第31話



 夜天に昇り、風にそよがれ飛翔する。

 高層ビルを跨ぎ越え空中遊歩を踏みながら、己は思案を迫られていた。

 予想された追跡者は影もなく、蜂人共は突如出現した『敵勢力』の襲撃に対応を余儀なくされている。己の正体はともかく、侵入者によってまんまと一ノ目メイが奪取されたことは既に発覚しているであろう、にもかかわらず。

 戦力を割く余裕すらないのだ。そしてそれほどにあの襲撃は奴らにとり寝耳に水だったのだろう。

 どうする。

 これを好機と、この娘らを安全圏に逃がすのは確定事項としても、その後かの戦場をどのように扱う。

 懸念は、やはり。


「あの薬を作ったのはお前さんだな?」

「っ! ……はい」


 肩に担いだ娘の痩身が震えた。声音は微風にさえ掻き消えてしまいそうなほど弱々しい。

 それは罪悪の針。心の臓腑を滅多刺すこの世で最も御し難い痛み。


「それは、お前さんの意志か」

「ちがっ、そんなわけないでしょッ!! あんなもの作りたくなんてなかった! 私はただお姉ちゃんを……取り戻し、たくて……!!」


 その先は聞くまでもないこと。姉の身柄、そしてその無事を条件に薬物の調合を強いられたのだ。


「元々は、お姉ちゃんがやらされてたことだった……お姉ちゃんが夜仕事でハイヴに出るようになってすぐ、私らの出身を知られて……お前達の借金の債権は買い取った、薬を作れ、言うことを聞かないなら、一生飼い殺しにする。か、金持ちの人間の、お、男に……体の方を売れば、返済は早まる……薬を作るのが嫌ならそうさせてやる……そう、言われた」


 如何にもなヤクザのやり口だ。絵に描いたようとでも言おうか。あるいは恐喝の指南書なるものがこの世に存在するなら、それは大見出しを飾って掲載されること請け合いの。

 正しく下劣の所業である。


「一ヶ月くらい前からお姉ちゃんが家に帰らなくなった。店のヤツらに聞いても『仕事』の一点張りで……でも、ある時……お前の姉は、お前を置いて逃げたんだって」

「逃げた?」

「私を置いて逃げた。高跳びしようとしたところを捕まえて、監禁した。ご、拷問に、かけてる。だから、お前が代わりをやれって……」

「はっ」


 なるほど。どうやら此度の一件、その碌でもない顛末が見えてきた。

 一ノ目メイの姉、一ノ目アイは確かに逃走した。良心の呵責か、度重なる理不尽に対する忍耐の限度を超えた為に、蜂の巣を抜け出した。一ノ目アイを取り逃がし、その上身柄を警察に奪われた蜂共は、慌てて妹である一ノ目メイを確保し、幽閉した。外部との通信手段を断たれたこの娘が、姉の状況を知らないのは当然のこと。その辺りを出任せで言い含めて娘自ら協力させようとしたのだろうが。

 一ノ目アイの行動は、決して彼奴らののたまうような逃避ではなかったろう。

 ……自身に薬を使ってでも、一ノ目アイは抗ったのだ。

 何の為に? それは、おそらく。


「お前さんの姉御は捕まってなどいない。先日街中で錯乱し、その日の内に警察病院に搬送された」

「……へ?」

「おう慌てるなよ。命に別状はないそうだ」

「どっ、どうして、どうして!? どうしてお姉ちゃんが、そんな……!?」

「そうさな……今月の九日、この日付に覚えはあるかい?」

「こ、九日って…………あ」


 呆けたように、娘はその単眼を見開いて呟いた。


「私の、誕生日」


 それはまた、大層合点の行く話であった。


「ならばそういうことだ。薬で力を暴走させてでも、お前さんに会いに行こうとした。その日ばかりは、会わずにはおれなんだのだ」

「あ……あぁっ……」


 そのたった一つの瞳から娘は涙を滂沱した。風に浚われていく大きな水の粒は止め処なく、体中の水気を失ってしまいそうなほどだ。


「ふぎゅ、ふぐぅ、い、いい話……」

「おいおい、上着に垂らさんでくれよ。新品なんだ」


 鼻水を滂沱してミグモも盛大に泣いた。

 珍重な薬剤師を失った彼奴らめはなんとしてもその代役を欲した。代えの利かぬ専門技能者である。そして姉の窮状を知ればこの娘とてもはや恫喝に隷従などしない。彼奴らは姉の情報が伝わる前に、娘を幽閉する必要があったのだ。

