右の女 2
目覚ましさえかければ大丈夫だろうと思い、灯は前日の晩、友人宅で深更までアルコールを痛飲して騒いだのだが、想定外に遊興とアルコールが身体に響いて寝過ごしてしまい、授業に遅刻して教室に忍び込む体たらくとなってしまった。しかし、それは初めてのことでなく、またテニスサークルの先輩らから授業の程良いサボり方を教授されていたので、灯は臆することなく平然と講義中の教室に入り、後方の席に腰を下ろすことができた。
教授は狼藉に対して飼い慣らされたのか顔色一つ変えず講義を進行する。灯はさもずっと存在していたような顔で授業を受けた。
法律に関する一般教養科目だった。六法全書を片手に民法を紐解いていくのだが、友人宅から手ぶらで参加した灯には授業の理解は難しかった。頬杖をついて板書を眺める。要領はいいほうなので先生の伝えたいことの要約は簡潔に頭の中に思い描くことができ、それさえ分かっていればいいだろう、と、二日酔い紛いで焦点の定まらぬ頭で考えていた。
授業が終わり、大欠伸して教室を出て、あまりお腹も減っていないし、昼食はコンビニのおむすびくらいでいいか、と今後の行動に見切りをつけて講義後の人で溢れた廊下を歩いていると、見知った背中を見かける。
あ、と思い、駆け寄った。
「おっすぅ、元気ぃ?」
灯に右肩を掴まれたその人は驚いたように振り返り、灯の顔を確認すると「誰かと思ったわ」と言って頬を弛緩させ、微笑みを浮かべた。
「あなたもこの講義を受けていたの?」その人、真中紫苑は穏やかに問う。
「受けてた。っていうか」本当のことを言ったほうがウケると思った。「実は友達んちで昨日酒飲んでたらさ、朝盛大に寝坊しちゃって。遅刻したから授業ほとんど受けてないっちゃ受けてないんだよね」
「そうなの?」紫苑は笑わなかったが、冷淡な印象でもない、態度は友好的だ。「まだ入学して日も浅いのに遅刻するなんて、大胆なのね」
「ハート強いから」笑ってみせる。紫苑も可笑しそうに微笑む。
「それで、なんだけど」灯は人見知りの子供が願望を切り出す時のように控えめにいじらしく、言ってみる。「よければ、ノート写させてくれない?」
一瞬、紫苑が無感情の目で灯を見たような気がしたが、すぐに気さくな調子で紫苑は「いいわよ」と言った。
「やったー」
小躍りしながら、会話の切れ目に話しかける対象を切り替える。
「花、ちわっす」
花は微かに聞き取れる声で「こんにちは」と言った。
「法律の授業、面白かった?」
「うん」と花が小さな声で答える。
「私が訴訟起こす日は助けてよ」
その場限りの丸っきりの冗談だが、花はくすりともせずに小さく頷いただけでリアクションを終えた。
弾まない話の結果として生じた気まずい空白を埋めるように、紫苑が言う。
「私たち、これから学食でお昼ご飯を食べようと思っているのだけれど、良ければ灯もどうかしら?」
う、と思う。昼はコンビニおにぎりで軽く済まそうと思っていたのだが。どうする。考えて、「いいよ、一緒に食べよ」と答えた。社交は大事だし、何より紫苑と食を共にしてみたい。
「ノートを渡すのは、その後でいいかしら」
「あ、お願いね。でもなんだか、私がノートたかってるみたいだね」ゲスい、私、と冗談めかして言う。
「したたか、ね」と紫苑は笑った。
「や、でも、単に一緒に食べたいだけだからね。打算じゃないからね?」思わず付け加えた自分がいた。まるで、そう誤解されたくないと釈明したがっているような台詞だ。
「どうかしら」
笑う紫苑に、「ほんとだって!」と思わず大きな声を出してしまう。冗談よ、と笑われてしまう。
だよね、あはは。灯は適当に笑って焦りを誤魔化した。
正午の学食は学生で混み合って、空席を見つけるのに苦労した。三人が固まって座れる席はなかなか発見できず、ようやく見つけたのが三席横並びに空いた席だった。
椅子に鞄を置いて領有を宣言する。それから、料理を選びに行く。灯はうどんとサラダを選び、紫苑はカレーを選び、花は豚の生姜焼き定食を選んだ。会計を済ませ、三人確保しておいた席に座る。偶然、あの歓迎会の日のように左に花、右に灯、その間に紫苑が挟まれる形で着席する。
