第22話

 石造りの巨大な尖塔、そこに設えられた大時計を仰ぐ。

 マギケイブ学園の校舎は人界の近世、ないし中世欧州の城塞や聖堂のような姿をしている。ゴシックだかルネサンスだか、ともかくこの学園の学舎を設計した某はひたすら古風旧懐を演出したかったらしい。

 多種多様な人魔の登校風景の中を二人、連れ立って歩く。

 朝を迎え、部屋を出、校区までの電車の車中でさえはしゃぎ回っていた黒猫の娘子が、どうしたことか今は己の腕にしっかりと縋り付いて離れない。生徒が傍らを過る度にその体をびくつかせている。


「緊張するか?」

「す、するッス」

「カカッ、そうかい」

「にゅう……兄貴、なんかちょっと面白がってないッスか」

「うむ、面白くねぇと言やぁ嘘になるな」

「意地悪!」

「ははは!」


 苛立ち紛れに娘は己の腕に爪を立てた。

 痛い痛いすまぬすまぬ。笑声混じりの謝罪など娘子は無論のこと聞く耳を持たなかった。


「この学校はそう悪いところじゃあねぇさ。級友の者共は皆やたらに愉快だしな。入って三月程度の己が大丈夫なんだ、お前さんならすぐに馴染む」

「そ、そういうもんッスかね……」

「ああそうだとも。それでもまだ不安な内は、そうさな、いつでもこっちのクラスに遊びに来りゃいい。どうせ同じガッコの中なんだからよ」

「……はい」


 小さな、それは小さな手が己の手を握る。子供らしい体温、迷い子のような必死さが掌に伝う。

 握り返して、努めて軽薄に笑んでやると、娘は釣られて薄く笑った。

 それを愛らしいなどと言った日には、また爪を立てられそうだ。

 また一歩、娘子の手を引いて進み出ようとした、その時。

 背後より気配が近寄る。それは迷いなく我らに迫り、疾風の敏速さで周囲を

 紫の蛇体である。陽光をぬらりと照り返す滑らかな質感。その表皮下では柔軟にして強靭な筋繊維が幾重にも束を作り、恐るべき剛力を生む。人の身などは、紙屑を握り潰すより容易に圧壊できるだろう。

 ラミアの女生徒だった。己の右の上背から美しい顔が覗き込んでくる。鱗よりも淡い藤色の髪がはらり、まさしく藤の花めいて肩に垂れ落ちた。


「はぁい、刈間くん」

「おう、おはようさん。確か……ミディーナだったな」

「あら嬉しい。クラスが違うのに覚えててくれたんだ」

「ああ、なんせそちらさんは実に目を惹く容姿をされておいでだ」

「ふふふ、褒められてる、と思ってもいいのかしら」

「無論だとも、何か御用かな別嬪さん」

「お上手……」


 妖艶に笑み、囁いて、赤い唇の合間から二股の舌がもたげた。触れるか触れぬか絶妙の間合で、女生は己の顔の産毛をちろりと舐った。

 ラミアなりの挨拶、とでも思えばよいのか。

 ふとした時、ミディーナは己の傍らで凝固する娘子に気が付いた。

 にたり。そうして今度は実に意地の悪そうな笑みを湛え。


「あらあらあら、もしかして刈間くんのお相手かしら。ニホンの化猫モンスターキャット? それともケット・シー?」

「よ、妖精種の方ッス。エルって言いまッス。よろしくお願い……」

「エルちゃん! ふぅんそうなんだぁ。んん可愛いわねぇ。ホント……食べちゃいたいくらい」

「ひょえぇっ!?」


 蛇の女子おなごは熱く吐息して囁く。仔猫は背中に氷柱を差し込まれたかのように震え上がると、より一層己に縋り付いた。

 へたりと垂れ下がる耳、その頭に手を添える。


「そう露骨に脅かさんでくれ。馴れぬところに来てただでさえ身を縮めておるのだ」

「あらら……ごめんなさい。ちょ~っとふざけただけなのよ。でも……ちょっとした厭味でもあるのよ? 貴方への」

「あん?」

「だって、刈間くんも結局この子みたいな小さくて可愛い異界種が好みなんでしょう? 人間って好きよねぇ、特にけだものが人化したタイプとか。酷いわぁ、被毛は良くても鱗持ちはダメなんだって人間、多いじゃない」

「カカッ、まあ犬だ猫だなんてなぁ元来が人間と生活を共にしてきた動物だ。それこそ馴れ、というやつなのだろうよ」

「依怙贔屓って良くないと思うわ」

「俺ぁその鱗も美しいと思うがねぇ」

「まあ……」


 吐息のように囁くや否や、仔猫と己、二人を取り巻く蜷局とぐろが一巻き分狭まった。

 赤い舌先が耳元に這う。


「FP(フォーリナーズ・パートナーシップ)の申請はもう済ませてしまったのかしら」

「おぉもうそんな時期だったかい。すっかり忘れっちまってたなぁ。いやはやどうも筆不精な性質でいけねぇ」

「ふふ、よければしましょうか? でも、そう、そうなんだぁ。じゃあ……私にもチャンスはあるのね。あぁ勿論、ひとり目だなんて贅沢は言わないわ。その子の後でも、他の娘の後でも……もし、お望みなら」


 唇が寄り、声が甘く耳孔を揺らす。


「先に体の相性から、確かめてみましょうか……?」


 舌よりもなお赤い目に爛と火が燈る。情熱的な、捕食者のような。

 種の存続に対する積極性、いやさ攻撃性において魔界種の雌性おなごはそれこそ人後に落ちぬ。この色香を前にしては、人種のか弱い男風情など一溜りもあるまい。

 さて、我が身とてそのか弱い人種の男に相違ない。世辞にしても面と向かって憎からずと言われて悪い気はせんが、如何せん己は。この幼子にどう返事をしたものかと半瞬ばかり逡巡する。

