第3話

 横たわった人間の腹を、踵で押し潰す。半分死体みたいなそれは物も言わずに痙攣し、ゴボゴボと血泡を吹き出した。それが面白くて、オレは何度も何度も繰り返し踏む。

 苦痛を与えて楽しんでいるのではない。叩いて鳴らすオモチャで遊んでいるだけだ。今まで足が無かったので、何かを踏みつける感触が楽しくて仕方ないのだった。

 オレは自由になったんだと思った。これからはこの足でどこにだって行ける。天界に縛られることもない。何だかこの先の未来全てが輝いているような気がして、地面に円を描いて転がった死体の中心に立ち、晴れやかに夜空を見上げていた。

 そこに奴は現れた。


 雷鳴のようであり、夜を導く北極星のようだった。世界中の美しい青色を、上澄みだけさらってあつめたような瞳。

 それ閉じ込められた時、オレはまだ掌の上で、鳥籠の中なのだと悟った。オレは一生この視線に繋がれ続けるのだろう。姿を変えようと、どこに逃げようと。あの目がオレの牢獄なのである。…



「……」


 悪魔は家畜の死骸を見るような無表情で壁を見つめていた。いつもは忘れるようにしているのだが、天使に会うと必ず思い出してしまう。


 知り合いの作った『入口』はとっくに開いていた。ぱっと見変化のない壁面に、悪魔の身体がすっぽり収まる面積分、時空が歪められている。あとは足を踏み出せば“入れる”仕組みだ。

 だが今しがたそんな気分ではなくなってしまったので、脳の半分くらいを放棄して呆然と突っ立っていたのだった。


「お」


 しばらくそうしていると、痺れを切らしたのか。細くて白い少女の手。それが悪魔を掴もうとウロウロして、避けると困ったように宙をもちゃもちゃ掻いた。そしてがっくり項垂れる。


「ふふ」


 分かりやすすぎる動きに悪魔は少しだけ機嫌をよくし、ポケットから取り出した手で“彼女”の手を取った。

 すると向こう側に引っ張られ、視界が一瞬暗くなる。


「よォ」

「もうっ、君避けていただろう。意地の悪い」

「悪かったよ。お嬢が可愛くてな」


 壁をすり抜ければ、頬を膨らます可憐な少女がひとり。彼女がメールの送り主だった。

 黒のシルクハットからクリーム色の髪が腰まで伸びており、マジシャンなのかショーマンなのか…よくわからない凝った衣装を身に纏っている。

 目を引くのが、『オペラ座の怪人』のような顔の右半分だけを覆い隠すマスクだ。左側にぱちくりとした瞳があるぶん、アンバランスで不気味にも思える。


「……良いだろう。来てくれたからな。ゆっくりしていくといい。だがお嬢ではなく『ネフェロマ』と呼んでくれ」

「それさっき別のヤツにも言われたよ」

「人の名を覚えないのは君の悪い癖だ」


 握っていた手が離れ、くるりと背を向けられる。ネフェロマには右腕が無いので、片袖が少し遅れてヒラめいた。

 前からどうと風が吹く。空間が広がったからだ。悪魔は一呼吸おいて視線を少し上に移し、腹の底から感嘆の息を漏らした。


「相変わらずとんでもねえな……」


 眼前には広大な敷地が広がっていた。今悪魔が立っているのは、ネフェロマの所有する屋敷に続く道だった。

 悪魔が5人は寝そべれる幅の石畳が、門まで延々続いている。その先で、バロック様式の洋館は悠然と佇んでいた。王宮と言われても信じる規模だ。

 青い樹木が何千本と、洋館を取り囲むように植えられており、そのわりに無駄な雑草一本生えていない。どう管理しているんだと訊きたくなるが、ここは彼女の底無しの魔力で形成された空間なのでどうにでもなるのだろう。

 見た目は17歳程度に見えるものの、無論ネフェロマも人の理を外れた存在だ。本人は『魔女』と名乗っている。


「……ハア」


 門に着くとあまりの塀の高さに溜め息が出てしまった。今自分が住んでるアパートくらいあるぞ。


「あっ、そうだ悪魔。最近温室を作って花を育てているんだ。見てくれないか。手がかかった子がちょうど咲いてな」


 とんでもない音を立てて開く巨大な門を背に、洋館の主はニコニコ笑っている。

 情報屋を連れてきたら卒倒しそうだなと思いながら、悪魔は可愛い声で「いいよ〜」とお返事した。

 案の定温室は悪魔が借りている部屋の8倍あった。



「これ枯れてんのか?」

「苗だよ。これは白薔薇で、ここからが赤」

「へえ」

「屋敷の周りに植えようと思うんだ。君もひとつ持ち帰らないか? 四季咲きだから手間はかからないぞ」

「遠慮するよ。連日家開けることも多いんでね」

「そうか」


 8倍の温室は可愛らしい花や、これまた可愛らしい陶器の置き物が整列している。悪魔は自分より大きな部屋で暮らしている土と草を見てちょっと複雑な気持ちになった。別にどうでもいいが。

