右の女 3
はい、だの、ないっさー、だの、午後のテニスコートには賑やかな掛け声が行き交っている。太陽は眩しく、もう真夏日なのではないかと錯覚するほどに空気や陽射しは暑熱している。素振りで汗ばんだところで、新谷副部長の「きゅーけーい!」という声が聞こえ、灯はラケットを腋に、水分補給のために買ったスポーツドリンクへと歩む。勢いをつけて飲み干すスポーツドリンクは少し温く温まっており、却って体温に馴染んで吸収が良くなっているような気がする。身体から抜けた水分が身中に戻り、まるで毛細血管を経由するように全身に巡る錯覚を味わう。それが心地良い。人は六十パーセントが水分の生き物なのだ。
「灯ぃ、気合入ってるぅ?」
語尾の間延びしたあき子の声を聞くと何かこちらの心まで安らぐ。癒し系というやつだ。灯は親指を突き出し、気合いをアピールする。
「今日どうするよ?」
ひかるはまた飲みに行くか行かないかの話だ。シャープな印象に反して根っからのパリピで、四六時中飲み会やパーティーに参加している。今日の晩、飲みに行かないかと言っているのだ。
「うーん、今日はいいや。ごめんね」
灯は微苦笑することで申し訳なさを演出して、ひかるのお誘いを丁重にお断りする。
「えー、ノリ悪いー」
ひかるは口を尖らせる。
「ごめんごめん。また誘って」
灯はあくまで謝り、しかし譲歩はしない。
「なんかさー、灯最近付き合い悪くない?」
一歩、二歩とひかるが詰め寄って来た。灯は半歩後退り、両手を盾にしてひかるのこれ以上の接近を防ぐ。
「今ちょっとお金なくてさ。ほら、入学してからクラス会だのサークルの活動費だのいろいろあるじゃない? てか、ひかるは大丈夫なの?」
「私、入学祝でけっこう貰ったんだよね。てか大学生んなったら騒いでなんぼでしょ。一緒に楽しい事しようよー、ね?」
「ごめんよー。今度、今度はちゃんと参加するからさ」
ひかるは、急に値踏みするように灯の全身を見て、「最近さあ、灯、私たちと付き合い悪くない?」と、あき子に話を振る。
「うーん、そうかなあ」
間延びしたあき子の発言は、しらを切っているのか本当にそう思って言っているのかどっちともつかない。
それがまたひかるの癇に障るらしく、ひかるは前髪を掻き上げる。
「絶対付き合い悪いよ。ねえ?」
「お金ないなら、仕方ないんじゃない」
あき子の言い方は、説明のようで、同情のようで、もしかしたら灯への侮辱かも知れなかった。
ひかるはひょっとこのように口を突き出し、顎に皺を寄せて納得できないとアピールしていたが、「分かったわ。またね」と口では言った。
「ほんとごめんね」
灯は拝むように合掌してそれを額の上に掲げ、可能な限りの謝罪の気持ちを込める。それは本心で、同時に、別の意味での申し訳なさも籠っている。
また別の話を続けようとするひかるを手で遮って、「ちょっと、ごめんね」と言い灯は場を離れ、他の部員の下に向かう。気づいた彼女は軽く手を挙げ、嬉しそうに微笑む。
灯は心が花開くように喜びに満ちるのを感じる。その背中に「あっちに乗り換えようとしてんじゃね?」というひかるの背筋の凍るような一言が浴びせられるが、灯は言い訳のための後戻りをせず彼女へと歩みを止めない。
「おっすー」
灯が声を掛けると、
「こんにちは」
と彼女が、真中紫苑が挨拶を返す。
「素振り、どう?」
「こんな感じかしら」
紫苑のフォームは見惚れるくらいに綺麗だった。しかしラケットを持つ角度が悪い。
「ラケットはさ、もっと、こう持ってさ」
灯は紫苑の手に手を重ねて指導する。その接触を歓迎している自分に気づきどきりとするが見なかったふりをする。私の心はそういう意味では浮き浮きしていない。はずだ。
グリップを握り直した紫苑が、一度、二度、素振りする。美しいフォーム、そしてこのラケットの角度ならボールを打っても明後日の方向へホームランとはならないだろう。
「いい感じ。その感じでやるといいよ」
「教えてくれてありがとう」と紫苑が言う。
「教えるだなんて、そんな。仲良いんだし、一緒に練習しようよ」
付き合い悪いと言ったひかるの言い分は合っている。灯は最初に仲良くなったひかるやあき子のグループを離れ紫苑との接近を図っている。
