第26話

 見るからに気を逸らせる少年を宥め、今日のところは家に帰した。

 喫茶店を別れ際、何度も何度もこちらに頭を下げるその姿。少なくともこの坊の、一ノ目という少女に対する想いが、ただ一時の熱病でないことは知れた。

 虚空より出でて肩に止まった巨烏もまた同じことを考えたらしい。


『あの必死さ、目を離してよいのか。激発し、無謀を働かぬとも限らん』

「張り付いている訳にもいくまい。こちらとて早々に動かねば……お前さんを見張りに付けられるんなら安心なんだが」

『戯けたことを言うな。殺生石の発現に対し、我ら合一して神甲を纏わねば完全なる滅却は能わぬ。元凶へ攻め入るという時に手分けなどは愚昧の極みぞ』

「わぁかっておる。そう耳元でがなるな」

『ふんっ』


 烏の言は全くその通りだった。

 一人と一羽の単独私兵風情に出来ることなど数もない。この上は早期決着を以て不安要素の発芽を無とする他、道はなかった。

 ならば向かう先は一つ、『ラヴィン・ハイヴ』。

 所在地は以前にレオンから聞き知っている。夜の店とあって開店時間まではまだ間があった。ならば今の内に“準備”を済ませておこう。


『ギンジ、あれはどうする』

「ん? おぉおぉ、そうだった」


 喫茶の通りを挟んだ向かい。古書店の看板の影からこちらを覗う者。

 学園を出てここまでよくぞ根気よく尾行してきたものだと、妙な感心すら湧いた。


「くく、熱心だなあの嬢ちゃん」

『ちょろちょろと意味もなく嗅ぎ回っている……目障りな』

「なんの。己が学生であること、通う学舎まで足で突き止めて見せたのだ。大したもんだ」

『褒めてどうする』


 先夜の尾行者、あの警察の娘子だった。赤崎とかいったか。

 装いはニットキャップにミリタリージャケット、ジーンズと実に一般人然としたものだが、落ち着きなく物陰を出たり入ったり、その忙しなさは目立つことこの上ない。

 そんな空回った行動力と相も変らぬ間の抜けっぷり。呆れと感心を同量ずつ覚えるが、これより赴く場所にあれを引き連れて行くのは間違いなく悪手だろう。


「丁度いい。着替えるついでに撒くとしようかい」

『着替え?』

「制服で夜遊びは不味かろう。盛り場にはそれに相応しい恰好ってものがあるのさ。おなご受けを狙うならなおのことな?」

『……私の知ったことではない』

「くはは、そうかい」


 素気無い烏を伴ない商店街を歩く。

 まず差し当たって足を向けたのは洋服店である。個人経営の小造な店構え。しかし繁華街が近いとあってか一枚硝子の飾り窓ショーウィンドウには、普段着とするには些か華美な装束を身に纏ったマネキンが、気取り見栄張りを作っている。

 その内の一体、黒いシャツ、黒いベスト、黒いジャケット、黒いスラックス、それぞれ濃淡はともかく上から下まで黒一色の細身のスーツが目に入る。着る物に格別の頓着などしない粗忽者には、それの良し悪しなどわらぬが。


「まあ、こいつでいいか」

『さっさとしろ』

「へいへい」


 言うや烏が肩を飛び立つ。

 己は古風な意匠の小洒落た扉を潜り、ベルの音色と共に中へ踏み入る。

 店内へ踏み入って最初に目に映ったものは、淡く桃色がかった白。白い花弁のような髪。白い娘子が、カウンターの向こうで仕立ての為の一枚布を裁断している。鋏、ではなく、それ自身の

