不幸者

ノブユキ

昼間と打って変わって静かになった冷たいコンクリートの長い廊下を、敬一郎は父の居る診察室に向かっていた。


看護婦詰所の前を通り抜けようとすると、当直の若い看護婦三人が窓越しに


「こんばんは」


と、口々に敬一郎にこえをかけた。


敬一郎は、その言葉に一瞬立ち止まり三人に軽く頭を下げ、


「ご苦労さん」と言った。


診察室の前まで来ると大きく息を吐き、二つノックすると、中から「どうぞ」と言う父の声を聞き、敬一郎は中に入った。


入ると同時に診療室独特の強い消毒液が鼻をついた


敬一郎は医者の子に育ちながら、消毒液の臭いを鼻にすると胸のムカつきを覚えるのである。


だから、急用でもない限り、父の仕事場には自分から来ないことにしているのである。


父は、カルテの整理をしていた。

父は、働き盛りの当年取って五〇である。

誰の目から見ても真面目で仕事の虫だった。


それに家族を大切にした。


「もうすぐかえるからあ、そこの椅子にかけていなさい」


と、父は仕事の手を進めながら言った。


敬一郎は部屋の隅にある椅子を持ち出し、父の横に陣取った。


至近距離で父の顔をじっくり見つめてみると、以前よりシワが多くなっているような気が敬一郎にはした。


頭髪に目を移すと、耳の後ろあたりと額の上の方が昨年より白い物が増していた。


今日、また、敬一郎が父の跡を継がないと言ったら一段と頭に白い物、顔にはシワが増えるに違いないと思うと、心の片方で、父に対して本当に申し訳がないと言う気が頭をもたげてくるのである。


両親、家族の者の勧めで敬一郎は去年も県内の医科大学を受験し、見事落ちたのであった。


そして、一年間予備校に通い今年も同じ医科大学を受験した。


その合格発表が今朝早く行われ、敬一郎は去年に引き続き乾杯した。


落胆が大きかったのは、受験した当の本人より、母の方だった。


落ちた敬一郎は失望の色は少なかったので、余りにも母の落胆した様子を見て不思議に思ったのである


母親とは、こういうものなのかなぁ?と他人事のように思ったのであった。


夕食の時、祖父と姉は敬一郎に、慰めの言葉を言った。


が、敬一郎に失望の色がなく、いつもの様子と一分たりとも変わった所が見えないので二人とも驚いた顔をしたのである。


父と母は黙っていた。


食事が終わり、食堂を出て行こうとした時、

父は敬一郎を呼び止め


「お前に話したい事があるから、病院の方は行きなさい。今から仕事をするので、時間は八時過ぎがいい」


と。少し険しい口調で言った。


父の仕事が終わったのは、敬一郎が来て五分くらいしてからだった。


体を起こし顔を上げ、一メートル程しか離れていない息子敬一郎を真正面から見つめた。


父の子は目と目が合った。

二人は時間にすれば、三、四秒見つめ合った。


父が先に目を外し、白衣のポケットからタバコを取り出し、ゆっくりとした手付きで火をつけるのだった。


敬一郎は父の動作を目で追った。


「今年もダメだったようだね」


と、口からタバコの煙を吐き出しながら、父将造は言った。


「はい。ダメでした。」


敬一郎は正直に答えた。


「来年も受験しなさい。

父さんは一向にかまわないから、合格するまで受けてみなさい。


お前が来年も受験すれば父さんも張り合いが出来るのだよ。

父さんの言う通りにしなさい」


「はい。

でも、今年と同じで合格する自信はありません」


「合格する、しないは二の次でいい。

要は受験する事なんだ。


一回や二回落ちたからと言って諦めてはいけない。

来年は見事合格するかもしれないではないか。

私達家族の皆んなの為に来年も受験しなさい。


それが敬一郎、お前自身のためになる事なんだから。そうしなさい。」


将造は幼子をさとすかの様に言うのである。


「お父さんの気持ちは僕にだってわかります。

ありがたいと思っています。

出来ればお父さんの心に添いたいと思います。


でも、僕には自信がないのです。

自信がないのに、一年間を棒に振って受験したって無意味ではないのですか?」


「無意味か、無意味でないかは、やってみなければ現時点では何とも言えないのではないのかなぁ。

答えを先に出してはいけない。

努力してみなさい、あと一年」


「何度でも言っている様に自分自身の実力は知っているのです。

合格する見込みは、十回、二十回受けてもないのです」


と、敬一郎は語調強く言った。


心の内で、敬一郎は父に向かって大声で叫んでいた


僕は医者なんかになりたくないのです!

