第3話  青山学院大学と立教大学(女子)のストレート拳法

 V.3.1

 今回、気がついたのですが、男子も女子も、大学から日本拳法を始めた人は、心から入っているというか、戦う気迫・前へ出る気力が先に、その人の拳法に出ているかのようです。ところが、その気力や気迫は練習を積むごとに強くなっているのに、それを具現化・具体化する肉体の方がついていけない。


 今大会、ケガをされた立教の女性は、準備運動不足もあるかもしれませんが、一番の要因は、強くなりすぎた(闘争)心と肉体との連携(バランス)がうまく取れていないことに起因するのではないか。

 最近は大学の練習場の分散やコロナのバカ騒ぎのせいで、練習時間が少なくなっていることもあり、彼女に限らず、大学から始めた人にとっては、身体を使う鍛錬よりも心の中で戦いをイメージする時間がずっと多くなっているのかもしれません。気ばかり先走って、それを担保する肉体を鍛錬するための時間が極端に少ない。


 今大会における立教さんの場合、

 今年3月に卒業された元キャプテン高橋歩実さんの拳法スタイルと、今大会に出場された、彼女の後輩二名(4年生と2年生)の女子選手のスタイルは全く同じです。

 2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)【明治大学-学連選抜】で、学連選抜の中堅(当時2年生)として出場し、対する明治の永岡里沙子さん(同じく2年生)と壮絶な打ち合いを演じた(引き分け)高橋さんのコピーを見ているようです。そして、これは決して悪いことではない。(素晴らしい)自分のコピーを作れる指導者こそ、Mentor(善き助言者)といえるのです。


 一つだけ違うのは、足腰の強さというよりも、上半身と下半身の連携力の差です。

 高橋さんの場合、お住まいの横浜から池袋や朝霞まで(バス・電車・徒歩、時には駅の階段を走って上り下りして)通うという、毎日の下半身の鍛練がベースになっていたことで、強い精神力に肉体がついてこれた。

 ところが、恐らく、立教の二名の女子選手は、道場での練習以外にこれといった鍛練の場がなかった(住と学の距離が近い ?)が為に、組み打ちのための足腰は強くても、日本拳法部に入部以来、急速に強く・敏感に反応するようになった精神力に、肉体がついてこれていないというか、精神力ばかり強くなって、フィジカルな部分との連携という鍛錬に、時間を取れていないのではないだろうか。


 通学距離と時間というのは、日本拳法のように気と体との緊密な連携が要求されるスポーツにおいては、結構、重要なファクターです。

 40年前、私の同期の原という男は、子供の頃から椅子に座って乳絞(ちちしぼ)りをしてきたため、握力はあるが牛小屋の中を歩く程度の運動しかしていなかった(中学・高校は自転車で通う近さ)ので、大学入学(日本拳法部への入部)当初は、トロい拳法をしていました。

 しかし、埼玉県は深谷という超ど田舎の駅まで自転車で30分、そこから2時間かけて東京の学校まで通うという通学生活が彼を変えました。

 即ち、2年生の後半あたりから急速に足腰が強くなったというか、上半身と下半身の連携が取れて、ボクサーのような軽快なフットワークで前後左右に移動して攻撃するという、まさに「蝶のように舞い、蜂のように刺す」モハメド・アリのようなスタイルを確立したのです。


 まあ、それでもトロいことに変わりはなかったのですが、見た目には、いかにも「日本拳法をやっている」ように見えたので、一度も昇段級審査に落ちることなく、3年生の終わりには2段になっていました。


 この話を信じるかどうかは皆様のご判断ですが、ついでに申し上げますと、

 上半身と下半身の連携をとる鍛錬として、最も安上がりで簡単で効果的だと思われるのは、ストップ&ゴー(道場内を一方向に走り、ある距離のところでパンと手を叩くと、そこで反転して逆方向へダッシュする。これを距離を変えながら、何度も行うことで、反射神経 → 心と身体の一体化を鍛える)という方法です。


 しかし、今はどの大学も練習場所や時間に制約があって、毎日じっくりと準備運動や筋トレをする時間がなかなか取れないかもしれません。

 ですから、なんと言っても毎日の通学で鍛えるのが、特に時間を割く必要がないという意味で、最適な鍛錬法でしょう。

 青学の大熊さんという女性は、現役時代、埼玉県川口市から2時間以上かかる通学(神奈川県相模原市・東京青山)の際、電車では絶対に座らず、しかも、なるべく吊り革につかまらないで立つという鍛錬をされていたそうです。毎日、そんな過酷な鍛錬をしながら彼女は「青山学院大学最優秀学生賞」を受賞されたというのですから、「精神力から入る日本拳法」を実践した人は、畏るべしです。(この話は、彼女の同期の方々がブログに書かれていたことです。)


