捜査編(Aパート)
開場が始まると、自然と神野の精神はフラットになり、そこから火に薪を焚べるように闘争心を燃やし始める。今日に限っては、現実逃避もあったかもしれない。落ち着かない。
こういうときは、何か気を紛らわせるのが一番だ。トレーニングは既に済ませた。試合前に過剰なトレーニングはしない主義の神野は、普段は他のレスラー達に任せているグッズ販売コーナーへ立ち寄った。
「あっ、総帥!」
「神野総帥だ!」
ゴッドプロレス総帥、紅き神雷・アトキンス神野。プロレス界のカリスマとして、この二十年業界を引っ張ってきた。それぞれのレスラーグッズから目を離して、自然とファンの目がこちらへ向き、歓声があがる。
「社長、どうなさったんです。ファンがパニックを起こしますよ」
「ファンサービスだ。たまにゃァ顔を覚えてもらわんとな」
「社長の顔を知らんファンはいないと思いますが」
「そういえば鹿山の姿が見えんがどうした?」
自分で言うのも白々しい気がしたが、事実鹿山のグッズコーナーは付き人の葉山が店番をしていた。レスラーが店番をしつつ、ファン交流もするのが、ゴッドプロレスの伝統だ。
「確かに変ですね……さっき葉山からは、来ていたと報告があったんですが」
「電話してみろィ。ヤツは第五試合のシングルだろ。カード変更なんかしてみろ。相手のダニーがへそ曲げちまう」
ダニー・ハンスンは鹿山のライバルで久々の来日となる。可哀想なことをしたとは思う。しかし必要なことだったのだ。神野は言い聞かせるように反芻しながら、古川が電話をかけるのを見ていた。
「マズイな……出ませんね」
「どこほっつき歩いてんだィ、あの野郎は……練習生とスタッフを何人か割いて探させな」
そう指示して、神野は自分の控室へ戻ろうと踵を返した。売店の側を通りがかると、妙に混雑している。開演直前ならばいざ知らず、まだ時間の余裕はあり、ここまで混み合うこともないはずだ。気になって見てみると、先頭の男──身体は細く、黒いベストにスラックスを履き、花柄の派手なドレスシャツ、そして高いヒールを履いている。髪型は左目にかかるほど長くツーブロック気味──が、うんうんと唸って何やら悩んでいるのだった。
「ねえ、コイズミ屋のポテトチップってコンソメって置いてないのかしら? わたしコンソメ味が好きなんだけど、コイズミ屋以外のはあんまり好きじゃなくて……」
「はあ、あの……申し訳ありません。ケルシーのうすしおでしたらご用意がありますが」
「あらやだ、そうなの? のり塩はないのかしら。わたし、ケルシーだったらのり塩派で……」
「申し訳ありません、うすしおしか……」
揉めてはいるが、クレームを言っているわけではないようだ。妙な客もいるものだ、と神野はそんな状況へ背を向けて、自分の控室へと帰っていった。
「
背の低い、一見すれば少女のようにも見える女が、リングサイドの特等席に座っていた。片手にはポップコーン、もう片方にはコーラ。アップにして後ろで結んだ髪型のせいで、額が広く輝いているようにみえる。メイクはシンプルで、まだまだ初心者のようだ。リクルートスーツはナメられるとさんざん言って聞かせていたが、今や彼女のトレードマークとなっている。
「さくらちゃん、今非番じゃないの。せっかく今日は定時で上がれて案件もないのに、キャップはないでしょ」
キャップと呼ばれた男は菊池さくらの隣に腰掛けて、袋に入ったノンアルコールビールのプルタブを起こし、悩んだ末に買った『オータムズ・オニオンフライ味』の蓋を開け、無造作に何枚か口に運んだ。
「キャップはキャップじゃないですか!?」
「誰が聞いてるかわからないでしょ。三条さんとかでいいからそうお呼びなさいな」
「はあ、そうですか。では三条さん……なんかしっくりこないです。つばめさん。……こっちのほうがかわいいですね!」
