右の女と左の女 ――右の女――

大和なでしこ

右の女 1

 新しい生活へ人生が開かれていく、あのわくわくが、赤石灯は好きだった。小学校に上がりランドセルを背負った時は、布団に潜るまでランドセルを手放さずに両親を閉口させた。中学に上がった入学式の夜はセーラー服が嬉しくてなかなか脱がずに皺を寄せてしまいこれまた親の眉を歪めた。高校に入れば治まるかに見えた進取の気風は、しかし全く衰えず、どころかより著しくなり、灯は中学より倍以上の数に膨れた同級生の合間を子犬のように忙しなく動き続けて交友関係を広げ、いつの間にか学年で知らぬ人のない有名人となった。

 大学に入ったらサークルに入ってバイトも入れて、自分の世界を掌の小ささから大きくワールドワイドに広げてやろうという野心を、持ち合わせながら第一歩として参加したのが今日のテニスサークルの新入生歓迎会だった。大学近くの飲み屋で開かれたそれには灯のような新入生が多数列席し、人いきれを醸しながら初見の者同士挨拶を交わしている。

 灯はやや出遅れたと知り狼狽したが急いで席に視線を飛ばし、熱気に開いた穴を探す。幾つか見えた空席の、隣席に座る者を観察して、話しかけたくなるか否か外見で値踏みし、合格だと思った子の横に座る。特別目を引いた子の、右隣に着席した。

 オーダーは?とサークルの先輩に訊かれる。店のメニューは知らないがこういう時はとりあえずビールから始めるものだと聞いていたので灯はビールを注文する。まだ不慣れな新入生の多い中で迷わずビールを注文した心得者に先輩の口端が少し嬉しそうに上がったのを灯は見た。

 自分の前にビールの注がれたグラスが音もなく置かれる。それを見届けてから、灯は特別目を引いた、左隣の子に目を寄せる。横目で見た彼女は端正な顔立ちで高すぎない整った鼻筋をしている。全体に放つ雰囲気が上品な良家のお嬢様で、いいな、と思う。恰好の獲物、と言えば下衆だが、誰でもお近づきになりたくなるような華を持っている。

 灯が声を掛けようとしたところで灯の右隣の子が声を掛けてきて出端を挫かれる。灯は有体に言えばくそと思いながら、今声掛けて来なくていいのに、と毒づきながらも、右隣の子に顔を向ける。右隣の子が微笑む。

 何学部ですかぁ。

「文学部の日本文学科です」と、はきはきと、微笑みを忘れずに答える。「あなたは何学部?」

 私は政経学部ですぅ。

 右隣の子は締まりのない、甘ったれた声を出す。このタイプに性格のきつい子はまずいない、天然さんは少し苦手だが自分と対立することはないだろう、灯はそう見切りをつけ、本格的に話し込むべく体を少し右側に捻る。その時。

「はーい、皆さん、ちゅーもーく」

 演劇部の発声のようによく通る声がして、視線を向けると薄化粧のこなれた女性が、口元に筒状に構えた手を添え、拡声器として皆に呼びかけている。

「今日はK大学テニスサークルの新歓コンパに来てくれてありがとーねー。私が部長の比嘉絵里です。エリー部長って呼んで下さーい」

 エリー部長が拡声器を止めて空気を握った片手を新入生に向けて差し出す。これはたぶん、エアマイクを突き出しているのだ。

 エリー部長ー!