 要は、組み打ちのための足腰の強さとは異なる、メンタルとフィジカルの強い連携、もしくはバランスの取れた良い関係を成立させることができれば、青学のOG大熊さんや「桃香さん」、立教OGの高橋歩実さんのように、その人独自のスタイルで伸び伸びと日本拳法ができる。

 連携がうまくいっていないと、勝とうとか前へ出ようという気持ちばかりが先走り、身体がついていけなくて、思わぬケガをしてしまうという、これは私の勝手な解釈なのですが。


 たとえば、彼女たち大学開始組の方たちは、みなさん、ガンガン前へ出る拳法で、その打ち合い・蹴り合いに打ち勝とうという強烈な気迫に、私など大変魅了されました。

 モカやコロンビアといったストレート・コーヒーの味わいなんですが、3年・4年生になるにつれ、エスプレッソのような、苦みばしった濃い拳法になってくる。

 高橋歩実さんは2年生のときと(最近You-Tubeで拝見した)4年生のときの拳法とでは、スタイルは同じですが「濃さ」がぜんぜん違う。


 子供のときから道場できめ細かな指導を受けてきた関西系と違い、技術から日本拳法に入るのではなく、精神力から自分の技術を生み出し勝機をつかもうとする関東スタイル(大学開始の日本拳法)ですが、4年生としての気迫と体力がうまくマッチしているので、特別な技はなくても、正統的・直線的な強い攻撃で相手を圧倒していました。


 関西の、それこそ「3歳から日本拳法やってます系」のお姉さま方は、タイミングをずらせて面を取ったり、組み打ちの妙技で流れを変えて勝つ、なんて、バラエティに富んでいる。いろいろな味わいを織り交ぜたブレンド・コーヒーでしょうか。


 関西系は、子供の頃から道場でみっちり技術中心の練習をされてきていますから、関東系の、どちらかと言えば精神力から入り、技術は後から自分自身で積み増していくというアプローチの仕方とは違い、「うまいなぁ」と、思わずため息が出るような拳法をされる、魔女みたいな方が多いんですね。

 そんな中にあって、私は同志社大学の谷さん(2017年の全日で、モーリスさんと二人で女子団体戦で三位入賞)のような、その美しいフォルムはいかにも年季が入っているという重みを感じさせるのですが、なんといっても彼女の凄まじい気迫が前面(全面)に出て、これが私は大好きでした。


 では、関東系は全員、ストレート・コーヒーか、というとそんなことはない。

 大学から日本拳法をやり始めた女性でも、早稲田や慶応、中央や明治の女性たちは、(拳法暦十数年という)男性陣の拳法を毎日見ているし、また、そんな男性たちからいろいろとアドバイス(技)を伝授されているせいか、心よりも形(技)から日本拳法に入っている感じがします。


 たとえば、慶応の渡邊さんという女性は、2019年7月に中央大学で行われた大会(個人戦)で、奇抜な技を見せてくれました。

 組み打ちの強い相手が突進してくると、後ろに下がりながらパッとしゃがんで四つんばいになる、そして、右腕で相手の左膝を抱えてバランスを崩させて倒してしまう、という奇策でした。少なくとも、当時、こんな技は逆立ちしても関東系の、特に女性拳士からは出てきません。おそらく、慶応高校から日本拳法をやっている男性から教わったのでしょう。

 しかし、この技自体は良かったのですが、如何せん、当時の慶応大学に女性は彼女一人でしたから、練習不足というよりも、全くこの技を練習できずに大会でぶっつけ本番でやったのか、結局はうまく機能しませんでした。


 また、やはり2019年、中央の山口さんという女性は、当時関東で一番強かった明治の小野塚さんという女性選手に、この大会で勝ちました。

 小野塚さんという方は、高校時代にスケートをやられていたので、足腰の瞬発力が強く、(これも男性陣からのアドバイスか)少し遠目の間合いから、騎馬武者のようにスコーンと飛び込んでくる戦い方を得意とされていました。

 そこで山口さんは、(やはり、中央の男性陣からの伝授なのでしょうが)小野塚さんが飛び込んで来ようとする、そのホンの一瞬先にタックルを仕掛けたり、タックルの真似をしたりして小野塚さんを混乱させ、得意の飛込みをやらせず、彼女に勝利しました。自分の得意な戦法を封じられては、3割は戦力が殺がれたようなものです。