仮にも上司に向かって下の名前呼び、それもかわいいからというのはどうなのだろう、と思いつつ、三条つばめはビールをぐびりと一口飲んだ。警部補──それも警視庁捜査一課の警部補であるつばめは、非番の日を大切にしている。あってないようなものだからだ。定時あがりだろうとなんだろうと、呼び出されることだってある。
「さあ、今日のメインイベントは凄いですよ! 紅の神雷・アトキンス神野と、伝説巨人・ビッゲスト井手尾の一騎打ちです。これは本当に凄いカードですから!」
「そうなの? 私、プロレスってあんまり詳しくないのよね。でも神野さんはTVでよく見るわよ。稲妻ビンタとか言って、よく人をビンタしてるわよね。強い人なの?」
さくらの目がキラッと光ったような気がした。首から下げていた黒と赤で稲妻が走るタオルを握って、いかにも語りたい風にこちらへ向き直った。
「強いのなんの! もう十年も何らかのチャンピオンのままです。ゴッドプロレスの中──いえ、業界でも最強のカリスマです!」
「そうなの? へえ……」
「最近は、ローン・ウルフというレスラーがいい試合をするのですが、これもまた素晴らしい試合でして! 何しろ……」
「あ~、さくらちゃん。何か始まりそうよ?」
長くなりそうだったさくらの話を遮って、つばめはリングを指さした。一瞬の暗転──その後の眩いカクテル光線が会場のボルテージを上げていく。
「おまたせ致しました! 本日はご来場くださり真にありがとうございます! 本日の対戦カードは──」
リングアナの女性が、簡単に対戦カードを読み上げていく。期待感がそのまま空気になって会場を満たしていく。
「いやあ、ワクワクしますねえ! 前座からメインまでノンストップですよ、つばめさん!」
当のつばめは、ふうん、と興味なさげに誰もいないリングを見つめながら、ビールを一口煽った。いい席を取ったはいいが、友人が行けなくなったので一緒に来てほしいと言われて何が始まるかと思えばプロレスだ。特段興味はなかったが、断る理由もさしてない。部下が慕ってくれるのも、上司の人徳だろうということで、ついてきただけだ。
その時だった。腰のポケットでスマホが震え、着信を知らせた。嫌な予感がする。
「さくらちゃん。電話鳴っちゃったから少し出てくるわね」
爆音のBGMに負けないように、耳元でさくらにそう言うと、会場ロビーに移動しながら電話に出る。
「三条です。……トレーニング失敗で亡くなった
先程まで会場に誇らしげにかかっていた団体旗──即ちゴッドプロレスの証が、どこか陰りが差しているように見えた。
ゴッドプロレス事務所。三階建てのビルで、その二階にトレーニングルーム──即ちジムがある。つばめは不貞腐れ顔を隠そうともしないさくらを引きずって、タクシーを使って現場に急行した。プロレス観戦はパーだ。
「非番の時に呼び出されるのはほんといつまで経っても慣れないわ」
「同じくです! しかし、仕事となれば……仕方ありません!」
余程悔しかったのか、さくらがギリギリ歯ぎしりまでしたように見えたのは、つばめの気のせいだったろうか。規制用の黄色いテープを乗り越えて、いつものように鑑識課の廣瀬の姿を見つけ、つばめは手を上げた。
「おう、キャップ。ツイてなかったな。たまたま
「
上層部が下のことを顧みないのは今に始まったことではない。しかし刑事であるつばめにとって、今大切なのは殺された人のために
「
「今
さくらが妙に歯切れの悪い物言いなので、つばめは首を傾げ、彼女の顔を覗き込んだ。
「……さくらちゃん、あなたゴッドプロレスのファンなんじゃなかったの?」
「め、面目次第もありません! 確かに神野さんのファンなのですが、ハマったのはここ二、三年の話でして……お恥ずかしいことですが、この鹿山選手のお顔は拝見したことがなかったのです」