 複眼がこちらを顧みた。ほっそりと人のような輪郭をした顎、その左右で鋭い顎肢が開閉する。

 その華やかな出で立ちからしてハナカマキリだろう。昆虫種の人化した異界人だった。


「いらっしゃぁませ~」

「表に飾ってある黒のスーツ、あれ一式もらいてぇんだがいいかい?」

「はぁい、ありがとうござまぁす。でぇは、サイズお計りしますね~」

「いや、そりゃあこっちで合わせるゆえ、お気遣いは無用に」

「んはぁ?」

「そのまま着て行きたい。試着室借りるぜ?」


 おかしなこと抜かす男に戸惑いながら、娘は素直にマネキンからスーツを脱がせて寄越してくれた。

 懐から取り出した万札を十か二十、スーツと引き換えに手渡す。


「足りねぇんなら言ってくれ」


 通された試着室で手早く着替え、鏡の前に立つ。案の定、袖や裾が余っている。

 この“肉体年齢”なら然もあろう。それを見越してやや身頃の大きなものを選んだのだ。


「五つか六つ、ってぇところかね」


 気息を吸い、丹田にて回す。それはさながら風船を膨らませるかの仕業。

 真実一息分の間で肉体のは完了した。

 上背と身幅が増した。手足は太く張り、長く伸びた。

 十五、六の青年から、二十かそこらの若造へ。

 ぴたりと嵌るスーツの着心地、我が目測の正確さを自画自賛する。

 試着室の仕切り布を除けて外に出た。ハナカマキリの娘がこちらを向いて、そのまま複眼と顎肢を開いたまま固まった。

 手には万札が数枚。やはり過払いだったようだ。


「そいつぁほんの心づけだ。代わりと言っちゃなんだが、このことはあまり言い触らさんでくれるかい?」

「へっ、は、はぁ、はい、どもぉ、ありがとござぁました……」


 釈然としない声に送られて店を出る。

 舞い戻って来た烏が再び肩に止まる。

 シャツのボタンを二つ三つ開け襟も崩す。ジャケットの前を開け、ポケットに手を入れて踵を踏み鳴らして歩けば、如何にも軽薄な風体の男が現れる。

 ふと思い至り、髪を後ろへ撫で付けた。整髪されたかのような形に固めれば、これこの通り。


「完璧であろ?」

『何がだ』

「遊び人刈間ギンジの出来上がりってな」

『くだらん』

「カッカッカッ!」


 洋服店を覗う気配に動きはない。

 文字通り人が変わったのだ。こちらの変容、もとい変化へんげには流石にあの娘も気付くまい。

 準備万端整えて、いざやいざ、夜の盛り場へ繰り出すとしよう。





 そこはビル一棟を丸ごと店舗として改装しているようだ。

 地上から夜天に伸びる黒い石柱。見上げたビルの窓や支柱はハニカム形状の模様が至る所にデザインされている。蜂の巣ハイヴに見立ててのことだろうが。

 正面入り口の両脇に二人、黒い外套を纏った異界人種の女が立っている。フードから覗く黒々とした複眼と褐色の触覚は蜂のそれ。手には何故か三叉の槍を握り、さながら城門の番兵といった出で立ち。

 ハイヴを守護する働き蜂だ。

 構わず、真っ直ぐに入り口へと向かう。

 迎える番兵の方はこちらを見て一瞬動きを止める。人間種の、それも男が一人で異界人種の店に入ることに驚いたようだ。

 戸惑いを呑み込んだらしい番兵の会釈に送られ、その黒い鉄の扉を開く。

 大理石の通路、受付にも蜂の昆虫人が立っていた。こちらは黒いパーティードレスを纏い、その場で深々と頭を下げた。


「いらっしゃいませ。ようこそ、ラヴィン・ハイヴへ」

「一人だが入れるかい」

「もちろんでございます。さあ、どうぞ」


 一見は門前払いかとも案じたがそれは杞憂に終わった。

 通路の奥の扉へと誘われ、開かれたそれを潜る。薄闇の中、壁面に這うようにして淡い黄金色の照明が管状に布かれている。100坪ほどの空間に客席用のソファーとテーブルが幾つも並び、瀑布のようなシャンデリアがその上に垂れ込める。仄かに蜜が香った。酒か、あるいは真実、其処彼処に活けられた花束の。

 客席の八割方は埋まっている。開店間もなく浅い時刻を狙ったが、それでも客足は上々。各所から人間種の男と異界人種のホステス、酒精混じりの笑声が沸く。色と肉への欲か、それとも金か。ある意味こここそ差別なき世界だった。人と魔、いずれも同じ欲を抱き、同じ夢を見ているのだから。


