二章 魔蟲蠢動

第19話

 その空間は、路地をさらに奥へ進んだ半地下にあった。

 看板も掲げぬバー。それもその筈、営業あきないなどしていない。少なくとも真っ当な酒屋としての機能をここが果たしていないことは明白である。

 にも拘らず今夜、ここにはそこそこの客入りがあった。店内には数人の人魔が居合わせていた。実に運の悪いこと。

 彼あるいは彼女ないしそのどちらでもない誰か等は、一様に倒れたテーブルやバーカウンターの裏に逃げ込み身を縮めている。

 突如として湧き起こった厄介事、暴力沙汰の終わりを震えながら心待ちにして。

 その期待に応えてやるような心算でもないが。


「シッ」


 踏み込み一震。地を砕く思いで進突する。

 身体の重心が前へ、質量相当の移動力の発生、それを掴む。

 掴み、握り固め、拳と共に打ち出す。

 対手の体躯、その中心へ。水月へと打撃を捻り込む。


「────ぎゃふ」


 なかなかに体格の良いその男は、その大柄をくの字に折って鳩尾を押さえ、堪らず床に吐瀉物を撒き散らした。

 嘔吐の原因はなにもこの拳の所為ばかりではない。

 男は強かに酔っていた。おそらくは酒──ではないものに、酔い溺れ、支配されていた。


「がぁあああ!!」


 背後より響く咆哮が雑居ビルの鉄筋さえ震撼させる。砲弾さながらの殺気を半身に躱す。

 鋭い二つの角が、空を突き退けて横合いをすり抜ける。闘牛の如き女。いやさ、猛牛ムルシアン種の半獣人。

 真っ当な人間がこの突進を食らえば命はない。

 猪突に急停止など叶わず、牛人の頭突きは支柱にぶつかり、突き刺さり、砕き散らした。


「オオオオオオオオンッ!!」


 人の言葉すら忘れたか。獣の咆哮を上げて黒毛の巨体が再度こちらに向かってくる。

 理性の欠片もそこにはない。猛る本能にあかせ、その血走った目に映る存在を、この身ならずとも、あらゆるものを突き殺すことだけに脳髄を支配された動き。

 猛り、そして狂っていた。

 連れ合いの男など比べるべくもない巨体。強靭な筋骨とそれに見合うだけの質量。生体オード量とて並の獣人を凌ぐだろう。一生物個体として、人を超えた性能を有している。

 それをしてまたさらに一段底上げするものがあった。狂暴なる膂力を凶悪に捻じ曲げる異物、怪力ちからを、その体内に認めた。

 迫り来る二角。此度それを躱さず、その鉾先を待ち受ける。

 掴み、止める。


「ヴァッ!?」

「ッッ! ずぁぁああああああ!!」


 掴んだ角ごと、突進の勢いそのままに持ち上げ、大きく仰け反る。

 地面に投げ落とす。


「ギャッ!?」


 床面の材質が鉱石や金属でないことを差し引いても、その体重分の衝撃は存分に筋骨を軋ませたことだろう。

 牛人は仰臥したまま動けずにいる。それが再起する前に、掌をその腹に押し当てる。

 腹の奥底に落ちた異物へと手掌より神気を放った。


「げぇあ」


 あまり品の宜しくないを上げて間もなく、女は口腔から反吐を吹いた。噴水か散水機のような景気の良さ。現と目の当たりにするには頗る胸に悪い光景である。

 うっかり吐瀉物を浴びぬようその場から跳び退く。

 嘔吐の勢いが収まるのを見計らい、女を仰向けから側臥に。回復体位を取らせた。


「“香気”を追って来てみりゃ、なんとも酷ぇ臭いだ」


 今宵此度とて我々の目的は変わらない。

 殺生石の気配を追って、人魔入り乱れるN県S市内を東奔西走。アメノフトダマから寄越された正占ますらを手掛かりに、どうにかこうにかこの店を探り当てた。

 うらぶれた地下の酒場、そこに降り立ったその時。突如、この者達が襲い掛かってきたのだ。

 その身の内に殺生石の微香を宿して。


