捜査編(Bパート)
試合の後のシャワーは気持ちがいい。神野は鍛え上げられたその体からべたべたした汗を流しながら、今日のことを反すうしていた。鹿山を殺したときについた血が体にへばりついているような気がして、いつもより入念にボディソープを使う。
仕方のないことだ。あれ以外にどんな方法がある?
タオルでがしがしと頭と体にまとわりつく水分を拭いながら、彼はパンツを履いた。
「社長! 社長いらっしゃいますか!」
古川の声だった。
警察だ。遅かれ早かれ対決せねばならない相手だ。そして、チャンピオンはいつだって逃げずに戦い──そして勝つ。
「どうしたィ。騒々しいじゃねえか」
「鹿山が見つかったんです!」
そらきた。神野は唇をなめた。鹿山の遺体が見つかったなら、あとはやるべきことをやるだけだ。警察をやり過ごす。リングの上での自己表現ならいくらでもできるが、演技は初めてだ。自然体で、堂々と。チャンピオンはいつでもそうだ。
「あの野郎、どこいやがったんだい。結局ダニーとの試合もすっぽかしやがって」
シャツとトレーニングパンツを履いて、神野は古川とともに控室へ移動した。さきほどまで全楽園を満たしていた熱が嘘のようだ。
「それどころじゃありませんよ、社長。鹿山、道場に戻ってたらしくて──」
舌が回らないのか、古川は次の言葉が出てこない。もっとも、神野は彼がなにをいわんとするか答えを持っているのだが──。
「失礼しますう。あら、お取り込み中だったかしら」
扉の間から顔だけ出して、男が声をかけてきた。どこかで見たような気がする顔だ。神野は訝しみながらも、古川と顔を見合わせた。
「……誰だい、あんたは」
特段入っていいと言ってもいないのに、男はぬるりとその細い体を更衣室に滑り込ませた。
「どーも。私、警視庁捜査一課の三条つばめです。階級は警部補。よろしくおねがいしますわ」
なよなよとした態度の妙な男だ。古川は警察が来たことに動揺しているが、神野はその限りではない。
一流のレスラーは
「警察ねェ。悪いが、試合後は面倒を聞かんことにしてる。帰ェんな」
シャツを着ようと、頭に被る。さてどう出てくるか。一瞬塞がれた視界の中で、神野は考える。次の手を考え続ける。その中で、いかに相手を倒し、客を魅了できるかを、ずっと模索し続けてきた。
客のことを考えなくていいのなら、殺人なぞプロレスより容易い。
「社長!」
「じ、神野さん!」
女性の声を聞いたと同時に、神野の頭はシャツの外へと出ていた。リクルートスーツ姿の女が、もじもじと桜色の手帳を持って、こちらを見上げている。面食らってなにも出ないうちに、鋭いチョップの如く手帳とペンが差し出された。
「私、警視庁捜査一課の菊池さくらと申します! 実はっ! 私、神野さんの大ファンです! サインをいただけませんでしょうか!!」
サインと言われて断れるほど、神野は器用ではなかった。気づいていたら頷いて、手帳とペンを持って、誰かのサインの隣にペンを走らせていた。
「ありがとよ。……試合、見に来てくれてんのかィ」
「実は今日の試合を見る予定だったのですが、見逃してしまいました! 捜査がありまして! 今度こそ生で試合を拝見したいと思います! サイン、ありがとうございました!」
そう言って、さくらはきびきびとしたお辞儀を繰り出し、満足げにホクホクとした笑みを浮かべながら、手帳を抱いた。
「よかったわねえ、さくらちゃん。……あ、それで神野さん。私もね、このさくらちゃんと試合を拝見しようとしていてえ。あなたのゴッドプロレスの事務所で起こった事件の捜査で駆り出されてしまって見逃してしまったというところなんですの」
つばめは少し残念そうに眉を持ち上げて、手を広げた。喋り方といい、姿といい──それが開場した売店で揉めていた男であると気づき、神野は手を打った。
「アンタ、売店でポテチがどうとか言ってたな」
「あ〜、そうなの! あそこの売店、ポテチの味がうすしおばっかり! もっと色々味を入れてくださったら──」
「んなこたァどうでもいいよ。ゴッドプロレスの事務所──ってことはあれか? 西新宿の旧社屋だろ?」
つばめはわずかに指で唇に触れると、離してから割り込んだ。
「……失礼ですけど、旧社屋というのは?」
「ああ、西新宿にあるのは、移転前の物件でしてね。来週には引き払って新社屋に移転する予定なんです」
「まあ、そうなのね。ええと、どこまで話したかしら? ああ、そうそう。でその旧社屋で、鹿山さんが亡くなられているのが発見されたんです」
あまりにもさらりというものだから、一瞬古川も神野も動きを止めてしまった。ここは動揺していなければおかしいだろうと、神野はゆっくりと口を開いた。
「……鹿山が死んだ? どういうこった。殺しても死ななそうな野郎だぜ、アイツは」
「突然のことで大変驚かれていると思います。お察ししますわ」
つばめはそう言って、頭を下げた。なんと言ったものか分からなくなり、神野は押し黙った。
「……本当の話なのかィ」
「私も警察官ですから、嘘は言いませんわ。で、神野社長。旧社屋のことについてお話を伺いたくって」
「どうして俺に。古川、おめェで答えておけよ」
古川は困ったように首をひねって、その疑問に応えた。
「社長。実は、金庫の金も抜かれていたんです。三百万──」
「三百……デカいな。強盗殺人ってことか?」
「そんなところですわ。……それで伺いたいのですけれど、旧社屋には監視カメラや警備システムは無かったのかしら? どうも犯人は簡単に入り込んで、痕跡もほとんどなく出ていっているようなの」
