第18話
夜天に佇む者がある。浮遊か飛翔か、二対四枚の純白の翼を持ちながら
異類なるもの、天の御使いを僭称する異界人種。
大天使サリエル、その
少女は、笑った。
華やぐように可憐に笑った。頬を朱に染め、うっとりと蕩けて。
「ギンジ、やっぱり君はとても素敵だ」
眼下には想い人一人。
銀の鎧を身に纏い、悪を滅する戦人。
「ふふ、あぁわかってるよ。君の本質はその力じゃない。そんなものは添え物さ。君の真価はその覚悟。武力を振るうに足る魂」
異郷、異教の神威はなるほど、絶大の力を持つ。あれを用いて為せぬことなどない。偉業であろうと、覇業であろうと。
「君は傲らず、誇らず、それをただの道具として使うんだね。他者救済の為のただの装置に身をやつす。慈悲の人。慈愛の御方。やはり、やはり、貴方こそが」
純白の美貌が笑む。
「人界の救い主に相応しい……」
悦びを込めて、少女は頷く。両の手を握り合わせ、祝福を唱う。
少年の方はまあいい。しかし、ソレを斯くも丁重に大切に扱うのはいただけない。
「そんな汚物、石塊と同じく砕いてしまえばよかったのに」
吐き捨てる。唾棄する。その慈悲に恥を知らず浴する悪魔輩の女。
忌々しい。本当に。
「所詮、淫魔風情の想念ではこの程度か。役立たずめ。捨て駒さえ満足に全うできない。殺生石の妖気隠蔽の為にパンドラの箱の
再び“穴”は穿たれず、彼の救済という使命に戦勝の花一輪すら添えられず。
潰しが利くからと、悪魔など使ったのがいけなかった。人間の少年と生涯を共にしようなどと身の程を弁えぬ大望を抱いた愚物に、彼のその御手で鉄槌を下して欲しかったが……。
「仕方ないなぁ、もう。まったく貴方は本当に……優しい人なんだから」
微笑して、両腕を抱く。この腕に、きっと抱いてみせる。きっと貴方から、抱かれに来てくれるだろう。
「いずれ人界に巣食う魔のモノ共を総滅し、我ら天の御使いが人々を導く。その為の劇薬、殺生石……ふふふ、なんて都合の好い代物だろう。穢らわしい魔の群を、同じ穢れの塊で掃除できるなんて!」
清なるかな。聖なるかな。
そう遠くない未来。この混沌に交じり澱みあった歪な世界の救済が────“浄界”為った曉には。
「その時、貴方は最初の神の使徒となるのです。そしてサリエルはいつ何時も貴方のお側に。救世主たる貴方のお側におります。だから、ねぇ、ギンジ……」
────次は何を捧げればいい?
暗く昏く叢の奥底に。夜闇に浸る森の奥間に。
それらは潜んでいた。其処彼処に、無数に、その眼を爛々と暗中に浮かべ、ただ一つを見て、ただ一人を、銀の鎧のその男を見詰めていた。
──神甲
──日ノ本の守護者
──銀の鎧! 銀の鎧! 銀の鎧ィ! イヒヒヒャハハハハ!
──不破の盾、不動なる者
──我らの敵だ
──あまねく悪しきモノ共の敵
──あぁ愛しき怨敵よ
『「怪滅神甲。貴様はほとほと変わらぬ男よ」』
鬱蒼とした木陰の深み、一層の暗がりに佇む少女が囁く。その鈴の音のような声に重なる厳を擦り合わせるかの悍ましい唸り。
猫妖精の少女、少女のようなモノ。
『「あの頃から、ちらとも変わらぬ。寸毫とて衰えぬ」』
その憤怒。
芳しい憎悪。
『「貴様の本性はそれだ。それだけだ」』
救済? そんなものは天使共の戯言よ。
日ノ本の神々に与えられた神威、与えられた使命、それすらその有り様の繕いに過ぎぬ。
『「憎いのだろう。怪しき力が、悪なる力が、邪なる力が、憎くて憎くてしようがないのだろう」』
それでよい。それでよいのだ。
お為ごかしの善行も、大義も捨ててしまえ。つまらぬ欺瞞は犬に食わせよ。
愉しいことが待っている。絶ゆることなき法悦が、我らを待っている。
『「あの時の続きをしよう。あの闘争を、麗しの戦争を、決戦の、その続きをしよう」』
魔界と人界の狭間。次元境界。物質とイデアの途上、
数千、数万の魔の化生を向こうに奴は闘い闘い闘った。狂った光景をそこに見た。ただの一騎、鎧一領が、嵐となって己以外の全てを虐殺する。戮殺する。あの異様、かの異常。
思い出すだに、心が踊る。
『「貴様の武力をまた浴びたい。貴様の造り出す
再び魔界と人界を繋ぐ穴を穿つ。そしてその穴を出発に七十年前の再来を、再融界現象を引き起こす! ……無論、これの実現が最上の成り行き。だが、そう高望みはすまい。幸いに、こちらの掌中にはもう一枚、札がある。
殺生石。
東洋の
『「無為に使い潰すだけの愚かな天使共とは違う。あれにはもっと、もっと、有効な活用法があるのだから」』
散逸した殺生石を縒り集め、一つにする。ばらばらに砕かれた妖しき力を復元する。
さすればどうなる?