「3歳からやってます系」の多い大学、明治・中央・早稲田や慶応・国士舘(は高校からか)は、頭で憶えた拳法スタイル。

 大学から始めた系は、青学や立教女子に多く見られるストレートの拳法スタイル、という見方もできるということでしょうか。


 これは単なる「好み」ですが、まるで「前へ出る勇気」、自分から攻めて勝機を作り出す「気迫」を鍛えるために日本拳法をやっているような、彼女たちのストレート・スタイルとは、大学時代に同じようなことをやっていた私(彼女たちほどカッコよくありませんでしたが)にとって、親しみやすく魅力的です。


「審判の手を上げさせる」努力よりも、時には「負けてもカッコ良い」姿は永遠に残る。

 40年前の、同じこのリーグ戦(当時は「関東大学リーグ戦」でした)、私が最後に戦った某大学のキャプテンは、ケガの痛みを必死にこらえながら、三分間戦い続けた。目に見えないそのガッツこそ、優勝トロフィーの輝きに勝り、今もそして死んでも私の心から消えることはありません。


 勝ち負けに必死になる、勝負に対するこだわりや強烈な執着心をゲームとして楽しむ。そのためにやる公式戦だと考えれば「同じアホなら踊らにゃ、そん損」という、日本文化における「祭り」と同じです。

 審判の判定を気にするよりも「三分間どこまでバカになり、殴り合いというアホな踊りにのめり込めるか」に必死になることで、当人も観客も心から満足できる名勝負となる。

 前述の「2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)【明治大学-学連選抜】における永岡里沙子さんと高橋歩美さんの試合など、まさにそれです。因みに、この時、私は彼女たちの素顔を知りません。ドンくさい防具をつけたロボコップのような物体でしかない。でも、そこから彼女たちの熱い熱い熱気と闘志が、画面を通してガンガン伝わってくるのです。


 むかし阿波踊りに行ったとき、土砂降りの雨の中、たまたま路地裏で個人的に踊る十数人の着物姿の踊り子さんたちに遭遇しました。「心からアホになり」激しい雨を弾き飛ばすくらいの、彼女たちの凄まじい集中力と熱狂ぶりは、リオのカーニバルを凌ぐほどエネルギッシュでした。

 毎年、夏休みには日本へ来るというドイツ人は、こういう「整然とした美しい狂気」を見れるのは日本だけです、と言っていました。彼らは写真なんか撮らず、ただひたすら「感じて」いました。縄文人と同じく血の濃いゲルマン民族には、共通するものがあるんですね。

 私が恥ずかしい思いをしたのは、彼ら父と息子は、来日すると必ず(追悼のために)広島へ行くのだそうです(別に、日本人に知り合いがいるわけじゃないんです)。

 因みに、ドイツのニュールンベルグという小さな町(の郊外)には、「Hiroshima Park」という、地図にも載っていないような小さな児童公園があります。ドイツ(ゲルマン)人の日本(縄文)人に対する、ささやかな友情です。お互い、地球の反対側同士で、三国人(ユダヤ・韓国・台湾客家)には苦労させられてますから。


 日本人(縄文人)と彼ら三国人との決定的な違いは、この点(本当にアホになれるか)にあります。三国人というのはエエカッコしいばかりで、心からアホになれない。沢山の血が混じって薄いので、本当の自分を特定できない。自分が自分になりきれないから、アホになれない、真に自分に集中できない。その血の薄さを、宗教や様々な権威・権力を使って糊塗(覆い隠す・塗りつぶす・ごまかす)しようとする。真の自分というものを知っている者だけが、アホ・バカにもなり切れるのです。

 今大会、そういう「アホになり切り」、思いもかけない攻撃を仕掛けたり(青学男子)、なりふり構わずガンガン前へ出る拳法をする人たち(明治・関東学院)を見るにつけ、土砂降りの中の阿波踊りの狂気を感じ、私の中の原始日本人の血が騒ぎました。


 台湾人(客家)たちが、中国との関係がうまくいかなくなると「台湾と日本は永久に友達」なんて叫びますが、こんな嘘嘘しい、空虚な響きはない。彼らは「友達」の意味など知らない。彼ら客家の言う友達とは、単なるビジネス・パートナーであり、自分たちがその場・その時利用できる道具や消耗品でしかないのです。だから、同じ日本人でも弥生人(韓国)系は仮の友達にすぐなれるでしょうが、真の日本人(縄文人)を自覚する私は絶対になれない。今のところ、台湾人(客家)にも中国人にも友達はいませんが、強い印象・心惹かれるという点では、10年一緒に住んだ客家たちよりも、一瞬の出会いの中国人たちに、ガツンという強烈な印象があります。(勿論、皆さんはご自分の理性と知性で判断されればよいことです)。