医者は性に合わないのです!と。


「今日、お前に自信を持てというのは酷な事なんだ

父さんはお前の気持ちは、分かっているつもりだ。

父さんがお前に言いたい事は、お前が何年浪人してもいいから、大学に合格して、この病院を引き継いでもらいたいんだよ。

他の事は考えないでいいから、この事だけを頭の中に入れておいてくれ」


将造は、真剣な表情で言った。


敬一郎は、黙っていた。


将造は黙っている敬一郎に表情を和らげ優しく言った。


「当分の間は好きなようにしなさい」と。


将造は、息子敬一郎を見ていると、心が楽しくなってくるのである。


出来る事なら息子の言う事は一から十まで聞き届けてやりたいのである。


今までは確かに息子の言う通りにしてやった。

が、しかし、もう息子は二十才になった。


ワガママは許されないのである。

大人に脱皮してもらわねば困るのである。


将造は貧乏な炭坑夫の子として育った。

父は懸命に働いた。

でも、働いても働いても、貧乏から抜け出す事が出来なかった。


貧乏から抜け出るチャンスが父には廻って来なかったのである。


貧乏なのは将造の家庭ばかりではなかった。

周囲の人々も将造の家のように貧乏だったので、あまり苦にはならなかった。


どこの家も貧乏ということは、日常茶飯事だったのである。


父は将造を目の中に入れても痛くない程可愛がった。


身体中真っ黒けにして仕事から帰って来ると、父は

決まって将造を何にさて置いても抱き上げ、ヒゲ面で真っ黒な顔を、幼くて柔らかい将造の顔に頬ずりをするのである。


父の頰ずりが終わると、将造の顔と手足は父同様に真っ黒になっているのである。


そして、父は将造を軽々と肩車して共同浴場に足を運ぶのであった。


父の思い出は年を取るにつれ不思議なくらい鮮明に思い出されるのである。


確実に自分と父とは、親子として肌と肌の触れ合いがあった。


では、自分は息子敬一郎に対して、どうであったろうか?亡き父が自分にしてくれたように、人目もはばからず、幼い頃の敬一郎に父親らしく愛情込めて抱き上げ、敬一郎に頰ずりをした事があったのか?


いや、そんな事は自分にはないのである。

頰ずりはおろか、この両腕に抱き上げた事すらあまり記憶に残っていないのである。


家の事と子供の事は、義母のトメと妻の江美子に任せっきりなのである。


少しでも口に出すと二人とも渋い顔をしていうのであった。


「将造さん、あなたは男なのですから、私たちの仕事の事には口を出さないでいただきたいのです。


家の事と子供の事は男の仕事ではありません。

これは女の仕事なのです。


あなたには医者としての仕事が山ほどあるはずです

家と子供の事に口を出す余裕があったら、病院の仕事の方に精を出してください。


男の仕事と女の仕事を混同してはいけないのです。


私達も将造さんの仕事に関しては口出しは致しませんので、将造さんも余程の事がない限り、私達女の仕事に口出しは差し控えていただきたいのです」


二人の言うことも理屈は通っているので、将造は黙って聞いているだけだったのである。


それから、この二十数年来、家と子供の事に関しては口を入れないで仕事一筋に生きてきたのである。


その結果、病院は将造が養子に来た当時より、十倍以上も大きくなっていたのである。


将造は仕事に関しては大成したが、二人の子供には男親らしい事は何一つしてやらなかったので、二人の子供には十三、四才頃から、せめてもの子供に対する愛情の表れとして、月々の小遣い銭だけは豊富に与えたのである。


現在でも、それだけは義母にも妻にもナイショに続けているのである。


子供にだけは絶対に金に困らせまいと思うのである


それが、子に対して最大の親心ではないかと心底思っていたのである。


貧乏という事は、骨身に染みて将造は知っていた。


金が無ければ、たとえ学問が好きで好きでたまらなくても、上の学校へ行くこともできないし、両親に孝行したくても出来ないし、何につけても小さくなっていなければならない。


だから、可愛い子供には決して貧乏と言うことを知ってもらいたくないのである。


昔の聖人君子が言っているように、一時期、人間は貧乏というのを肌で味あわなければ、一人の人間として、大らかな心を持つ事が出来ないのである。


貧乏という修行を通り越した者が、本当の人間なのである。


真の人間である。


確かにその通りである。


人間の第一の修行たる貧乏という困難を乗り越えた人間には、何人たりとも負けない風格が出てくるものである。


でも、心の強い者ならいざ知らず、弱いものはか、その困難を越える事ができるのか?


やはり、人は生涯を通して貧乏ということを知らないで暮らすのが、一番良いわけである。













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