「こちらへ。お客様の為の“メス”がすぐにも参ります。どうぞお寛ぎくださいませ」

「……」


 呆れた言い回しに顔を顰めそうになる。それをどうにか聞き流し、肩を竦めて蜂人の案内人を見送った。

 程なく、隣にそれは

 紫のドレス、同色のアームロング、レース地の美しい腕が四つ。そしてドレスのスカートの下から伸びる節足が四脚。

 青紫の縞模様を描く丸い尻、厳密には腹に当たるのだろうその先から糸を出して、天井から逆様に現れた娘子。赤い四つの目玉の内、人がましい形をした二つを細めて笑む。

 蜘蛛の異界人種。娘はその人形のような均整の面差しに美麗な愛想笑いを浮かべた。群青の髪に幾筋か濃紫のメッシュが走っている。

 くるりと器用に反転して、正転した笑顔に向き合う。


「はじめまして、ミグモって言います。なんてお呼びしたらいいかな。お客様は初めての方ですよね?」

「刈間ってもんだ。ああ、そうだよ」

「んー、初めてが私で大丈夫ですか? 虫っていうか、蜘蛛が苦手な人間さんって結構いらっしゃるから」

「なんのなんの。お前さんのような別嬪相手に文句の付けようはねぇさ」

「あはは、ありがとうございます。お好きなお酒ってありますか?」

「そうさな。ならここは一本、お前さんの好きなやつを開けてくれるかい?」

「えぇ! いいんですか~? そんな気前よく言っちゃって~……いいんですよ、お兄さん。無理しなくたって。このお店、いろんな意味で容赦ないから、ほら……」


 こちらに身を寄せて、娘がこそりと耳打ちする。

 客のお世辞と見栄には慣れたものなのだろう。娘はさり気なく、品書きに並ぶ高級酒の値段をこちらに見せてくれた。ゼロが五つ、時に六つ、僅かに七つ。それ以下のものはない。だがそれだけに、客に金を使わせた分だけ娘自身へのもまた増えるだろうに。

 がっくりと肩を落とした。大袈裟に、如何にも芝居がかった調子で。


「かぁっ、すっかり気を遣わせちまって! 面目ねぇや。俺ぁそんな貧乏くせぇ男に見えっちまうか……」

「あぁっ! 違う違う! そんなんじゃなくて!」

「……くっふふふ、それならいいんだが」

「へ? あ、うぅわお兄さん、意地悪なタイプの人だ。せっかく心配してあげたのに!」

「カッカッカッ、初めて来た店で初めて接客してくれる娘さんへの、ま、御祝儀みてぇなもんだ。どうぞ、受け取ってやってくんな」

「はぁいはい。もぉ! ありがとう!」


 己の首に、娘がその四本の腕を巻き付けて抱き着く。こうして肌身を触れ合わせるのも接客の心得の一つなのだろうが、美人に抱き着かれて悪い気はしない。

 その時、思念が一刺し、頭蓋を突いた。


『本来の目的を忘れるなよ』

(わかっておるわかっておる)

『…………』

(カッカッ、そう怒るな。外部からビル内部を看破できるか? 構造、人員配置、人数、罠の有無、なんでも構わねぇが)

『ビルには魔術防壁が布かれている。壁面だけではなく建造物の基礎骨子に組み込まれたものだ。透過、看破は現状不可能。中和し観測を試みるが相応の時間を要する上、精度には限界がある……あと、私は決して怒ってなどいない』


 グラスに注いだ黄金色のシャンパン。小さな泡が水面に向かって揺らめき立ち昇る。それこそ泡沫。

 今宵限りの男女の、その場限りの睦言を……などと。

 幸か不幸か、ミグモという娘子はその辺り、忌憚が無かった。気取りがない。


「お兄さんはお仕事なにしてんの? あ、待って。当てたげる。うーん……学校の先生! は、ないか。社長さんってタイプじゃないんだよね~。でも会社員さんには見えないしー。実は危ない人だったりして?」

「さぁてどうだか。当てられるかな。もし当てられたら、どら、もう一本つけようじゃねぇか。そら頑張れ頑張れ」

「えぇ!? だぁから無理しちゃダメって言ってんじゃん! 無駄遣いとかダメなんだから! お金って大事なんだよ!?」

「カッハハ、いやぁそうだ! その通り! 己が悪い! そんな悪い奴にゃシャンパンなんて勿体ねぇ。だから次はウイスキーがいいな。この25年モノがいい。おぅい給仕さんよーい!」

