第25話

 言葉は反響する。頭蓋骨よりも深い場所で。

 あいつの声。思い出す度、息が詰まる。


『同情かよ?』


 放課後の教室。夕焼け色に染まる視界。こびり付く。嫌になるくらい。そこら中がぼやけた茜色になった空間で。一つだけ確かな、判然とした色。その“目”に釘付けになった。吸い込まれて、落ちていきそうなくらい、澄んだ大きな黒い淵に。


『魔界人種の女なら、人間から言い寄られれば喜ぶとでも思ったわけ』


 たった一つの目を眇め、顰めて。一ノ目は言った。

 俺が差し出したFPの申請用紙を握り潰して、堅い声音で吐き捨てた。


『勘違いしてんじゃねぇよ』


 小柄な少女が俺を睨め上げる。

 心底の怒りと、この上ない失望と、どうにもならないくらい……悲しげに。


『もう……私に近寄らないで』


 俺はただ何も言えずに、一ノ目が教室を出ていくのを見送った。

 机に残されたくしゃくしゃの紙屑が、俺の馬鹿さ加減を嘲笑っている。ひどく、惨めだった。

 堪らなく悲しかった。一ノ目のあの目が、悲しかった。

 俺は結局、何もできない何も知らないひたすらのクソガキで、無力な人間種の男なんだと思い知った。

 できること。俺なんかに何が?

 できることを。そんなものない。

 一ノ目の為に。恩着せがましいんだよ。

 鬱屈と自己嫌悪だけを繰り返す日々。ある時から学校に一ノ目が来なくなって、そこに焦燥感が加わった。



 そうして、最悪の気分で迎えたある日の昼休み。


「満足したかい、お嬢ちゃん」


 それは教室の一角で起こった。

 獅子獣人の女子が男子生徒にちょっかいを掛ける。それ自体は何一つ珍しくはない。そんなもの毎日毎時この学校の其処彼処で見られる光景だ。

 異常なのは結果。

 男子、それも人間種の男子がだ。事も無げに、獣人の腕を捻じり上げて机に押さえ付けている。どうやったかなんてわからなかった。一部始終、野次馬気取りに眺めていた筈なのに。