「いただきまーす」
いただきますを宣言して、数口食べて、それから話を振ってみる。
「ねえ紫苑」
「何かしら」
「カレー、好きなの?」
「それほど好きなわけでもないけれど」
「え? じゃあなんで注文した?」
「安くて美味しいから」
「好きなんじゃん」
「別段好きという感情はないわ」
「ならなんでカレー?」
「安くて美味しくてカロリーが多量に取れるからよ」
ん? と思う。「安くて美味しくて爆カロリーだから?」
「ええ、そうよ」そう言って紫苑はカレーを口に運ぶ。
「もしかして、安くて腹が膨れる食べ物にしたってこと?」
「そうなるわね」涼しい声で言う。
「それって、ケチってこと?」
「苦学生なの!」と、花が代わりに答えた。その語調の強さに驚く。紫苑のスプーンも止まる。
「苦学生、ってことは、家計大変なの? 仕送りは?」
「仕送りは貰っているわ。火の車、というほどではないけれど、あなたのようにサラダをプラスできるほど財布に余裕があるわけではないわ」
「サラダって、六十円だけど」
「その僅かな出費さえ、積もり積もれば私の家計に大打撃なのよ」
「マジか」思いの外深刻な反応が返って来て、何気ない会話だったんだけどなと思いつつ灯は着地点を探る。「バイトする予定はあるの?」
「そのうち探さなければ、とは考えているわ」
「サークルと並行して活動していく気?」
「考え中よ」
「そっか」
もしかしたら紫苑がバイト優先でテニスサークルを辞めてしまうこともあり得るのか。先日の玉の輿発言も相まって真実味が迫る。それは嫌だな、と灯は思った。
「もしバイトするってなったら、私と一緒にやらない?」
思わず誘っていた。
「割りの良いバイトだったら、ね」紫苑が笑う。
「いやマジでマジで」と、追いすがるような強引さであることに灯は気づいた。が、灯の思いも割とマジだった。「マジで二人で始める? 先輩突いたらいいとこ紹介してくれるかもよ」
「ふふふ。それまではカレーで食い凌がなければならないわね」
「いや、サラダくらいなら私奢るけど」
「なら、カレーにサラダで生活しなければならないわ」
あれ? と思う。なんだか当人に切迫感がない。もしかして。
「これもしかして、お得意のお冗談というやつ?」恐る恐る訊いてみる。
「お金が無くて苦学生なのは事実だけれど、毎日カレーを食べなければならないほど、というのはフィクションよ」紫苑は可笑しそうに笑う。
「なぁんだよー、本気にしちゃったじゃんかー」
騙されたような気がしたのと、半ば本気で提案していたバイト案が霧散霧消したことに、複雑な思いを抱く自分がいた。すっかり騙されたよー、と笑いながら、落胆も感じていた。
「バイト、するの?」花が紫苑に尋ねる。
「だから、それは冗談だったんでしょう? 人が悪いなあ、紫苑は」代わりに答える。
花はまだ疑うように紫苑を注視していたが、紫苑は全てが狂言芝居だったと言うようになんでもない顔でカレーを掬って口に運んでいる。
「紫苑ちゃん、最近よく分からないから……」
お手玉して床に落とすみたいに花の口から台詞が零れ落ちる。
「分からないことないわ。私は何も変わっていなくてよ」
紫苑が、まるで幼児を慈しむ母のような口調で花に言う。不謹慎だが一瞬噴き出しそうになった。
しばらく話をせずにご飯を口に運び、どこか子供とその引率者めいた二人に尋ねてみる。
「二人って、幼馴染なんだよね?」
「ええ、そうよ」引率者の紫苑が答える。
「どうして仲良くなったの?」
何となく、不釣り合いなコンビだな、と思っていた。知識豊富でユーモアを解す、時に謎めいている紫苑と、引っ込み思案で正直面白みのない花。二人の馴れ初めはどんなものなのだろう。
一瞬、紫苑が花の顔を見た。花の様子を窺い、話してよいか伺っている。花は、かなり勢い込んで頷いた。
「私たちは、小学生の頃から一緒なのだけれど」
初めは先生に、花を助けるよう言われて仲良くする面もあったが、次第に指令抜きで仲良くなった。特別なエピソードはない。と紫苑は答えた。
「あのね」