「あ、バカ!」


 悪く言えば明け透けだ。だが、好ましくはあった。

 慌てて己の肩を揺すり、なんとなれば取り出した糸で縛り上げようとまでする。面白可笑しな娘子だった。


「無理しちゃダメだよぉ……言ったでしょ、このお店は……」

「無理なんざしちゃいねぇさ。ただお前さんと話をしてると楽しい心持ちになる。そうすると酒が進む。それだけのこった。ハッハッハッ」

「……ふーん、変なの」

「お前さんこそ、酒ばかりでは体に悪ぃや。何か食わんか? 好きな物頼みなよ」

「んー……ありがとう。でもいいや。ここからまだまだ長いから、食べると衣装のライン崩れちゃう」

「そうかい。仕事人の心掛けだ。立派だのぅ」

「そんなことないよ。ふつーふつー」


 微かに鼻腔から吐息する。おそらくは当人も隠すことを忘れた疲労感が、じわり滲む。


「人界に来て長いのかい」

「んーん、まだ一年ちょっと。デザイナーの学校通っててさ。お水これはその授業料稼ぎのバイト」

「……ほぉ、そいつぁ本当に立派だ」

「ぜんっぜん、指名増えないし、バックは減るし、それで怒られるし……あんまし向いてないみたい。ここで働き出してから体の調子も良くないんだよね。睡眠不足だからかな? はぁ……ぁ!? ご、ごめんなさい……愚痴っぽくて」

「いいや」


 娘は大慌てで取り繕い、愛想笑いを顔に貼り付けた。そうして怖々と、伏し目がちに入り口付近を見やる。

 そこではパンツスーツの蜂人の女が佇立し、周囲をその複眼で睨んでいる。そしてぴたりと、こちらと目が合った。

 黒スーツが歩み寄って来る。

 ミグモはただでさえ色の白い顔を青くさせた。

 蜂人の女が、仮面のような笑みでそこに立った。


「失礼しますお客様。ミグモは一旦下がります」

「おいおい、そりゃねぇや。この娘さん楽しい子でな、指名料が掛かるってんなら喜んで払うぜ」

「申し訳ございません。すぐに別のメスを、参らせますので……ミグモ」

「はい……」


 取り付く島もなく、黒スーツはミグモに目配せした。娘は従順に立ち上がる。糸を引かれた傀儡のように。

 労働環境はともかく、上役は善玉とは言えぬらしい。

 立ち上がり、娘にそっと手を差し出した。

 娘はそれを見下ろして、不可思議そうに首を傾げる。その素直な反応が可笑しみを誘った。

 笑む。


「楽しかったぜ。ありがとう。お近付きの印に握手だ。握手」

「……ふふっ、やっぱり変なの。私も面白かった。お兄さんが変な人で」

「ほっほーこやつめ、言うじゃねぇか。カッカッカッ」


 娘の飾らぬ笑顔は美しかった。先刻までの愛想笑いなどよりも、余程に。

 手が握られる。それを握り返す。

 弱弱しいそれに、そっと────


「……?」

「体を大事にしなよ。こいつはちょっとしたおまじないだ」

「あ」


 握手を解いた娘の掌に、手折った花が一輪残る。桃色のチューリップ。飾られていたものを失敬したのだ。

 娘が目を瞬く。己自身の体を見下ろして、また首を傾げた。


「あれ、なんか、なんでだろ、体が軽いや……お兄さんが?」

「さぁて」


 空惚ける己を、娘は見上げた。なにやら妙に、眩げに、切なげに。


「おい、ミグモ」

「あの」


 蜂の女の呼ばわりを無視して、ミグモが己を見上げる。


「ごめん、名前。もう一回教えて」

「刈間ギンジ。またな、ミグモちゃん」

「うん……うん! あの、これ」


 娘は名刺を取り出し、その裏面に何やら急いで書き殴って己に手渡す。


「またね!」


 最後にもう一度笑って手を振り、娘は黒スーツに伴われていった。

 暫くして、先とは別の蜂人の女が己に近寄って来る。


「お客様、よろしければお客様のメスのお好みを伺えますでしょうか。当店には種々とりどりの異界種が揃っておりますので、きっと見合うメスをご提供できます……もちろん、サービスも」

「ほぅ、そうなのかい。そりゃあいいことを聞いた。では頼めるかい」

「なんなりと」


 使った金額がそろりと効能を現し始めたようだ。嫌味なほどに恭しく頭を垂れる蜂の女、その金髪の旋毛に、望み通りに言ってやる。


「単眼種の娘。良い子が居ると聞いてるぜ?」







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