 意図を理解した子の何人かがコール&レスポンス式にレスポンスを返す。察してもらえたことが嬉しいのかエリー部長は満足げに二度頷いた。エリー部長の横にいた推定三回生の女性が、苦虫を噛み潰したような顔でその様を眺め、タイミングを見計らって口を開く。

「私はこのサークルの副部長の新谷桃子です。三回生です。皆さん、よろしくお願いします」

「桃子硬ーい!」エリー部長が大笑いし、新谷副部長に叩かれてから、新入生に向けて話し始める。「みんな! 今日は新入生同士で親睦を深めるための会でーす! 友達を作って仲良くハッピーになっちゃってくださーい! あ、私とも仲良くなりましょうねー。じゃ、これ以上は野暮なんで、始めちゃいましょう、皆さんグラスを持ってぇー」

 灯はビールの入ったグラスの取っ手を持つ。飲酒するのは初めてだ。わくわくが胸に高鳴る。

「はい、かんぱぁーーーい!」

 乾杯、と皆がグラスを上げ他の子のグラスに軽く当てる。右隣の子と乾杯し、続いて前方、斜向かいの子らと乾杯し、続けて左隣に座るあの子と乾杯して、わくわくに沸き立った心が一瞬の違和に少しだけ萎む。左隣の子が握ったグラスはファミレスにあるお冷を入れるグラスみたいに取っ手が無く、中身は非アルコール、推定も何もはっきりと烏龍茶だった。

 アルコールじゃないんだ。

 こういう場が人生で初めての飲酒となると思っていた灯は少なからず戸惑った、が、左隣の子になぜなのか尋ねることも興醒めに思えたので何も言わぬまま自らのグラスを自らの口へ運んだ。

 人生初のビールの味は、苦いんだか口中が痛いんだか、まだ形容しようにも的確な語彙が手元にないことだけが分かる、不思議な味わいだった。

 それを勢いで飲み下し、三口飲んだところで口から外してグラスをコースターの上に置く。ぷはぁ、と言うものなのかと思ったが、うげ、に似た、なんとも情けない声が代わりに出た。

 乾杯をしたそばから会場はざわつき始め、楽しくて少し緊張する初対面同士のご歓談となる。灯は右隣の子、儀部あき子と喋った。何県出身なのか、どういう経緯でK大学を受験したか、好きな音楽は何か、等々。まだ出方を探っている感じのあき子に対し灯は積極的に自分を開示して少し強引なくらいにイニシアティブを取って仲を深めていった。

 あき子、灯、と呼び合う仲になって、ちょうど山と山の間に谷間が現れるようにして会話の途切れる瞬間が訪れ、灯は飲み干したビールに代えて新しくカルピスサワーを注文し、それを合図に一旦あき子との会話を打ち切る。あき子は灯でなく前方に座した子に興味を移した、その隙に灯は当初の興味対象の、左隣の子に声を掛ける。