そこにはもう一匹、ついて来る者がある。
「佐川さんやあき子ちゃんとは付き合わなくていいの?」
青山花。これは忠告に見せかけた釘差しだ。紫苑への灯の接近を阻止しようとする牽制だ。
しかし灯も退かない、花の敵意を掻い潜って弾丸を撃ち返す。
「まあ、ひかるやあき子はそんな了見狭くないし。紫苑と花と喋ってても、別に問題ないかな」嘘だ。ひかるがさっき灯の背に投げ掛けた文句を憶えている。それでも灯は紫苑に声を掛けたいのだ。
「佐川さん、最近灯が付き合い悪いって、私たちにまで言ってくるんだけど」
花が言う。灯は紫苑を見る。紫苑が訂正しようとしないということはそれは牽制のための捏造ではなく歴とした事実なのだろう。ひかるが二人にまで文句を言っているのは、まずいな、特に紫苑に対する心象を損ねる、と灯は思わず下唇を噛んでしまう。
「まあ、ほら、いろいろあるからさ」
「いろいろって?」
お茶を濁そうとすると花は試験官のように的確に言葉を拾って指弾してくる。灯は吠え回る犬のような苛立ちを感じる。
「いろいろっていろいろだよ。いろいろすぎて一々言葉で表せない、けど」花が反論しようと口を開くその前に灯は言葉の壁を連ねる。「ちょっと合わないんだよね、金銭感覚が。ひかるパリピだし」
「ふーん」花は半信半疑、というより、濃い疑いの眼差しで灯を見る。半ば睨んでいる。
「灯は」と紫苑が口を開く。「ケチなほうが合う、ということで良いのかしら」
カレー食に対し灯がケチなのと尋ねたことを踏まえての謂わば引用なのだが、それはユーモアであって厭味ではない。その軽やかな感性がとても好きだと灯は思う。
「そうそう、私もケチなほうが合うの。苦学生だから」
同じくあの時の会話で出た苦学生という言葉を引用するユーモアで返すと、紫苑は満足そうに微笑する。以心伝心、ツーカーというやつだ。
本心は逆さだった。灯は元来派手好きで、ひかるがいるようなパーティーの世界に心惹かれる。心は刹那的享楽を求め、しかし、話が一番合うのはやはり紫苑なのだった。それだけ彼女の存在は灯の中で特別な地位にあった。ゆえに苦学生を演じる。気性の合うひかるは、残念ながらどう足掻いても二番手で、傍にいたい人を選べと言われれば灯は紫苑に寄るのだった。
「あんまり、苦学生には見えないけどな」
ぼそりと口にした花を嗜めるように紫苑が言う。
「灯は苦学生よ。何せ、カレーが好きなのだもの」
灯は学食での紫苑との会話以来、しばしばカレーを食べた。紫苑はそれを憶えていてくれたのだ。そして、それに言及することで花でなく自分のバックアップに回ってくれたのだ。灯はまるで戦場で風上に立ったかのように花に対する優越を感じた。
花は紫苑が灯を援護したことに軽いショックを受けたらしく、鋭かった追及の舌鋒が止まった。恨めしそうに紫苑を見ている。灯には愉快な光景だった。
「ねえ紫苑」愉快ついでに灯は動く。「テニスで分かんないことがあったら、私に訊いてよ。大概のことは教えられるから」テニスは中高でやっていたから自信があった。
「そう?」紫苑の眼差しに好奇が混ざる。珍奇な生き物に手を伸ばしたくなる、と言った感じの。
「テニス歴長いからね。先輩らは他の子の指導で忙しいみたいだし、私に任せてよ」
「個人コーチ、かしら」
「やるやる」
「いいわね。お願いするわ」
紫苑が灯の提案を受け入れる。受諾したのだ。灯は調子に乗って花に視線を向ける。花は屈辱を噛み締めるように伏し目で視線を合わせようとしない。
花がテニスを、もっと言うと運動全般を得意としないのは身のこなしから明らかだったし、何より花には体育会系のノリを渡って行くための根性を欠片も感じなかった。この子は無理だ。このサークルに適応できない。なら、このサークル内での紫苑の隣は、私のものだ。灯はそう考え愉悦に笑んだ。
新谷副部長の号令と共に休憩が明けて、上級生はコートを使ったサーブ練習に移る。その邪魔にならない位置で、新入生は球拾いや素振りに勤しむ。灯は紫苑のコーチを務める。もう少し膝使って。力強くストロークして。足運びはステップを踏むように。昔取った杵柄で紫苑を指導する。花はへっぴり腰の、ラケットに振り回される素振りを無様に披露している。そんな花を灯は助けない。助けてやらない。