鹿山はベンチプレス台に寝そべったまま、頭から血を流して亡くなっていた。血の跡からもほとんど動きはなく、争ったような形跡もない。
「前頭部から頭頂部に向かって、激しく殴打されたことによって脳挫傷を起こして亡くなってるみてえだな。凶器はバーベルのプレートで間違いねえが、複数人の指紋がベタベタついちまってるから特定はムリだ。このトレーニングルームの後ろ──ちょうどこのベンチプレス台の背後にある階段から事務所に上がれるんだが、金庫から金が抜かれてるようだぜ」
「ということは、強盗殺人でしょうか。……つばめさん、じゃなかったキャップ! これは大事件の予感がしますね!」
早計にも程があるさくらの結論にも心動かされることなく、つばめはベンチプレス台から落ちる血痕を見ていた。おもむろに手袋を嵌めると、その血痕をなぞる。血はつかない。乾いている。
「いつも言ってるでしょう、さくらちゃん。あんまり最初のうちから決めつけてちゃダメなのよ」
「し、失礼しました!!」
さくらは慌てて敬礼しだす。人間的には悪い子ではないのだが、とにかく素直で人を疑うことを知らず、早とちりしすぎるのがたまに……というかだいぶ傷だ。
つばめも上からの印象はあまりよくなく、派手なファッションも相まって警視庁では浮いているので、似合いのコンビだと言えた。
「死亡推定時刻は?」
「正直、絞りきれてねぇんだ。この部屋、妙に気温が高くてな。血痕も乾いちまってるし内蔵温度も高いしで、死後二時間から三時間ってところだが、正確なところはもう二、三時間ブレがある」
つばめは道場についていた時計を見上げる。現在ちょうど七時。となると、午後一時から午後五時までの間に殺された事になる。
「時間だけで絞るのは難しそうね。さくらちゃん、第一発見者は?」
「ここの練習生──いわゆる新弟子というやつなのですが、葉山茂さんです。被害者が試合会場に来ていないことを不審に思って、手の空いたスタッフさんで捜索していたところ、亡くなられていたのを発見したとかで……」
奥から、制服警官に連れられて肩を落としたTシャツ姿の男が姿を表した。坊主頭で服の下からも分かる鍛え上げられた筋肉が、いかにもアスリートであることを感じさせた。
「この度はご愁傷さまで……わたし、現場責任者で捜査一課の三条つばめ警部補と申します」
「葉山さんがご遺体を発見されたということですけど……何時頃の話なのかしら?」
「オス。午後六時過ぎの話です。自分がこっちに来たんは、鹿山さんからメッセージが来たからです」
「メッセージ」
「オス。午後ニ時頃の話ですが、道場のちくわを切らしとるから、買っとけと」
つばめはさくらと顔を見合わせた。ちくわ。殺人現場には似合わぬ響きの言葉だ。
「それで、自分──鹿山さんがもしかしたら道場に戻らはったんかと思いまして、古川さんが探して来い言われてすぐ、道場に行ったんです。そしたらか、鹿山さんがし、死んどりまして……」
自分の言葉で事実を反芻したためか、葉山はうなだれて震えだした。つばめは彼に礼を言うと、警官に行っていいことを伝えた。
「古川さんってどなたかしら」
「ゴッドプロレスの参謀とも呼ばれている営業部長さんです! 数々の名勝負を仕掛けたことでも有名で……」
「そういうのはいいから。ヒロチョウさん、鑑識でまた何か分かったら、知らせてくれる?」
「おう。……ところで、
つばめは手を振ってそれを断り、彼に背中を向けて出口へと向かった。
「大丈夫よぅ、これ、顔見知りの犯行だから。となると、犯人はまだ近くにいるはずよ」
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