第16話

 眼下に広がる夕暮れの街並みを不遜にも跨ぎ越えて、空を翔る。駆ける。

 飛翔と呼ばわるには荒々しく、固めた風を解き放つ反動推進による鋭角軌道。

 しかし、そのお蔭を以て目的地と思しい山麓を今程、既に望んでいた。


『極めて広範囲の結界術行使を認む』

「山ごと覆い隠したか。邪魔者に嘴挟まれるのが余程お嫌らしい」

「っ! ひ、ぐ、ひぃぃい!!?」


 小脇に抱えた少年の悲鳴に一吹き笑う。

 轟轟と鼓膜を叩く風鳴りを抜け、麓の別荘地へ向け降下態勢を取る。


『接触まで三、二、一』

「破ッ!」


 右腕に変じた烏からの、ご丁寧なカウントに合わせるまでもない。我らはもはや感覚すら共にしている。

 眼下には林を拓いた広大な土地に木造の洒落たコテージが散見された。その上空、虚空へと、荒れ狂う風を纏いし拳を打ち込む。

 手応え────有り。


 ぴしり


 それは冬晴れの早朝、霜を割り潰したあの快妙な感触に似ていた。

 夕空の只中、拳の先に亀裂が走っている。あたかも硝子を打ち割ったかの様で、瞬時、破片が舞い散り、飛び荒び。

 開く。穴が。

 不可視の障壁を潜り抜けたその先に、暮れ泥む茜の山麓風景はなかった。

 あるのは、ここに広まるのは異界であった。

 視界を染め上げるのは桃か赤か紫、黒みさえ帯びたこれは、まさに“肉”色の暴力。

 空が、大地が、木々が、山が、色彩の暴虐により塗り潰され、陵辱されている。


「こ、これ……!?」

「こいつぁ淫魔の瘴気か」

『魅了、眩惑、催淫、光と臭気に注意せよ。これらは肉体と精神両面に作用する』


 枯れ枝を踏んで地に降り立つ。

 疎らな木々が立ち並び、その合間より山嶺を仰ぐここは、日がな散策に打ってつけの林道であったのだろう。今や見る影もなし。蔓延するのは趣をぶち壊しにする猥雑な色香。


「っ!? ぐっ、あ、かひゅっ」

「おう坊主、気をしっかり持て」


 一歩、踏み出す間もなく呼吸を乱して少年がその場に崩れる。

 即座、右腕を一振り。


「祓えよ、神風しんぷう一陣」


 右拳の光砡より発する風は、邪気を払い病魔を退ける神威の流れ。この程度の瘴気を無毒化するのは造作もない。

 付近一帯を浄めたことで周囲の肉色が幾らか遠退いた。とはいえ、頭上を覆う結界は未だ赤々と山麓を圧迫している。先程穿った穴すら、今しがた塞がった。


「はぁっ! はぁっ、はぁ、はぁ……」

「大丈夫かい。歩けるな?」

「は、はい……ふぅ、ふぅ、ふ……もう、平気です」

「行くぞ」


 それがただの痩せ我慢であることは一目瞭然で、少年の足取りは重く、淀んでいる。

 息苦しかろうに、しかし、どうしてか不意に少年は笑った。


「……この指輪がなかったら、僕はきっと一秒も正気を保っていられなかった。ホント、一人じゃ何もできない。一人じゃ、メイヤの前に立つことすら……情けない。惨めだよ」

「ハッ、結構なことじゃあねぇか。そいつがあれば、お前さんは正気のまま女の前に立てる。堂々と、胸張ってな。手段を選り好みする楽しみは後に取っておけ」

「……はい」


 行く。林道を歩く。よく見れば足下には飛び石が敷かれている。目的地へのその標を一歩また一歩と辿るほどに瘴気は濃度を増していく。


「刈間くん……その、たとえばの話、なんだけど」

「指輪以外の魔具か」

「……」

「オードの生成量、回復速度、保有限界、反応強度。一口に強化と言っても様々だが、確かにそれぞれに異なる効用を齎すぶつはある。あるいは、それら全てを一挙に叶えちまう欲の張った代物もな……」