「ねえねえ」

 隣の子との話に割り込む形でその子に話しかけると、その子は話を止め、こちらに振り返ってくれた。灯はこのチャンスの糸を手放さないよう、体も左に傾けて話しかける。

「何学部?」

「私は、理学部よ」透き通る渓流のような澄んだ声だった。

 彼女の耳触りの良い声に、灯は前のめりになる。「私は文学部。日本文学科なんだ」

「私は生物科学科よ。お名前はなんて言うの?」

「私の名前は、赤石灯。赤い石ころであかいし、あかりは火に丁って書いて灯。街灯の灯」

「赤石さんね、よろしく」

「あ、灯でいいよ。むしろ灯って呼んで。そっちのほうがしっくり来るんだ」

「じゃあ、灯って呼ぶわね」そう言って、彼女は上品な微笑みを見せる。「私の名前は、真中紫苑。真ん中の、あの植物の紫苑と書いて、まなかしおん」

「真中紫苑」

「そう」

「じゃあ、紫苑って、呼んでいい?」少し馴れ馴れしいかなと、心は怯んだが表情はあくまで快活に笑んで見せる。

「それでいいわ。紫苑と呼んで」紫苑は柔和に、そして人を惹きつける砕けた笑みを見せた。

 安心した瞬間、紫苑の奥の、先程まで話していた子がひょっこり顔を覗かせる。それに気づいた紫苑が灯に言う。「この子は、青山花よ。私と同じ理学部生物科学科」

「よろしく」と言うと、青山花は辛うじて聞き取れる声で「よろしく」と言った。

「花って呼んでいい?」と訊けば青山花は再び辛うじて聞こえる声で「うん」と答えた。

 花と紫苑のどちらに話しかけるか一瞬間迷って、やはりここは上品ながらはっきりと返答する紫苑に向けて発話しようと、視線を紫苑に向ける。

「二人共理学部生物科学科だなんて、凄いね。偶然? それとも他の会で仲良くなって、並んで座ったの?」

 紫苑と花が顔を見合わせる。何かを確認するように頷いて、紫苑が切り出す。

「私たち、実は幼馴染なの」

「幼馴染?」

「そうなのよ。実は私と花ちゃんは、小学校の頃から一緒に過ごしてきて、中学、高校と同じ学校に進学して、そして大学も同じ所に通おうねって、約束してK大に入ったの。それで今同じ学科に所属しているの」

 それが真実であると追認するように、紫苑の奥で顔を覗かせている花が頷く。

「へえ。そうなんだ」名前にちゃん付けで呼んでいる点が如何にも幼馴染らしく、大人びた容貌の紫苑が名前を呼んだ瞬間だけ少し幼く見える。「とっても仲が良いんだね」

「大の仲良しだよ」花の返答は、今度はかなり明瞭に聞き取れた。

「そっか。そりが合うんだね」二人の関係について深掘りも出来たが、何となく当たり障りのないことを言ってこの話題を切り上げてしまう。

 ぽっかりと開いたコミュニケーションの穴を埋めるように、注文したカルピスサワーが運ばれてくる。ナイス、と思いながら灯はそれを右手に持ち、軽く呷る。カルピスサワーは品目としては酒だが味は実質カルピスだった。

 二口飲んでテーブルに置き、「カルピスは何やってもカルピスだわ」と突っ込みを入れて紫苑を窺うと、紫苑は薄く微笑む。好意的な反応で、灯は気を良くし、ふと、聞くも野暮なことが聞きたくなった。

「紫苑はさ」

「何かしら」

「お酒飲まないの?」

 ああ、と言うように紫苑はばつの悪そうな顔つきとなり、言うか言わないかで少しの躊躇いを見せ、野暮だけど、と決まりの悪そうな笑みで言う。「うちは、教育方針が厳しくて、二十歳になるまでは飲酒しないよう厳命されているの。だから」

「飲み会でも飲まない?」

「ええ」

 お堅いんだね。大学生ならみんな飲んでるよ。咳でもするように言葉が勝手に飛び出そうとするのをやっとのことで制して灯は、「そうなんだ」の一言で済ます。ビールにわくわくしていた自分とは、もしかしたら住む世界が違うのかもしれない。紫苑と自分の席の隙間が、急に気になって失礼ながら視線を外して確認してしまう。空いた隙間は、あき子との隙間と大差なかった。

 ふと紫苑の視線を感じて、何か言わねばと気が急く。私はどうやら隙間を感じながらも話を続けたがっているようだ、と、腹の加減も聞かずにバイキングに手を伸ばす小中学生のような浅ましさを身に覚えつつ、灯は紫苑と会話を続ける。好きな音楽は。好きな俳優は。影響を受けた小説や映画は。紫苑は小説や映画に明るく、思いの外話は弾んだ。

「同世代でこんなに話できる人、正直初めて出会ったかも」

 灯が素直な感嘆を告げると、紫苑は意外そうに小首を傾げた。

「そう? 一般教養として、外せないところは押さえた、といった程度だと思っていたけれど」

「謙遜?」

「え?」

「謙遜とも感じないわけね。いや、やっぱ大学って面白いなって」

 紫苑はふふふと笑い、「自分を面白がる人と出会えるなんて、やはり大学は面白い所のようね」と山椒のぴりりと効いたような返答をする、そのユーモアも灯は気に入った。

 もう一言二言交わそうとしたところで、奥の花が再び顔を出した。

「面白い話?」

 酒の勢いもあり、灯はかなりの音量で喋っていたはずだ、だから紫苑との会話は花にも聞こえていただろう。敢えてそう問うのは、自分も混じりたいからか、と想像し、「面白い話」と頷いて次の一言で花も会話に誘う。「花は、映画や小説に詳しかったりする?」

