三条つばめ警部補のお別れ『喝采と紅い花』

高柳 総一郎

犯行編

 悲鳴をあげていた。

 筋肉と、バーベルのシャフトがぎりぎりと音を立てているような気がした。トレーニングとは己との戦いである。自分が諦めればそこで終わりなのだ。だが、神野勘七は諦めたことがない。

 ベンチプレス百キロ、軽めの調整。試合前に怪我をするわけにはいかないが、さりとて弛緩した筋肉で赴けば怪我をする。

 神野はプロレスラーとしてキャリア二十年を迎えた。現代のプロレスラーは息が長い。それはたゆまぬ努力と節制からくる結晶であることを、神野はよく理解していた。よって、一日たりとも強度の差はあれどトレーニングは欠かせない。それが試合の直前──いやそれ以上に重要な時であってもだ。

「なんやねん、ちくわないやんけ! ホンマ困るわあ」

 柔軟を終えてベンチプレス台近くで大きな声を出したのは、金髪の若手──神野並の体格で、その首元にはチェーンを模したタトゥーが彫られている──の鹿山だ。若手から中堅に成長しつつあり、客も呼べるようになった。

「シゲのどアホ。ありえへんで。またシバいたらなあかんやん」

「鹿山。オメェ、油売ってていいのかい。トレーニングなら会場でもできんだろうがィ」

 鹿山は手元でスマホを入力しながら、こちらを見もせずに答えた。

「ああ、ええんですよ。ワシ、ゴミゴミしたとこでトレーニングすると、あんま集中でけんのですわ」

 口実だ。

 いい加減うんざりしていた。鹿山は有名な元ヤクザの組長の息子で、神野と同じく恵まれた体格であったことから、地下格闘技からプロレスに転向した経歴の持ち主だった。

 それはいい。プロレスは実力とそれに基づくスター性があれば、のし上がれる世界だ。過去は関係ない。神野も彼のそういう点を期待していたし、彼もそれに応えてきた。

 ある日、彼が『自分はとある半グレ団体の構成員である』ことをカミングアウトするまでは。

「ほんで、社長──相談なんでっけど。次の試合はワシとやってくれるんでっしゃろ。初っ端から勝ち試合やと観客も驚きまっから、とりあえず引き分けくらいではじめてでんな。次くらいでワシが勝つっちゅんでどうでっしゃろ」

「……オメェ、この神野に八百長をやれってのかィ」

「いや〜、いい加減ワシも社長にこづかいばっか貰うのも気が引けましてん。ほんで、せっかくやしゴッドプロレスを盛り上げようかと思いまして」

 鹿山は自分が現役の半グレであることをちらつかせ、ことあるごとに『こづかい』をせびってきた。そして前々から遠回しにゴッドプロレスのチャンピオンベルトを巻きたいと言い出していたのだ。

 そのたびに神野は金を握らせて黙らせていたが、それも限界だった。これ以上は会社の金に手を付けなくてはならなくなる。その前に、この不毛な戦いにケリをつけなくてはならなかった。

 チャンピオンはどんな相手であろうと、いつ何時でも相対せねばならない。そして堂々と勝つ。

 それがどんな手段になろうとも、神野はやり遂げる自信があった。

「……何キロでやるんだ」

 ベンチプレス台に寝転んだ鹿山に、神野は立ち上がって近づくと見下ろして言った。鹿山は合計八十キロのプレートをつけていた。どうせ俺と話す口実作りのためだけに、わざわざ本社のトレーニング室まで来たのだ。やる気などない。

「ま、軽めにやりまっさ」

「そうかィ。見ててやるから、やってみな」

 プレートとシャフトが、重苦しい音を立てながら、ゆっくりと上下していく。筋肉の動きで分かる。いいレスラーだ。鍛え上げれば、自分にも勝るとも劣らない実力を得ることができたはずだ。

