第21話
夜更けの暗い家路を行く。
盛り場の熱気は衰えを知らず、行き過ぎる店の灯りと乱痴気騒ぎが幻燈のようだ。現実とかいう寒々しいものを一時ばかり忘れてしまいそうな。陽炎を眺めるような、朧気さ。
魔と人とが在るこの御世の、ほんの一突きで崩れ去るだろう危うい均衡を知っている。大戦から七十余年、今やそんなものは無かったと世間も人々も
その脆く、平らかな
『ギンジ』
「おう、気付いてるよ」
愚にもつかない思考に烏が蹴りをつけてくれる。
それは警告であった。我々、いや己の背後を尾け回す存在を報せる。
レオンと店で別れてから延々と、この者は実に根気よくついてくる。親鳥を追い回す雛鳥のような健気ささえ覚えた。
尾行術のなんとも言えぬ拙さがまた一層にその印象を強めるのだ。
『先の店で鉢合わせた娘だ。目的は不明』
「おおかた、得体の知れぬ男の正体をどうにも知りたくなったのだろうよ。レオンめ、きちんと諭してやらなんだな」
『例の「ころにぃ」とか言う徒党の間者である可能性は?』
「ない、と断言はせんが公算は少なかろう」
「へっくち! っ……!!」
背後の電柱の影で可愛らしいくしゃみが響く。声の主は慌てふためいてその隠れ切らぬ身を必死に縮めた。
「少々間抜けが過ぎる」
『…………』
そういった間抜けを演ずる
つまり考えるだけ無駄だ。
歩調はそのまま路地に折れる。
当然、いや本来当然であってはならないのだが、背中に慌ただしい足音が縋る。見失うまい、そんな気概。
しかし、覗き込んだ路地の暗がりに男の姿はない。
「え!? ど、どこに」
よく通る声量が、この雑居ビルの屋上にまで届いた。
娘はきょろきょろと周りを見回し、程なく途方に暮れた様子で元来た道を取って返す。
そのしょげた略帽の頭に笑みを落として、空中の帰路を跳んだ。
扉の隙間から漏れ出る明かりに気付く。
室内に踏み入る。
「おかえりにゃさい!」
扉の開く物音を聞き取ったのだろう。娘はこちらに駆け寄って、己を出迎えた。
「ただいま」
「にへへ」
応えの文句にどうしてか、エルははにかんだ。照れ臭そうに俯いて、両手を後ろ腰に回してゆらゆらとその場で揺れる。
「なんだいなんだいニヤけた面ぁしやがって」
「にゃはは、やぁ……なんだか照れ臭いんスよぅ。おかえりって」
「まだ馴れねぇのか」
「にゃふぅ、だ、だってだって……家で誰かの帰り待ってるなんて、初めてで……」
「そんなものかねぇ」
「そーなんスよー。まったく兄貴は幼気な純情ってものがわかってないんすから」
「面目次第もねぇです」
恭しく頭を垂れてやると猫娘は御機嫌麗しく笑った。
奇縁からこうしてこの部屋に娘を招いて早数週間。
『いや物なさすぎッス。あんまりにも殺風景すぎッス。人間の住むとこじゃないッス』
暮らし始めて早々に、娘子から忌憚のない不平不満を遠慮なく上申されたもの。
我が家は兎角、家具が少ない。男の独り住まい、それも当座凌ぎの屋根に過ぎなかった場所。娘の言葉を大袈裟と笑えぬ有り様ではあった。
ならばと、趣向品的家具を取り扱う店に伴おうとしたところ、娘子は首を左右して言うのだ。
『お値段異常なあそこッスか? ダメダメお金勿体ないッス! にゃんの心配ご無用、実は穴場があるんス!』
穴場……例のミヤオ山近く、大型粗大ゴミの不法投棄場所に連れられ、使えそうな家具一式をえいこら運び出し、部屋に運び入れ終わったのが一昨日の話。
褒められたことではないが、土にも還らぬゴミとして腐らせるよりは幾分かマシだろう。
二人分の寝床にカーペット、花柄の妙に愛らしいカーテン。古臭い南国調の
ソファーの真正面に型落ちの大型テレビが鎮座し、その手前には木製テーブルと椅子が二脚。卓上の花瓶に本日は黄色いパンジーが活けられていた。
見事と言おうか、それとも呆れようか。ソファーに腰を沈め、すっかりと生活感に溢れた部屋を見渡す。