「どうだい、石はともかく残り滓くれぇはあるか」

『……』


 隠行を解いて薄闇から出現した烏は、床面に広がった吐瀉物を見下ろし、珍しくその変化に乏しい顔を顰めた。

 不快感は大いに察するが。


『……いいや、完全に霧散している。残滓すらも見えぬ』

「やはりか。店に入るまで存在を気取れぬほどだ」

『両名にオードの強化と肉体能力の向上を認む。この微量ではほんの短時間持続させるのが精々だろう』

「……益々わからんな」


 一体何処から湧いて出たか。

 殺生石の神出鬼没さは身に染みて知るところであるが、これ程までに現界は過去類を見ない。

 十中八九、石か石の残滓を何処からか手に入れたこの者らがそれを使用し、この狂乱へと至ったのだろうが。


『ギンジ』

「ん?」


 言語による迂遠な問答など必要なかった。その声ならぬ念の呼ばわりに滲むは警告の色。

 店の戸口が弾かれるように開け放たれる。それは己がカウンターの裏に身を潜めたのとほぼ同時のことだった。


「警察だ! 全員その場を動くな!」


 ドスの利いた大声が半地下に響き渡る。それはまるで戦場における武者名乗りに似て堂々と、敵を射竦めるだけの覇気に満ちていた。

 なによりも警察の二字が、この場の空気を凍り付かせた。

 テーブルやソファーの影に隠れる者達に、明らかな怯えと焦りを見て取る。


「21時7分! これより強制捜査に入ります!」

「店長は!? 店長はどこだ!?」

「おいそこ! 何も触るな!」

「ひぃ」

「な、なんだよ」

「私、かっ、関係ないから!!」


 どかどかと乱暴な足音が十人単位で店内に入って来る。今ほど抵抗を試みてしまった幾人かは公務執行妨害辺りで現行犯御用となるだろう。

 どうやら妙な場面に鉢合わせてしまったようだ。警察の店舗に対する強制捜査。果たして何の名目やら知れぬが。


『どうする』

「三十六計」


 こちらの所用とあちらの公用。邪魔立てする気はなし、かといって巻き込まれるのは如何にも不都合だ。

 逃げるに如かず。

 問題は方法だ。唯一の出入り口は大挙した捜査官達によって塞がれてしまった。

 無論、神甲の能力を使えば逃走方法は幾らでも都合できる。軽々しく……という非難に満ちた烏の視線に気付かぬふりさえすれば。

 然すれば実行あるのみ。そう思い切ろうとして。


「お?」


 そこでふと、視線の隅を過るものがあった。

 カウンターの端にもう一人、己同様に隠れ潜む者がいたのだ。痩せぎすで髪の長い男だ。不健康そうな面をさらに青くして、男は這うように店の奥へ行く。

 奥には酒瓶の棚があり、その下段の引き戸を開いて、なんと男はその中に入っていった。


「ほほう」


 そそくさと後を追い、戸棚の中を覗く。棚の裏の壁をぶち抜いた隠し通路だった。暗い廊下を2メートルばかり進んだ先で、痩せた背中が消える。

 それに倣って戸棚を潜り、奥へ。

 そこは六畳ほどの狭い部屋だった。コンクリート打ちっぱなしの寒々しい空間。天井付近の明かり窓から街灯の光が朧に降り注いでいた。その下に脚立が立て掛けてある。

 そんな無味乾燥な隠し部屋でたった一つだけ鎮座する黒い金庫。その前に、痩せ枯れた男の背中が蹲っていた。

 金庫の扉を開き、その中身を男は手にしたバッグに詰めていた。実に必死な様子だ。背後に立った己の存在に気が付かぬほど。

 男の手元を見下ろして、一人納得を覚える。輪ゴムで巻かれた紙幣の束。複数台の携帯端末。そして、ビニールで包装された白い粉末。

 それが白糖でないことだけは確かだ。


「なるほど」

「!?」


 声を発したことで、男はようやくこちらの存在を認めた。跳ねるように立ち上がって振り返る。驚愕と恐怖の同居する頬のこけた面。