 しかし、それはもはや叶わない。他ならぬ自分が、その可能性を断つからだ。

「バカ野郎。そんな重量じゃ負荷が足りねェだろ」

「は? いや別に……」

「追加してやるよ」

 20kgのプレートを片方のシャフトに付ける。これでも軽いくらいだ。

「ところでオメェ、食事制限でもしてんのか?」

「え? なんでです?」

 とにかく、注意を逸らせれば何でも良かった。音を出さないように、ゆっくりとプレートを持ち上げて、鹿山の頭の後ろ側──死角からそれを叩きつけた。

 一瞬だった。鹿山は肉と骨が砕ける音と共に、一撃であの世へと逝った。

 がらがらと血まみれのプレートが転がった。神野にとってそれは、ゴングに等しかった。

 焦りはなかった。こうするつもりだった。鹿山がプロレスラーのままこの世を去ることが、ゴッドプロレスのためになる。そのためには、他の誰にも任すことはできない。神野自身で完結させないといけないのだ。

 鹿山の身体は動かさない。

 そのままにして、エアコンの暖房を入れ、タイマーをセットする。気温は三十度。テレビドラマの受け売りだが、これで死亡推定時刻をずらせる──らしい。もう賽は投げられたのだ。振り返ってはいられない。

 トレーニングウェアを着替えていると、血が飛んでいることに気づく。こんなものを持っていたら、完全に疑われる。神野は予め用意していた速達用封筒に折り畳んで詰め込む。処分は後になっても構わない。

 ベンチプレス台の後ろにある階段から事務所へ上がって、机を開けて中身をぶちまける。焦らない。焦ってはいけない。パソコンをひっくり返して、賞状にトロフィーを床へ転がす。金庫を開けて、金をいくつか掴む。現金資産はファイトマネーの上乗せ用に用意しているだけなので、二、三百万だ。

 押し込み強盗が手にするなら、妥当な金額だろう。神野はトレーニングウェアの中に詰め込むように封筒へ金を入れて、封をした。

 鹿山のスーツは自分のものとそう変わらないサイズだった。なんだかむず痒く感じて、袖や頬に触れて何度もフィット感を確かめる。

 大丈夫だ。問題ない。事務所と試合会場となる全楽園ホールは車で三十分。鹿山の所有するスポーツカーは外車だ。アメリカ遠征の際に乗ったきりだが、これもまあなんとかなった。ぎこちない運転だが、とにかくつけばいい。

 ホール近くの立体駐車場に着けて、足早に裏口からホールへ入る。この時刻は、会場設営のためバタついている。誰かに会っても構わない。スタッフ達も、会場入りするレスラーにいちいち構っていられないのだ。神野は普段、ちょうどこの時刻に会場入りして様子を見ている。鹿山は中堅どころながら、客を呼べるようになってからは控室を与えられているので、裏口からそこまでの通路に監視カメラが一つしかないことや、スタッフ達もほとんど気にしていないのも確認済みだ。

 案の定、誰とも顔を合わせることはなく、鹿山の控室へ入る。季節外れのストールを取り、鹿山デザインのチェーンがあしらわれたロングタオルを巻いて、ゴッドプロレスのジャージに着替えて扉から背を向け、椅子に座る。足元にはダンベルと、備え付けのバーベル。調整用のものだ。

 直前になってもレスラーが来ない、ということがないように、スタッフが控室を回る。開場一時間前に始まるのがゴッドプロレスの慣例だ。

 足音が近づいてくるのを聞いて、神野は立ち上がり、バーベルトレーニング──ベントオーバーロウを始めた。広背筋を中心に、背中に効くトレーニングだ。

「ウッス、鹿山さんおつかれです! 今日の試合、よろしくおねがいします!」

 練習生で鹿山の付き人、葉山茂の声だ。返事はしない。鹿山はキャラ作りの一貫もあって、お喋りな性格を完全に封印して寡黙なレスラーとして売り出している。

 要は、今ここで鹿山がトレーニングしていた、という事実があればいいのだ。

 神野は控室を出て、裏口を出る。ランニングを装って軽く走りながら、今度は人通りの少ない裏路地へ入り、正面へと回る。脱いだジャージと小物を、上着の下に入れていたカバンに押し込んで、ゴッドプロレスのシャツ姿になる。今度は神野として堂々とファンの前へ姿を現した。

「あっ! 神野さんだ!」

「でっけェ〜!」

「サインしてください!」

「おう、みんな! 来てくれてありがとよゥ。試合、楽しんでくれよなァ!」

 そう言って拳を突き上げると、ファンが目を輝かせながら同じように拳を掲げ、黄色い声援を浴びせた。深追いはしない。良くできたいいファン達だ。

 だからこそ俺は、このファンとゴッドプロレスを守るためなら、なんだってできるのだ。

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