「今の、見た?」

「み、見た。あのリオが」

「倒された……? 転んだんじゃないでしょ、あれ」

「誰、誰誰あの男子。に、人間だよね? いやホントに人間?」

「知ってる! 転校生の、かぁ、そう! 刈間!」

「刈間ギンジだ」


 口々に囁かれる名前には聞き覚えがあった。転校生というありふれたフィルターとは違うあの青年の奇妙な“噂”を。

 精悍な横顔だった。今の、ただふさぐばかりの自分とは正反対の。

 好奇の視線に晒されて物怖じもせず堂々と、なにより、強力な魔界人種と相対した人間種がどうしたって抱えてしまう引け目を……怯えを微塵も持たない眼差し。

 強い人間。もしかしたら生まれて初めて見る。今のこの、人界と魔界が融け合った世界にはもういないとされる人種。


「戯れ合いも程々にな」


 刈間はリオを解放すると、諫めるように言ってその場を離れた。軽やかに笑いながら。


「あ、兄貴! アタシもー!」

「ま、待って刈間くん! 僕らも……リオ! 行くよ!」

「え?」

「早く!!」

「はいぃただいま!」


 同じく転校生のケット・シーが刈間を追い、リオをせっついてその彼氏の山島が、そして終始面白がっていたクーラが後に続く。

 教室中の全員が呆気に取られてそれを見送った。









 我ながら間の抜けた話だ。D組の子供らに話を聞き込もうと乗り込んでおいて、単に悪目立ちしてすごすご引き下がって来たなどと。

 因幡教諭に知られた日には、さぞ痛烈な小言を頂戴することになろう。

 なにより、娘の初登校、晴れの日に無用の騒ぎを立てちまった。


「すまねぇな」

「え? あっはは、なんで兄貴が謝るんスか?」


 放課後、帰り支度を終えたエルと落ちあい、隣り合って廊下を歩く。

 こちらを見上げて娘子はころころと笑った。


「いいんスよぅ。ちゃんとリオちゃん反省してたし、山島くんなんか本人より深刻そうに謝ってくれましたし」

「気弱に見えたが一本筋の通った男子おのこだったな。それでいて存外に亭主関白だ」

「いやー恐かったッス。普段からああなんスかね。叱り慣れてる感じで。リオちゃんめちゃんこ落ち込んでましたよ」


 連れ合いの男女二人、その丁寧な謝罪を聞きながら昼飯を食うことになるとは思わなかった。

 誠意云々はどうあれ、しっかりとケジメを付けようというあの気概は己の好むところである。

 不意に、こてん、と隣を歩く娘子の小さな頭が己の腕にぶつかる。

 もの問いに見下ろしたこちらを娘が見上げる。にんまりと、ふやけた笑みだった。


「守ってくれて嬉しかったッス」

「んー?」

「えー違うんスかー?」

「カカカ、さてどうだったかな」

「む~」


 不満そうに、ぐずるように、娘はぐりぐりと頭を擦り付けてくる。

 耳の付け根を掻いてやると、少しだけ満足そうに喉を鳴らした。


「まあ、収穫はあった」

「?」


 謝罪のついで、行き掛けの駄賃というやつ。獅子の娘やその連れ合いは、良い情報源となってくれた。

 一ノ目メイ、かの娘は単眼種の中でもかなり古い部族にその血脈を連ねるそうだ。それもとりわけ薬草の調合術に秀でた家系だったと。入学当初など、手製の軟膏やら香水やらを折に触れて級友に振舞ってくれていたという。

 口は悪いが、面倒見がよく、保健委員として級友らの体調に目配りを欠かさない。思慮深い娘だった。少年少女らはそう口を揃えた。

 様子が変わったのは一月前。

 目に見えて、華美に着飾るようになった。ブランド物の装身具を見せ付け、羽振りの良さをひけらかす。深夜、繁華街でなにやら物騒な風体の連中と同道する彼女を見たという者もある。

 学校での振舞いは粗暴になり、級友への態度は硬化した。それを注意した者を衆目の前で口汚く罵ることもあった。

 明かな変調。しかし、それを訊ねる者にこそ、一ノ目メイは容赦しない。

 孤立は必然であった。いつしか少女に話し掛ける者、関りを持とうとする者すらいなくなった。

 そうして現在、かの娘は教室から姿を消している。

 事件への関与を疑いたくなる。己のこれは果たして短慮か?