 花は奇妙な、卑屈に似た眉の顰め方をして、「私は、映画や小説はあんまり」と答えた。

 話の振り方に失敗したかな、と思いつつ、灯は花に、まるでこんにゃくを噛むような味気無さを感じた。紫苑ほど、この子は面白くなさそう。そう思った自分がいた。

「二人はさ」話題を変えてみる。「どうしてテニスサークルを選んだの?」

 花の視線が紫苑の目に向かう。その動きだけで、花に主体性はなく、テニスサークルを選んだのが紫苑の一存だと知れる。

 紫苑は一瞬視線を落とし、考え事の答えを宙に求め、何か見つけたように口を開く。

「とても卑俗な答えで、灯はがっかりするかもしれないけれど」

「がっかりって、大袈裟な」

「テニスって、社交の花形でしょう? そこでなら良い相手を見つけて、玉の輿に乗れそうな、そんな気がしたのよ」

 玉の輿という言葉が出てきて、灯は目の前に唐突に鹿が現れたかのような驚きを感じる。今時そんな子、いるのか。でも社交の花形たるテニスサークルなら、いなくもないのか。

「良い交際相手探し? 有体に言うと」

「そうなるわね。有体に言うと」

 灯は、怖気がする、というほどでもないが、割り切れない釈然としない思いを感じた。その正体が何なのかは、言葉で説明できそうになかったが。

「みんなー、新谷副部長が一気飲みするぞぉー」

 出し抜けにエリー部長の楽しげな声が聞こえて、顔を向けた先にはグラスに口をつけ、まるで太陽を仰ぎ見るかのように顔を振り仰いだ新谷副部長の姿があった。

 一気、一気、のコールと張り合うかのように新谷副部長は黒い液体をぐいぐいと飲み干していく。新入生一同から歓声が漏れる。灯もなんだか嬉しくなり、逸るような思いで一気飲みの帰結を見つめてしまう。

 結局、新谷副部長は黒い液体を飲み干した。所々で拍手が聞こえる。灯も拍手し、隣で紫苑もあき子も手を叩いているのが音で分かった。

 あれはコーラサワーなのだろうか。それとも黒ビールだったのだろうか。

 手品を見たような驚きとわくわくとを胸に事の成り行きを窺っていると、エリー部長がとても良い笑顔で「コーラの一気飲みでしたぁ」と種明かしし、場に蟠っていた一気飲みに対する危険視とお祭り騒ぎみたいな期待が、トンネルから出たみたいに晴れ上がって大きな笑いの波が来る。灯も笑った。

「みんなぁ、お酒の一気飲みは命に係わるから、絶対やらないように! 私の首が飛ぶので!」

 また笑い声がする。と同時に、強力な炭酸飲料をむせ返ることなく飲み干して見せた新谷副部長への尊崇の拍手が、ぱちぱちと疎らながら起きた。灯もその音に加わり、紫苑からも拍手が聞こえた。横目で窺うと、花は拍手していなかった。

「凄かったね」紫苑に声を掛ける。

「格好良かったわね」紫苑は相好を崩す。

 もう一度花を窺うが花は特に何も言わない。その微かに歪められた眉からは、一気飲みのようなノリに対する嫌悪のような気配も感じ取れる。

 続く言葉が出なくなり、灯は紫苑に微笑みかける。紫苑も微笑み返す。そこで、二人の間に働いていた会話の磁場が完全に消えた。

 灯は御手洗いと告げて席を立つ。御手洗いを済ませたら、空きが出ている席に潜り込んで、また別の交友関係に首を突っ込むことにしていた。紫苑ともう少し会話したい思いはあったが初見で話すべきことは大方話し終えた、ここはその他の関係を耕しに行く場面だ。

 灯は御手洗いを済ませ、指についた滴を綺麗に拭き取り、次の盛り場へと向かった。

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