返答しない。

「新入生歓迎会の時も、その後の飲みの場でも、紫苑、お酒飲んでないよね。もしかして二十歳までは飲まないって家の方針、律儀に守るつもり?」

 紫苑は何も言わない。

「いいじゃん。二十歳未満は飲酒禁止だなんて、誰も守ってないよ。少しくらい飲んでも大丈夫だよ。紫苑ほど賢い子がさ、進取の体験を見逃すなんて、らしくないんじゃない? 化石みたいに幾星霜もお家の金科玉条を大事に抱き締めてるタイプでもないでしょう?」

 じっと見合う。紫苑が何考えているか分からない。それは言い得て妙だな、と灯も思う。でも、灯の勘では紫苑はこの誘いに乗る。お家の方針でずっと縛るには不適な子なのだ。それだけ自立心の強い子が、いつまでも禁酒を通すとは思えない。

「いいわ。行きましょう」

「やった!」

「ただし」紫苑は灯の喜びに冷や水を掛けるように、言葉を続ける。「飲み屋には行くけれど、お酒を飲むとは限らないわよ」

「よし、いいよ」絶対にお酒を飲ませようと思った。

 そうと決まれば善は急げで、灯はカフェの会計をさっさと済ませ、紫苑と共に居酒屋へ向かう。

「ここ、入ろう」

 入口のドアを引いて、灯は紫苑に入るよう促す。

 紫苑が、居酒屋の内に入った。

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