さすれば────
『「かの女狐を呼び戻してやろう」』
怨敵を、憎き怪力の権化を、貴様の運命を。
白面金毛九尾は、貴様の虚飾を剥ぎ取るに最適の劇薬となろう。
『「憎め、怪滅神甲。怪を生む我らを憎み、その総力総身総魂の限りを尽くして我らを殺すがいい」』
血みどろの闘争劇を演じよう。
『「それまでこのバエルの半身を預けたぞ。慰みに使うか、それとも嬲りものにするか。好きなように弄べ」』
少女の形をしたナニかは、その身をくねらせ、自身を抱いた。
小振りな乳房を揉みしだき、その先端の、ややも固くなり始めた突起を指先で捏ね回す。
股の合間に滑らせた指が、下着越しに肉を割り、奥の柔襞を掻き分ける。
闇間に、粘った水音が響いた。
『「ふ、どうやらこの娘もそれがいいと言っている。体は実に正直だ……」』
秘部から取り出した指は濡れそぼり、指と指に淫らな糸の橋を渡した。
その昂りは、少女の恋心に端を発する肉欲か、それとも。
悪徳の大王バエル。
その束の間の気紛れか。極東に見付けた武の化身、“神”を使う人間への、郷愁。
あるいはこれもまた、恋情よ。
『「楽しみだ。とても、とても楽しみだ」』
──待ち遠しい
──早く。早く。早く
──殺し合おう! ヒヒッ、ヒヒャハハッ! 殺し、殺、殺してぇ! ゲヒヒヒ!
──その拳で打て。その脚で踏みつけよ
──この爪で、お前の背中を掻き毟ってやる
──熱く、熱く抱擁してやろう
愛しき、我が怨敵よ。
南部町ミヤオ山にて発生した集団の昏倒、昏睡現象は公には事故として報じられている。『別荘地に訪れた客は皆、山中に偶然現下した“ヒダル神”に居合わせ、激しい飢餓、倦怠、麻痺に陥ってしまったのだ』と。
救急車が大挙して被“神災”者を搬送、外特含む警察機構と対怪異調伏特殊技能班による山狩りが行われ、現場山麓周辺は一時騒然となった。
被神災者の中に、事故発生当時の様子を克明に記憶している者はいない。
ゆえに、山が抉れ、崩れ、
表向きの事情だけを知らされた所轄捜査員らは随分苦労したことだろう。事情を探ろうにも聴取は得られず、唯一の物証らしきものはこの拳が砕いてしまったのだから。
そして裏に通ずる上層部、外特の極一部の人間は、此度の顛末を上政所から何くれとなく言い含められていよう。
そうして、事後処理だけを体よく押し付けられる。前線に立ち職務に対する者達の矜持など、上役共は知ろうとも思うまい。果たしていつまでこの横車は腹に据え置いてもらえるやら。
横車の取手の一つを握る己には、実に笑えぬ皮肉であった。
市内中央病院。入院用病棟の特別個室。
病室というよりホテルのスイートと表した方がしっくりと嵌る。二十畳ばかりの広い室内の奥、巨大な二枚ガラスの窓辺にはクイーンサイズのベッドが設えてある。
その上で身を起こす少女、そしてその傍らに寄り添う少年。病室に踏み入ったこちらを認めて、少年が椅子から立ち上がった。
「刈間くん」
「よう。元気かい」
御子神ケンヤとメイヤノイテ・F・マスティマ。
事態が一旦の収拾迎え、彼らの処遇もまた決した。
「あの石は、気付いたらそこにあったんです。私の部屋の引き出しに、まるで初めから仕舞われてたみたいに……こんな馬鹿みたいな話、信じてもらえないと思いますけど……」
「いいや。その馬鹿げた話こそが、あの石の災いなのだ」
空間も、物理的障壁も、あれの前には無意味。なんの前触れも兆しも表すことなくこの世に現れる禍。異物。怪力。それが殺生石。性質の悪い天象の如きモノ。
メイヤノイテに特殊な背後関係はなく、此度の暴走も石の力が作用した精神錯乱に依るところが大きい。処遇などと、偉そうに言えたものではない。実際のところ、この少女に殺生石に関わる情報源としての価値を見出せないと知った上役連中は早々にこの子を見限った。
手厚く布かれた情報統制の下、この娘の為した所業はもはや表沙汰になることはない。法はおろか、事の真相を知らぬ被害者達とて無論のこと。
裁く者はない。
「罪を問う者も、科を量る者も、糺す者とてもはやない」
娘は永劫、贖罪の機会を失ったのだ。
「…………私は」
「辛く、苦しかろう。償えぬ罪ほど重いものはない」