 本人に直接確かめるのが最短の道であろう。教諭から家の住所を得て身柄を抑えるというのも手だ。家に帰っているなら、の話だが。

 もしこの薬物事件に巻き込まれているというのならそれこそ、無事でいる保証さえ。


「……」

「兄貴……?」

「ん? おぉすまんすまん」


 正面玄関に行き着き、靴を履き替えて外へ。

 下校する人魔諸々、あるいは屋外競技の部活動で汗を流す誰そ彼。人種と異種、それらが交わる混沌とした風景。同じほどこの上なく調和を果たした世界。

 子供らが日々を生きている。懸命に、平らかに、生きている。

 それを脅かすモノがある。

 あるいは今も何処かで、脅かされる者がいるのやもしれぬ。それは何処とも知れぬ一ノ目メイであり、まだ見ぬ誰かであり、傍らを歩くこの子であるやもしれぬ。

 何ができる。己に、何が。

 何が、怪魔の討滅武力よ。國守のはがねよ。

 己の所業など所詮は虱潰し。限り知らずこの世に吹き出、涌き出る邪悪を滅するだけだ。滅ぼすだけがこの身の単一能。

 それ以外に無い。たったそれだけの在るがままの“ちから”。

 ……くだらぬ。

 思考遊戯に蹴りをつける。刈間ギンジ、貴様に手をこまねく時間はない。

 一刻も早く、かの娘を見付け出さねば。

 手掛かりは。


「か、刈間さん!」

「!」


 校門に差し掛かった時、背中に声が掛かった。

 振り返ればそこには男子生徒が一人、立っていた。

 余程に急いで来たのだろう。肩で息をし、顔に汗を浮かべている。

 いや、あるいはそれは、呼吸乱れ、汗滲むほどの焦燥で。


「はぁ、俺、はっ、俺、三叉さんさって言います……その、一ノ目の、一ノ目メイのことで、話、したくて」

「お前さん……」

「お願いだ。いや、お願いしますっ。一ノ目を助けてください!」


 その場で深く頭を下げる少年に、思わずエルと顔を見合わせた。


「頭上げな。とりあえず場所を移すか」











 駅前通りにある純喫茶『オデッセイ』に入る。テーブル席で向かい合い、少年は怖々とソファーに腰を下ろした。

 明るい髪色、今時の若者然とした出で立ち。顔立ちは薄いが、目立って悪い部分の無い小綺麗な造りをしている。女受けは良さそうだ。

 注文したコーヒーが来るのも待たず、少年は語り始めた。


「一ノ目とは、俺のバイト先の近くで偶々鉢合わせたんです」


 少年は深夜のバーでウエイターをしていたそうだ。無論未成年の、それも15歳の少年が深夜労働に勤しむなど違法であり、学校にも黙ってのことであろうが。

 後ろ暗さ。決め事を破っている自覚。そういうものを抱えて夜の街に身を置く。一ノ目メイもまた、それは同じだった。

 娘は夜、繁華街のクラブで働いていたという。客から指名を受ける本業の接客嬢、それが他の客に付いた際、場を繋ぐ役。所謂ヘルプとか。


 ────ぶっちゃけヤだけど、稼げるからさ


 ひどく疲れた顔で、それでも強かに歯を見せて少女は笑ったという。

 繁華街の路地裏で二人、仕事の愚痴を言い合う。そんな細やかな時間を少年と少女は共にした。

 裕福ではなかったそうだ。少年にせよ、少女にせよ。遊ぶ金欲しさではなく、必要な生活雑貨や文具に費やす為に。


「うち片親でさ。母さん病気で、あんまり働けないんだ。本当は俺がフルタイムで働きたいけど、高校は行けって……」

「……そうか」

「あ、いや、俺のことはいいんだ。一ノ目のとこは両方とも死んだって言ってた。今は姉さんと二人暮らしだって。だからって訳じゃないけど、なんか、他人事に思えなかった。一ノ目と話をしてる時、すごく安心した。共感できる相手ができたって……でも……ある時、突然」


 ────もう会わない


 深夜の逢瀬は突如終わりを告げた。誰あろう少女の口から。


「姉さんの様子がおかしい、姉さんを助けなきゃいけない……そう、言ってた。俺にっていうか、独り言みたいに、思い詰めた感じで」


 それが一月前のこと。その日を境に、少女の有り様は変容した。


「バイトの帰り道で一ノ目を見た。通りに停まった黒塗りの車に乗るところだった。すげぇヤバそうな異界人に取り囲まれてて。俺……声も掛けられなかった……びびって、足動かなくて、糞っ!」


 少年は自己嫌悪に顔を歪めた。

 太腿に拳を振り下ろす。何度も、何度も。


「助けたかった。なにか、してやりたかった。だから、FPを、一緒に、一緒なら、どうにかできると思ったから……そうしたら」


 ────同情かよ?


「ふられた……馬鹿みてぇ。下心見え見えだっつうの……結局、俺じゃなにも、なんの助けにもなれない。少なくとも一ノ目にとって俺は役立たずで、無力なガキだったんだ」


 歯を食い縛る音を聞く。無念を噛んで、少年は泣いた。

 コーヒーが二つテーブルに置かれる。怪訝そうにする店員に、少年は慌てて顔を隠した。

 湯気を立てる黒い水面。そこに映る男を見下ろす。

 無力、無能はどちらだ。この男と、この少年。一体、どちらだ。

 わかりきっている。

 水面に映った愚鈍な男が獰猛な笑みを湛えていた。無価値な憤怒を持て余し、目の前の子の無念が胸奥でひどく痛む。


「お前さんが救いだったのだろうな」

「え……?」

「その娘にとって、掛け替えのないほどに」


 誰が為に苦悩し、涙する幼子に笑みを送る。


「事情はわかった。肩入れさせてもらおう」

「! は、はい! お願いしますっ、お願いします!」

「能う限り全速で事に当たる。心配するなとは言わんが、あまり思い詰めるんじゃあねぇよ?」


 堅く、必死に頷く様をしてそれは無理な相談のようだ。


「最後に一つ。一ノ目メイが働いていたというクラブは何処か知っているか」

「はい。えっと……これです」


 三叉少年はブレザーの内ポケットからそれを取り出した。黒地に金の箔縁をあしらったマッチ箱。

 つるりとした表面に印字されていたのは。


「『ラヴィン・ハイヴ』」


 やはり、繋がった。








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