なんだ、そんなことか。
神野は顔に出ないように、心の内で胸をなでおろした。つまりは、警察は鹿山の死を目論見どおり強盗殺人と見ているということになる。あとはそれを補完してやればいいだけだ。
この刑事は組み合う価値もない、雑魚だ。
「そいつは簡単な話だ。旧社屋が移転する話をしたよな。監視カメラやら警備システムやら、維持費もかかるし経費もかかるンだよ。んで、新社屋にシステムを先に移して、旧社屋は最低限の設備で回してたんだ。事務所と道場は登記変更とか選手の都合もあるから、ギリギリまで残してた。……結果的にゃあ、それがマズかったわけだが。鹿山にゃあ悪いことをしたよ」
「なるほど! キャップ、それならこの事件は外部犯による押し入りに違いありませんね!」
さくらがまたも決めつけるような言い方をするので、つばめは彼女に向かって小さく首を振り、神野に向き直った。
「……しかし社長。それだとどうにも納得のいかないことがあるのよね」
「納得? 強盗殺人じゃねえって言いてェのかい」
「鹿山さんは、なんていうのかしらアレ。バーベル用のベッド?」
「……ベンチプレス台のことでしょうか」
古川のツッコミに、つばめはパチンと指を鳴らして彼を指差し、笑った。
「そうよ、それそれ。ベンチプレス台に寝そべったまま亡くなっていたわ。つまり、起き上がる暇もなく、犯人に殴り殺された。でもそれは辻褄がつかないのよ」
「オメェさんのいうとおり、起き上がる前に殺されたんじゃねえのかい」
「彼が使っていたベンチプレス台は、事務所に上がる扉のすぐそばにあったの。で、あそこからは道場の入口が丸見え。……つまり、強盗をしようなんて不埒な輩が居れば、すぐに分かるのよ。まして屈強なプロレスラーなら、そんな輩を寝そべったまま見ているはずないわよね? ……つまり、立ち上がらなくても良いと判断しているところを殺されたということになるわ」
前言撤回だ。
想像以上に読みが鋭い。神野はリングの上ならばどう判断するかを冷静に考えていた。下手なことは言えない。つまるところ、この男は鹿山が内部の人間に殺されたのではないかと疑っているのだ。
「……まさか、顔見知りに殺されたということですか」
「ん〜……そこまで言っといてなんだけど、今のところは単なる推測よ。そういう可能性もあるかもしれない……という程度の」
そう言って、つばめは苦笑する。しかし神野にはそれが困ったゆえに出たものではない、どこか戦闘的な物に感じられて仕方がなかった。
「うちのレスラーやスタッフを巻き込むような発言はやめてもらいたいねェ。俺にも経営者として責任ってもんがある」
「まさか! 社長さん、それは誤解というものよ。でも、そんな誤解を晴らすためにも、どうかご協力いただけないかしら」
「誤解も何も、うちの人間は鹿山が居なくなった時、全員この全楽園ホールにいましたよ。点呼だってしましたし……」
古川がおずおずとそう言って、神野を見た。付き合いの長いこの男は、時折弱気を見せるときがある。自らが不利だと感じるとき、その態度を隠せないのだ。
神野はそんな彼の意思を見透かすように、補足のために口を開いた。
「俺は点呼を受けてねえが、四時四十分にゃあ全楽園にいたぜ。点呼は四時半。古川、点呼の時は全員いたんだろ?」
「間違いないです。葉山達練習生が控室を回ってますし──」
ふうん、とつばめは唇に触れて、とんとんと指で叩いた。
「じゃあ、この建物に入ったときと出るときなんかに監視カメラに映っているかもしれない、ということよね?」
「社長はファンサービスついでに正面から入ってますから、なおのことですね」
「なるほど。大変参考になりました。社長、古川さん、どうもありがとうございました。しばらくは捜査にご協力をお願いしますわ」
つばめは笑顔で頭を下げ、さくらを伴って外へと出ようとして、くるりと踵を返した。
「あ、そうそう。社長ごめんなさい。もうひとつだけよろしいかしら?」
「なんでェ、まだ何かあんのかい」
神野は不意打ちのようなつばめの申し出に、心底うんざりした様子で言った。
「もうひとつだけ! ごめんなさいねえ、私、気になることがあると夜も眠れなくって。……それで、ひとつだけわからないことがあって。ちくわって何かご存知ない?」
「ちくわ?」
「そう、ちくわ。葉山さんが言うには、鹿山さんから送られた最後のメッセージらしいのよ」
「キャップ! 思うに、鹿山さんの大好物ではないでしょうか?」
さくらが妙な決めつけをしてくるので、つばめは呆れたようにまたも首を振った。
「今それ聞いてるところだから。で、どうでしょう。何か思い当たる節はないかしら?」
「いえ……特段ないですね」
「俺もねェな。そこの嬢ちゃんの言うとおり、食いたかったんじゃねェのか。ちくわはたんぱく質が多くて脂質が少ねえから、トレーニング中のくいもんとしては悪かねェしな」
「トレーニング中にちくわを……なるほど、そういう考えもあるのねえ。ありがとうございましたあ。とっても参考になりましたわ」
「三条さんよ。なんか分かったら教えてくれ。こっちも会社として鹿山のことをファンに伝えなくちゃならんし──何より殺したやつを許せねえ。ブチのめしてやる」
思ってもないようなことが、つらつらと口に出るのはアドリブの強さゆえだったかもしれない。つばめはそれを真実かどうか見抜けたかはわからないが、微笑んだ。
「もちろんです。では、お邪魔いたしましたあ」
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