 一種凶暴な妖美の微笑に笑みを返した、その時。

 突如、影は舞い降りた。


「ミぃディーナぁぁああ!!」

「あら」


 蒼い羽毛を飛び散らせながら、顔を真っ赤にしたハーピーの娘が地に降り立つ。


「おはようミリー。遅かったじゃない」

「まるで待ってたみたいな言い草ですけどね! こ、こんな、往来の真ん中で! え、えろ、エロいことしようとしたでしょ!?」

「えぇ~なぁに~? エロいことってぇ~? 具体的にどんな~? ちゃんと言ってくれないとミディーナわかんなーい」

「はぁ!? だ、だから今」

「どんなこと想像したのぉ? ほら、刈間くんにも教えてあげようよぉ」

「ひぅっ、ち、ちがっ、かるま、違うから!!」

「おうおうわかったわかった。ミリーはいい子だもんな。大丈夫、ちゃぁんとわかっておるよ。だから、な? 落ち着きな」

「あー、やっぱり依怙贔屓~。鳥獣ハーピーだってエッチなこと好きだもんね~?」

「し、知らないってばぁ……!」

「そろそろしつけぇぞミディーナ」

「はーい、ごめんなさぁい」


 反省の色は微塵もないが、ラミアの娘は蜷局を解いて素直に引き下がった。


「こうして引き留めてあげたんだもの。役得くらいいいでしょ。そもそもミリーが自分から会いに行けば済むことじゃない」

「うっ、だってぇ……」

「ほら」


 ニ、三言の耳打ちを終えて、ミリーが背を押されて己の目前に立つ。

 娘はその両翼の先をもじもじと合わせながらひたすら視線を泳がせた。

 途端、ミディーナが溜息を吐いた。


「この前の、ミヤオ山の事故、あったでしょう。そのことで話したいんですって」

「あれか。いやそうか。あれにミリーも巻き込まれちまったんだってな。可哀想に、まったくとんだ災難だ……」


 白々しくならぬ程度にはこの口舌は働いた。

 あの日、表向きには事故として処理されたかの事変。その山麓の別荘でメイヤノイテにより催された会食の場に、この娘は居合わせてしまったのだ。


「怪我が無くて、なによりだ」


 心からそう思う。

 厚顔に、安堵を噛んでいる。

 結局のところは己が手落ち。迅速な解決を果たせなかったゆえの、災禍。

 この娘の無事を喜ぶ権利が、果たして己にあるだろうか。

 そんな下らぬことを考えた。


「……」

「違うの。あ、そ、その、心配かけてごめん。心配してくれて、すごく、嬉しい……けどその! ちがくて! 誤解を解きたくて、私! 私があそこに居たのは別に人間の男の子との出会いが欲しかったとかじゃなくてただメイヤにアドバイスを……か、か、刈間と、貴方ともっと!────」


 早口に捲し立てようとした娘は、不意に視線を傍らに注いで停止した。

 傍らのエルに。


「え、っと?」

「あ、ど、どもでス」

「おぉ、そうだ。紹介しよう。この娘は今己のところで面倒を見ておる子でな。ミリーも宜しくして」

「あ、兄貴」

「ん?」


 裾を引かれてエルを見下ろす。娘は首を左右してからミリーを見た。

 ミリーは、愕然と己とエルを見比べて、わなわなと震え上がっていた。


「ど」

「ど?」

「ど、どど、ど、同棲ッ!?」

「はぁ」


 赤く赤く茹で上がった蒼いハーピーの姿に、ラミアの娘は深々と溜息を落とした。

 両翼を広げてミリーは叫ぶ。


「ふぎゅ、ふみゅ、ふぐぅ……! 刈間のバカ! ばぁか! この浮気者っ! ばぁかぁああ!!」


 声高々に罵倒しながら、それこそ疾風となって空に飛び上がる。その蒼い軌跡は真っ直ぐに校舎屋上の飛行登校者用玄関に突っ込んでいった。


「もぉ子供なんだから」

「んーなにーミリーふられたの?」

「ありゃりゃミリーってばまーた失恋か」

「えー! ボク今回は成就に食券四枚賭けしてたのにー!」

「さっさと食べちゃえばいいのにね」

「無理無理あの子処女だよ? あとめちゃ純情だもん」

「そりゃ無理だよねー。あはははははは」


 周囲で聞き耳を立てていた種々の人魔が、なにやら不届きなことを口にしながら去っていく。

 己はともかく、体よく肴にされた娘子が憐れだった。


「兄貴って意外とにぶちんだったんスね。あのハーピーさん可哀想ッスよ」

「まったくだ。己という奴ぁ愚鈍でいけねぇ」


 エルの実に忌憚のない言葉が耳に痛い。


「後で詫びに行くとしよう」

「ちゃんと誠心誠意謝んなきゃダメッスからね。乙女心は繊細なんスから」

「言うねぇ娘っ子」


 尤もらしいことを言う娘の鼻を小突く。馬鹿話で緊張も多少解れたようだ。

 ミリーを追って先を行くミディーナを見送る。

 大時計の針はそろそろ始業時間に迫っていた。

 その時、仰ぎ見た校舎の窓辺に。


『……』


 白銀の少女を見た。大天使の名を冠する異界人。

 邪眼の主は、己と、己の傍らの娘子を見下ろしていた。澄んだ瞳、不吉なほどに美麗な顔が。

 柔く笑みを湛えていた。


「覗き屋め」

「?」

「いや、なんでもない。さあさあこれから職員室で挨拶だ。行儀よくな?」

「うひ、ま、また緊張してきたッス」







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