 私の体験からいうと、血の濃い人種、たとえば中国人やゲルマン人、そして北朝鮮人(かつての高句麗)というのは、日本人(縄文人)と相性がいい。ケンカをするかもしれませんが、本当の友達になれる。ルーツが同じということではなく、同じ血の濃い人種だから、波長が合うのです。その意味では、ロシア中央部に住むアルタイという民族なども同じでしょう(アルタイ人の顔は日本人と全く同じ、というくらいそっくりなんだそうです)。


 私たち大学日本拳法人は、わけのわからない子供の時ではなく、又、ただただ殴り合いに陶酔する中学生でもなく、思慮分別のある大学生になって敢えて殴り合いをしている。

 私が大学一年の6月、朝、防具を担(かつ)いで関東リーグ戦に出かけようとした時、妹は「大学生にもなって、まだ殴り合いなんかしてるの。」と軽蔑し、母は「この子は本当にバカなんだよ。」と嘆きました。

 中高時代のワルガキ仲間にもバカにされましたが、私は「顔面を思いっきりぶん殴れるっていうのは、気持ちいいんだよ」とだけ言ってました。


 しかし、今から考えると、防具をつけて本気で殴れる、本当に真剣になれる一蹴こそが、自分が自分であることを証明してくれる。身も心もすべてを度して殴ることで、自分のルーツに近づくことができる。そういう喜びを感じていたのだと思います。

 クラブの仲間には申し訳なかったのですが、勝つことよりも、とにかく三分間暴れることで、自己満足に浸っていたのです。ですから、4年生の春のリーグ戦、先鋒で出場して圧倒負け(一方的に7本先取される)を食らった時も、恥ずかしいという気持ちと満足感・充足感が半々だったような気がします。


 大学生になり、スマートでカッコいい、テニスやスキー・スノーボードサークルなんかではなく、不恰好な面や重たい胴、それに、あのみっともない股当てなんていう、どんくさい防具を着用して痛い思いをする日本拳法を敢えてやるような人というのは、意識しないところで、本能の部分で、10万年もの昔からこの日本に存在する原始日本人(縄文人)の記憶を、あのガツンという面突きの一瞬の中に見出そう(思い出そう)としているのだと私は思います。




 大学から始める関東系が、子供の頃からやっている関西系に試合で敵わないことが多いのは確かですが、彼ら・彼女たちの不撓不屈の精神とは、決して日本拳法の鍛錬の年月と比例するものではない。

 肉体の力や技術的な蓄積というのは時間がかかりますが、精神力の強さとは、問題意識の捉え方と集中力です。

 特に、肉体的パワーに頼ることのできない彼女たちの戦いとは、多角的なものの見方と単純明快な論理(文学性と数学的)との整合性を追及し、複数の次元と何層にも積み重ねられた位相とのバランスを取ろうとする、驚異的な集中力という努力に他ならない。


 サムライには、剣の技術(technology)と魂(spirits)という、二つの純粋な努力の結晶がある。

 青学や立教のような、大学から日本拳法を始めた人たちは、日本拳法の精神(前へ出る勇気と戦う気迫)を鍛えながら、その中で自らの技術を醸造していく(人が多い)。拳法暦15年なんていう人たちの真似をしたり、アドバイスをもらうことで拳の技術を向上させるよりも、先ずは自分の魂を鍛え、そこから「自分オリジナルの道」を模索していこうとする。

 そういう人たちの試合における戦い方には、10数年の技術習得を積み重ねてきた人たちに比べ、どこかしら「ぎこちなさ」が感じられるにせよ、その魂には彼ら・彼女たち独自の精神(的強さと多様性)がしっかりと存在している。


 拳技で負けても純粋な魂は光り輝いているのだし、むしろ、まっさらな気持ちで大学からスタートを切り、ケガの孤独感や試合に負けた敗北感に独り苦しみ戦いながら、全力で四年間走り抜けるというスタイルもまた、日本拳法を心から楽しむ「濃い魂の時間」を体験できる一つの道といえるでしょう。

( https://ameblo.jp/rikkyo-kempo/entry-12712966333.html )


 2022年6月22日 改訂

 V.3.1

 平栗雅人

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