付け加えて花は、昼食時に給食を引っくり返された時の話をした。紫苑ちゃんがてきぱき片付けをして、男子に謝るよう言ってくれたの。
話を聞いていて、灯は嫌だなと思った。馴れ初めは紫苑が説明したのにそれに付け加えて二人しか知らない過去をひけらかす花の姿勢が、灯を蚊帳の外にわざと置いているような感じで、まるで二人の関係が特別だと言わんばかりの口吻で、嫌だと思った。
話を聞き終えて灯は「ふーん」と言い、しかしエピソードに対する感想を述べることをわざとしないであからさまに紫苑だけに向けて訊く。
「紫苑の誕生日って、いつ?」
盗み見た花は、特別な絆の話をスルーされたことに憮然とした表情を見せている。灯の中で、昆虫を殺すような残酷な嗜虐心が芽生える。
「五月五日よ。こどもの日ね」
灯は体を捻じ曲げ、紫苑の顔だけ見て話す。
「祝日じゃん。しかもゴールデンウィーク。え、お出掛けし放題じゃん」
「そんなに出掛けたりしないわ。けれど、そうね、美味しい食品やケーキを買いに出るには、都合がいいわね」
「へー。ねえ、今年は一緒に祝おうよ。私プレゼント贈るよ」
「あら。嬉しい申し出ね」
紫苑の目が細くなる。灯も同じように目を細めて笑む。
「けれど」紫苑が言う。「先のことは分からないから約束はできないわ」
「なんで」非難する口調で訊いていた。
「言った通りよ。先のことは分からないから、約束しかねるわ」
「え、いいよ確約できなくても」普段通りの口調で言う。「お誕生日一緒に祝おうねって、ただ現時点で約束するってだけで。別に守れなくてもいいし」約束を引き出そうと意地になっている自分を灯はまるでガラス越しから観察するように冷静に内省する。私はそれだけ紫苑に固執している……。
紫苑は結論を濁す。微笑んで何も返さない。
「もしかして……花と一緒に過ごすの?」
そうなの?と非難するような、きつい口吻になってしまった。嫌な感じだ。けれど、灯を斥けて花との時間を優先すると言うなら、実際腹に据えかねた。どうしてそんな面白くない子と。私と過ごすほうが絶対楽しい。
紫苑は。
「どうかしらね。先のことは分からないから」
と答えた。
お茶を濁すような回答。灯は花を盗み見る。花は小口を開いて紫苑を見つめている。ショックを受けた表情。もしかしたら今までは一緒に誕生日を過ごしてきたのかもしれえない。それが、今年は確約を得られなかった。
灯は、誰かが丁寧に整備したテニスコートに足跡を付けるような、黒い悪意を持って含み笑いを浮かべる。紫苑の横に座る幼馴染の女。その席も、絶対安泰ではないのだ。
ふと、魔が差した。
「ねえ紫苑」
「何?」紫苑は灯の胸中の悪意など知りもせずいつもと変わらぬ笑顔で応じる。
「誕生日を一緒に祝う約束ができないならさ、せめて私を親友にしてくれるって、約束してよ」
「親友?」
「そ。ちょっと論理の飛躍だけどさ、そっちが無理ならこっちは通してよってやつ。私を紫苑の親友にしてよ。これなら約束できるでしょ?」
「親友はするものではなくなるものだと思うのだけれど」
「いいから。約束して、ね?」
ごり押しすると、紫苑は仕方ないと言った様子で苦笑いを浮かべ、「ええ、いいわよ」と言った。
無理にさせた約束だから言葉通り履行されるかは半信半疑だが、これで私も紫苑の横に座る権利を得た。残酷な悪意を持って花に視線を移すと、花は愕然に唇を震わせていた。ふとこちらと目が合った。
睨んで来た。
灯も悪餓鬼が見せるような悪意剥き出しの笑みで迎え討った。
二人の視線が交錯して、見えない火花が散った。そして、互いに視線を外し、網膜に焼き付いた残像に、彼女が自分の敵であるとレッテルを張る。
それから、食事をしながら何気ない調子で紫苑と話した。花とも必要が出て来た場合には言葉を交わした。そして最後に、紫苑から先程の法律の授業のノートを借りて、二人と別れた。
あまり空腹を感じていなかったところに呑み込んだうどんとサラダは腹に重く、灯は無駄足を歩いて運動して帰ろう、と思った。
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