娘は頭を振った。己の言葉に、一抹の慰めでも含まれていたやもしれぬ。
それを拒むように。
「たくさんの人を傷付けた。私の、願いの為に……他の誰かの願いを踏み付けにした……私は……!」
「背負って行け」
「…………っ! く、ぅ、ぁ……はい……」
「己ら二人で」
少女の膝の上、固く握り合わされた両手。その上に、重なるもう一つの手。
少女は傍らの少年を見、少年は少女の瞳に応ずる。
「はい……忘れません。私は、私達だけは絶対に……この罪を」
二人の子らは己を見返し、頷いた。
肩を竦め、応接用のやたらに柔らかなソファを立つ。
今更確認の必要もないことだったが、それはしっかりと見ることができた。少女はもう怪力に迷うことはない。そして、彼女には連れ合い、伴い生きるを誓った者がある。
「御母君はえらく厳しい御人と聞くが」
「はい……」
「説得します。時間を掛けて、何度でも。僕はもう絶対に諦めません」
「左様で」
幼い面差しに二つ、決意の炎を見た。愛する者との生涯を夢見て、それを夢で終わらせぬ覚悟を見た。
今にも燃え上がりそうな両人に一吹き笑う。まったく熱い熱い。熱くて堪らないので、野暮は早々に退散するとしよう。
踵を返して部屋を後にする。そのまま後ろ手に扉を閉める寸前。
「刈間くん!」
「ん」
「ありがとう! 本当にっ、ありがとう……!」
振り返る愛想とてなく、片手をひらつかせてその場を去る。
別段、珍しくもない。異種の
級友が夫婦になった、ただそれだけ、ただの目出度いお話で。
病室から生っ白い廊下に出る。ワックスで磨き抜かれた床面。己の歩みの先に、ふと。
「おや」
白い廊下の中で、その黒い出で立ちはひどく浮き彫りである。際立って目立つ。目を引く。
視神経を直接手繰り寄せられるかの如き、蠱惑。
かつかつと踵の高い靴を打ち鳴らし、その女怪は眼前に立った。
黒いジャケット、黒いロングスカート、レースのハイネックと露出は少ない。
だというのに一目でわかる。なんとも起伏の激しい体だった。乳房と臀部の豊かさに比して、腹回りの細さはまるで砂時計のシルエット。
淡い桃色の長い髪。即頭部から歪曲した角が出ている。
顔立ちは、なるほどかの娘に、メイヤノイテによく似ている。姉妹と言っても差し支えないほど。
「素顔は初めて見る。お前が神甲の担い手か」
「まあ、そんなようなものだ」
マスティマ家現当主。大魔族にして淫魔の女王。そしてメイヤの御母堂である。
「……愚娘が世話になったそうね」
「さて。世話を焼いたなぁ己ではない」
「?」
「命懸けで好いた女を救おうとした男が、今そこの病室にいる。礼を言いてぇんならそっちに行きな」
「…………」
鉄面の無表情。しかしそんな無機質な顔にも隠しきれぬ艶気を帯びていた。
「……貴族は貴族として、市井の者は市井の中に在って、それぞれに相応の幸福を得られる。軽率にこの分を跨げば必ず歪を生むわ。傷付いて痛い思いをすることになる。どちらもね」
「そいつぁあんたの経験かい」
「…………」
精緻な石膏像と化して、母君は暫時押し黙った。
その紅い瞳の奥底に、何を映し、何を見るのか。
決まっている。
「御息女は実にお強い。胆が据わっておられる。その姫君に見初められたあの若者も」
「……」
「今少し、信じてやっちゃどうだい」
「……まだ十五よ。あの娘は。生まれたばかり。殻も取れていない雛鳥なのよ……」
「親が四六時中見張らずとも子は育つものよ。時にこちらが度肝抜かれるくれぇにな」
ふ、と。意外そうな目が己を見上げた。
不安に揺れる瞳。子育てに悩み、答えを探しあぐねる、それは紛れもない母の貌。
娘の身を案じ、魔界の貴族と言う立場すら忘れ、矢も楯もたまらず人界へ飛んできた。
今更、推し量るまでもない。この者とても親なのだ。
「そら、行ってやりな」
「……」
今一度こちらを見上げる視線に笑みを返す。
そうして一人の母が、やや強張った足取りで病室の扉へ向かって行く。
その背中に一つの決心を負って。
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