 ムッと立ち込める暖かい花の香り。温度は高いが不快ではなかった。満たされたぬるま湯の中にいるようだ。


「てかよ、花くらい魔法で生やせるだろ」

「魔法じゃ生花は作れないしなあ。育てる楽しみってものもある」


 きれいな物を愛でる脳機能が備わっていない悲しきモンスター・悪魔は、全然分からないが分かったような顔をした。管理には結局魔法を使うのに、本物でなきゃいけないのかと思ってしまう。

 ネフェロマは人外からすると非常に難解で、人間然とした人物だった。

 彼女は悪魔の横でプリムラの鉢植えを見ている。ガラス張りの温室は明るい。


「そういえば天使とは仲良くしているか?」

「さっきフラれたばっかだ。失恋のキズつつかないでくれ」

「あはは、そうか。だがあまり邪険にしてやるな。彼女にも役目があるんだよ」


 …あの手合いは邪険にしようが手厚くしようが何も感じないだろうに。

 悪魔はガラスに頭をもたれた。ざり、と傷んだ髪がこすれる音がする。

 

「魔女様の愛は機械にまで及ぶのか?」

「感情がないだけで感覚は持っている。ものを知らない子供と変わらない」


 ネフェロマの横顔には一片の影もない。

 前を進むネフェロマに気付かないふりをして立ち止まっていると、奥から手招きされた。にこりと笑ってそちらに歩き出す。

 

「それかい? 見せたかったのは」

「ああ。高標高地の花なんだが、管理が難しくてな。何度か土を変えてようやく咲いてくれた」


 トルコキキョウ、というらしい。いくつかのつぼみの中で、ひとつだけ花弁をひらいている個体があった。植物に疎い悪魔には紫のバラに見えた。小人が差すようなパラソルがふわふわ浮いて、花を日差しから守っている。

 ネフェロマは、ただ一つ咲いたそれを宝石みたいに眺めて、きれいだろう、と溢した。

 悪魔はネフェロマのことが嫌いではない。お節介な善人だが、それが嫌味に見えるのは育ちの問題だ。悪魔にネフェロマの善性を否定するつもりはなく、悪く言えば理解されることを期待していなかった。


「ウン。綺麗だな」


 だからこちらも理解しない。明日この花が道に咲いていたとして、悪魔は気付かずに踏み潰すだろう。

 ネフェロマは満足げに笑った。


「さあ、見てもらったことだし食事に」

「待ってました神様仏様お嬢様」

「あっ君さてはずっと食事のこと考えていたな。ゲンキンなやつめ」

「いいじゃねえか三大欲求なんだから」

「まったく! コラっ」

「あいて」

「コラコラっ」

「あてて」


 ポコポコと可愛らしいSEが鳴りそうなパンチを食らって、悪魔はわざとらしく眉を八の字にした。

 じゃれながら戻っていると、出口に誰かいる。ガラスについた土埃でぼやけているが…なにやら縦長い青色だ。


「ノゾキメ」

「ネフェロマ様。お戻りが遅かったので、お迎えに」


 ノゾキメ、と呼ばれた男は大きな目を微笑ませた。鮮やかな青の単眼だ。

 この男はネフェロマの従者である。神経質なほど綺麗な青い燕尾服をピシリと着込んで、良い姿勢のままその長身を少しばかり屈めている。髪まで真っ青だ。


「よぉ〜青いの! 食事ってまさかお前のことか? とんだご馳走用意してくれるじゃねえのなっお嬢」

「おやおや悪魔さんいらっしゃったので。あまりに小汚いので手足がついた肥料袋かと思いました」

「相変わらずお嬢の尻しか見てねえのな」

「は?」

「コラコラコラ」


 目が合って5秒で火がついた。ネフェロマは滑るように二人の間に入る。


「やめなさい、怒りっぽいのはお前の悪いところだ」

「申し訳ありませんネフェロマ様」

「悪魔も冗談はほどほどに!」

「青いののこと狙ってるのは本当だけど?」

「私の従者はやれないッ」


 ノゾキメは霊体であるため、魂を糧にする悪魔ならいつでも丸かじりできてしまう。それでも捕食未遂の前例はないので、しっかり冗談だ(もし食おうものならネフェロマに縊り殺されてしまう)。


「やれやれ……。ほら、食事するんだろう? 屋敷に入ろうじゃないか」

「ネフェロマ様、初夏とはいえまだ冷えます。ケープを」

「オレは?」

「焚き火ってご存知ですか? 頭から突っ込むと温かいですよ」


 三人は温室を離れ、もつれながら洋館に連れ立っていく。

 このあと悪魔のテーブルマナーを咎めたノゾキメと悪魔が取っ組み合いになり、テーブルをめちゃくちゃにしたのは言うまでもない。

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