 下準備の行き届かぬ杜撰な拉致監禁に走ったのもそれが事由。

 だが、それが仇となった。

 いや、あるいは憐れな話だ。実に運が無い。

 ある一人の少年の無垢な願い。いやさ暴挙よ。娘子を想い、想い、想うあまりに、少年はよりによって己を頼った。こんな男を焚き付けてしまったのだから。

 運の尽きというなら、あの悪辣の“石”を利用しようとしたその愚行から。

 以上二項を以て、容赦してやる理由が消えた。


「さてと、一先ずお前さん方を地上に下ろすぞ」

「えー、どうせだからこのまま家まで送ってよー。あ、なんなら泊まってってもいいよ? ふふふ」

「カッカッ、そいつぁまた次の機会に取って置こう」

「ちぇっ」

「地上に着いたら、そこにいる赤崎という女を頼るといい。外特の刑事だ。諸々取り計らってくれる」

「……」


 肩の上で身を強張らせる娘子に、努めて軽く笑みを送る。


「なに、悪いようにはしねぇよ。お前さんのことも。無論、姉御のこともな。事情を話せばすぐにも会えよう。いや必ず会わせてやる。請け負うぜ。こんな身形なりだが警察程度に横車押すなんざ朝飯前でな。ただし」

「はい……?」

「代わりと言っちゃなんだが、事が落ち着いた後でいい。あの三叉の坊主に、もう一度その顔見せに行ってやってくれるかい」

「! はい……はい!」


 震える声はしかし力強く、滲む瞳には悲哀とは対極の、眩い光が戻ったように見えた。


「……ついでにお前さんがあの坊を憎からず想っていてくれると、己の立つ瀬も浮かばれるってなもんなんだが。くくく」

「えっ! あっ、そ、それは、それは……~~~っっ!」

「なになにそういう話なの? 聞きたい! 聞かせて! 聞かいでか!」


 囃し立てるミグモに返事もできず、声ならぬ声でメイが鳴く。頬と言わず額と言わず、耳までもかっかと朱に染まる。

 どうやらその恋路は明るそうだ。


「……最後に一つ、教えてくれ。お前さんが作らされた薬、その材料の中に奇怪な石か、砂があった筈だ。それをどうした」


 若々しく甘く酸い。それは未来の匂いだ。この先を生きる子らの、その前途。

 己は顧みる。

 過ぎ去ったものを。血と火、ただ殺し、壊すばかりのオードの臭い。嗅ぎ馴れた戦場の香。そして、怪なるその石の悍ましい香気を。


「……あった。すごく、強い力、危険な力を持った石……同じ部屋にいるだけで身震いした。あれは人が、魔物だって触れていいものじゃない! 私、私っ、そう解ってたのに……!」

「薬の素材に使えと命じられたのだな」

「ただ混ぜるだけじゃダメだった。あれは、極悪なニトログリセリンみたいなもの。触ったり衝撃を与えたりなんてレベルじゃない。心すら、刺激として受け取って爆発するようなヤバいやつ……私の家に代々伝わる古い呪術と組み合わせてやっと安定させられた。肉体の構造自体を呪術式に見立てて、吸収されるとそれを基盤にして発動する。オードを増幅して、身体、というより生態そのものを根本から強化する。あれを使えば、ゴブリンがオーガになれるよ」


 冗句の体裁で、娘は心底の恐怖を口にした。


「数は」

「じ、十二錠……」

「そうか。よく教えてくれた。ありがとうよ」


 また涙を堪えた瞳が己を見上げる。そんな目で、胸を痛めることなどないのだ。幼子よ。お前に罪などない。案ずることなど、ない。

 子らの生きる道を鎖さんとする邪悪。

 この拳が滅ぼす。これより、滅ぼしに征く。







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