上級生のサーブ練習が終わったところで、エリー部長の「集合!」という声がする。
手を振るようにラケットを振る彼女の下に集まると、新谷副部長が話し始める。
「五月の連休に、他校との試合を行います。その際に誰が出場するかを近々決めます。まあ、それはほとんど三回生から選ばれるんで、一回生や二回生は関係ないと思うかもしれないけど、その試合までには新入生もダブルスのペアを決めることになるので、身を入れて練習してください。練習風景を見て、大体力量の釣り合った相手とダブルス組ませるんで、努力精進してください」
「仲の良い相手同士自主的に組んじゃ駄目なんですかぁ」
あき子が間延びした声で尋ねる。
「相性も考慮するけど、基本的には私と比嘉部長でペアを決めるので」新谷副部長は淀みない返答であき子の質問を捌く。「他に質問は?」と問う。
誰も挙手せず、「では、練習に戻ってよし!」とエリー部長が胸を張って偉そうな態度で言う。集合していた部員が三々五々で散って行く。灯はひかるやあき子でなく紫苑と共に場を離れる。
「ダブルス、ペアになれるといいね」
灯が言うと、紫苑は微笑みつつも疑念を呈する眉つきとなる。
「そればかりは、部長や副部長が決める事だから分からないわね」
「相性も考慮するって言ってたから、紫苑ちゃんは私とペアになるんじゃないかな」
花が話に割り込んで来る。その事以上にこの居丈高な物言いが癪に障る。灯は言い返す。「それなら私にだってチャンスはあるんじゃない? 仲良いし」
「チャンス?」と花が訊く。
「そう、チャンス。機会。可能性」と灯は応じる。「だいたい」と話を発展させる。「力量の釣り合った相手と組ませるって言ってたじゃん? なら、私が組むことがあっても、花が紫苑と組むことはないんじゃない?」
花は屈辱に顔を歪め、しかし反論できず唇を噛んでいる。そこに追い討ちをかける。
「有り得なくない? 紫苑に相応しいのは私だと思うん――」
花が灯に向けてラケットを投げつけて来た。ラケットは灯の腕に当たり、地面に落ちて硬く軽い音を立てる。
「ちょっと、花ちゃん!」
ラケットを投げたことを紫苑が咎める。花はそっぽを向いて謝る気配は無い。当たった部位が痛い。灯は思わず「痛っ」と呻き、腕をさする。
「花ちゃん!」
紫苑が花の両肩を持って揺さぶる。花は顔を背けて唇を引き結んで沈黙と不承を表す。花は叱られることを受け入れない。そんな花をただそうと紫苑が「花ちゃん!」と呼ぶ。しかし返事はない。
「どうした? 何事?」
異変に気付いた新谷副部長が駆けつける。花と向かい合う紫苑を見て、それからぽつんと立っている灯に説明を求める。
「花が、いきなりラケットを投げつけてきて」
そう答えると、すぐに花が反論した。
「いきなりじゃない!」
金切り声に、周囲がざわつき、皆の目が三人に集中する。灯は殊更痛そうに腕をさすって見せる。実際痛い。
灯を見つめ、灯の腕を見つめ、それから花を見つめ、事の推移をどこまで見抜いたかは分からないが新谷副部長は判断を下す。
「追って事情は訊くから、まずは保健室行っておいで。紫苑、付き添ってあげて」
勝った。と灯は思った。ほんの一瞬、灯はアインシュタインの肖像ほど露骨ではないがちろりと舌を出し、それから殊更痛そうな顔つきを作って紫苑に付き添われて保健室に向かった。
その場を離れ、暫く歩む間、紫苑は脇に控えて心配そうな顔で覗き込んで来る。
「新谷副部長って頼りになるね」灯は言った。
「そうね」紫苑は短く答える。
「エリー部長よりしっかりしてる」
「エリー部長には悪いけれど、そう思うわ」
小さな笑いを交換し、暫く無言で歩いて、それから灯は問う。
「ねえ紫苑」
「何?」
「今度、どこかに出掛けない?」
日に焼けて仄かに赤く色づいた肌にえくぼを窪ませ、紫苑は、そうね、と言った。
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