「随分様変わりしたもんだ」
「言っときますけど、これで最低限ッスよ。やっと人並に指が掛かった程度なんスから、安心しにゃいように」
「
こちらの内心を読み切って釘を刺してくる。
パーテーションの端から注がれる猫目は不信感に満ち溢れていた。
「勝手知ったるというか我が物顔というか。図々しくなったじゃあねぇか、うん?」
「このくらいの図太さがないとやってけないッスからね~。日ノ本ホームレス歴1年は伊達じゃないッスよ」
「偉ぶるんじゃねぇよ物悲しい」
「それに、猫は家に憑く生き物ッス。一度居座ったら巣作りに余念はないッスよ~。いくらこのエルちゃんが可愛いからって気安く招き入れてしまった兄貴の迂闊さを呪うことッスねぇ。にぇっへへへへ」
迫力のない邪悪さで娘が低く笑う。笑いながら、その小さな顔は再びパーテーションの向こうへ引っ込んだ。
悪ぶって、お道化て見せて、こちらに気を遣っているようにも見えるし、単に面白がっているだけのようにも見える。
まったくもって愛嬌に事欠かない奴だった。
点けっぱなしのテレビでは魔物向けの食料品のCMが流れていた。『味も香りも本国仕込み』『オード回復量当社比30%UP!』とかなんとか。
「あ~にき!」
「ん?」
呼ばわりに振り返れば、そこに。
黒猫の少女が立っていた。それも紺のブレザーを纏って。
それは現在この身がせっせと通わされている『マギケイブ学園』の指定制服である。
その場でくるりと一回転、プリーツスカートが花弁のように宙に咲く。
どうだと自信満々胸を張りながら、顔を朱に染めて娘は照れ笑う。
「気が早ぇな。学校は週が明けてからだぜ」
「い、いいじゃないッスか。よこーえんしゅーってやつッスよぅ。で、その……どうッスか。変じゃないッスか、アタシ……」
「そうさな、こいつぁまさしく」
「は、はい」
「馬子にも衣裳ってぇとこか」
「……」
「おや不満かぃ?」
「兄貴はやっぱ意地悪ッス」
「カッカッカッ」
じとじとした視線に見上げられ、思わず意地の悪い笑い方をしてしまう。
なおも笑い続ける己の傍に娘は屈み込んだ。その細い顎を己の膝の上に乗せ、両手でぐいぐいと腹を押された。
「すまんすまん。心配せずともよぉく似合ってるよ」
「……にゃふ」
黒髪を撫でてやると、擽ったそうに二つの耳がぴくりぴくりと震えた。喉をごろごろと鳴らす様は、なるほど仔猫に相違ない。
ほんの小さな、童の姿が────
「…………」
「? 兄貴?」
「どうでもよいが、皺になっちまうぞ」
「あっ、着替えてくるッス。あぁ兄貴! 兄貴はそこを動いちゃダメっスよ! 微動だに!」
「茶を一杯もらいてぇんだがねぇ」
「アタシが淹れてあげますから、ソファーをぬくめといてくださいッス」
「あんだそりゃ」
妙ちきな交換条件をとりあえず受諾し、娘子が戻るのを大人しく待つ。
何の気なしに眺めていたテレビ画面では、キャスターの男が近日のニュースを読み上げていた。
『今週9日、N県S市繁華街の路上で魔界人種による暴行傷害事件が発生。駆け付けた警察によって逮捕されました。逮捕されたのは単眼種成体女性(23)で、周囲の店や標識、歩道等を破壊。目撃証言では、それを制止しようとした通行人に襲い掛かったということです』
「……」
N県S市繁華街。映像に流れる路上はここから徒歩数分の場所にある。
なんとも物騒な話だ、エルにも注意するよう言い含めなければ。そのように暢気に聞き流すこともできた。
しかし。
『警察によると、容疑者は薬物を使用していた疑いがあり、県警は容疑者の血液から使用された薬物の特定を進めています』
聞き流しにはできぬ文言を、この耳孔は拾った。
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