「お、お前、さっきの」

「荷造り中に申し訳ねぇな。丁度いい逃げ道があったんで、使わせてもらうぜ。構わんだろう」

「ふ、ふざけんな!!」


 困惑を怒りで上書きし、男は吠えた。そうしてポケットからナイフを抜き、刃先をこちらへ向けた。

 諸刃には幾何学の紋様が刻まれ、それが薄く輝いている。おそらくは魔術による機能付与エンチャント。効果は麻痺か昏睡か。元来は非力を補う為の特殊武装も、こうして不逞の輩が良からぬ目的に悪用する。

 皮肉な話だ。だがなにもその皮肉を成就させてやることもない。

 突き込まれる刃の尖端、それを握る手、伸びる腕。それらを紙一重に躱し、擦れ違い様に男の腹へ拳を叩き込んだ。


「うげぇあッ!?」


 涎を垂らして崩れ落ちる男を床に転がす。硬質な音を立てて床面をナイフが滑った。他の雑多な物品同様無造作にそこらを散らばる。

 白い粉。果たして尋常の、あるいは人界の代物であるかもわからぬそれ。


「……薬か」

『まさか、石を』

「まだわからん」


 早合点は禁物だ。だが可能性として熟慮する必要があった。その為の情報を集めねばならない。

 差し当たり目下に転がるものを、と言いたいところだが。悠長に家捜しをしている時間はなかった。

 直に表の警官達がここを見付け、この男を処理するだろう。金庫の中身と共に。

 包装された小袋を一つ摘み上げ、懐へ仕舞う。


「一服もらってくぜ」


 この烏の相棒にかかれば薬剤の成分解析くらいは訳もない。しかし、こいつは望み薄だ。

 ……を薬に加工などして、ただで済む筈がない。よしんば作ることができ、売買までされているとしても、出回っている量は微々たるものだろう。こんな木っ端な売人風情が多量を抱えているとも思えぬ。

 明かり窓を開き、地上へ這い出す。

 幸いに人影の見えない路地へと立つ。隣接する別のビルの地下を通り抜けて一本裏側の通りに出たらしい。

 酒と煙草の臭いから解放され、冷えた外気が実に心地よい。

 表の喧騒に素知らぬ風で、散歩の途中を装ってその場を離れんと歩き出した。歩き出そうとしたのだ、が。


「そこのお前! 止まりなさい!」

「……」


 背中を叩く声は紛れもなく己を呼び止めるもの。

 何処にでも目端の利く者というのは居る。一見して袋小路の半地下のバーに、抜け道の存在を懸念して裏通りに張り込む。考えとしては単純だが、その発想へと現に思い至り即時行動に移るとは。即断即決は間違いなく有能の一要件だ。

 この儀この場において、この身にとっては生憎と迷惑千万であるが。


「両手を上げて、ゆっくりとこっちを向いて!」


 言われた通りに振り返る。通りの先に立っていたのは、パンツスーツ姿の若い女性警官だった。手帳の提示義務を律儀に守り、顔写真付きの身分証明がちらりと見える。

 女のもう片方の手には鍔ありの黒い警棒が握られている。不審な動きを見せたならそれで打ち据えてくれようという心積もりなのだろう。

 それは御免被る。

 とっとと逃げてしまうが吉か。


「赤崎君、裏口は見付かったのか」

「! ま、真柴警視!? 下がってください! 参考人を一人確保するところで」


 通りの向こうからまた一人、長身の男が現れた。

 かっちりとしたダークグレーのスーツ、銀縁の眼鏡、そして夜闇の中でさえ光るような純銀の髪。冗談のような美しい顔をしたその男は、己を認めてその目を見開いた。


「刈間」

「あぁ? レオン坊じゃねぇか」

「その呼び方はやめろ!」


 旧知のインキュバスが、美貌を歪めてビル間に叫んだ。









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