「じ、じゃあ……!」

「補助魔具で下駄を履かせたランクでは、渡界審査は通らんぜ」

「……魔界にさえ行けるなら手段は選ばない。魔界にさえ、居られるなら……」

「強力な魔具、呪物には、当然代償を要する。十二分な効用を求めるのならそいつぁ例外なく禁戒の品であろう」

「僕に、僕に払えるものならなんだって払う」

「本来の肉体の性能を超えてオードの生成器官に対して外的な過剰増強を施すならば、肉体、霊魂、双方に圧し掛かる負荷も相応だ。一時、魔界の大気に抗うことは出来るだろうが決して長続きはしまい。お前さんの基礎生成量を鑑みても……三日保てば御の字。七日目には命がねぇぞ」

「…………それでも」

「……そうかい」


 堅く堅く、動かぬ決意がそこにある。生半な脅しなどに覆せぬものが。


「命懸けか」

「……僕には他に、懸けられるものなんてないだけだよ」


 少年はまた、自嘲の気息を吐いた。うんざりと。


「いいや」

「え?」

「見事よ」


 その諦観は実に陰鬱だったが、分際を弁えた心積もりがあった。

 幼く、未熟、しかし確とそこには覚悟があった。


「カッカッ、とはいえ命あっての物種だ。お前さんは恋女房と一緒になりてぇんだろう? ならば生きろ。生きて添い遂げよ」

「で、でも……どうやって」

「道具に頼らず、魔界の環境に耐え得る肉体を得たいと思うなら、修験を積む外あるまいて。相当の回り道だが」

「鍛えれば、僕も強くなれるってこと……?」

「不可能ではない。ただし、一朝一夕に練達するものではないぞ。五年か十年か、あるいはさらなる時を湯尽することになるやもしれぬ」

「……」


 定命の人間種と、半不死の魔族。時間の重みの違いは明白であった。しかしその末期には、両者は共に同等の喪失を味わうこととなろう。

 死は平等に、理不尽に、普く降り注ぐ別離ゆえ。

 少年の目を見る。

 その未来を想像し、揺らぎ、歪み、恐れる目。それら全てを圧し殺して意気地を張り通そうとする、その目を。

 その覚悟の程は、検めるまでもなかった。


「……やります。たとえどれだけ時間が掛かっても」











 林を抜ける。広大な拓地は芝生を敷き詰められ、その奥、豊かな緑の山裾を背にして二階建ての豪勢なコテージが建っている。傍には整備された小川が流れ、アーチ状の石橋がそれを跨ぐ。

 都会の喧騒から遠く、自然豊かな景観に囲まれたまさに別荘地。

 ウッドデッキから庭先には、レース地の白いクロスを広げた長テーブルが数卓。卓上には所狭しと料理やデザート、フルーツ、飲料が居並ぶ。流行りのピンチョス仕立てなケータリングかと思えば、プロパンや水道を引いた調理スペースと思しいテント設備が見える。

 さぞや豪奢な立食パーティーが企画されたのだろう。是非、御相伴に与りたかったものだ。

 だが、もはや叶わぬ。ここは今や────死屍累々。

 其処彼処で、異種人間種合わせて数十の女男が力なく倒れ伏し、身動き一つ取らない。

 死屍などと表したが、無論のこと人死にの有無は知れぬ。この瘴気に当てられたゆえの昏倒なら即刻命を落とすようなことはあるまい。が、それも、迅速な処置あればこそ。

 右拳を打ち出す。風を解き放つ。

 周辺一円を薙ぎ払い、さらに前へ、瘴気の中心へ。


「ずぁあっ!!」


 黒く昏い気を放つもの、それは一人ぽつりと佇んでいた。

 その娘。黒いフィッシュテールのパーティードレスを纏い、腰部から翼膜を生やし側頭部より歪曲した角を頂く、魔族の女。

 淫魔の。


「メイヤ!?」


 純粋な風力により進突する空気の砲弾。それは過たず、少女の身体に直撃した。

 その体躯、見当で体重50kg程度と思しい。今の一撃には娘子を軽々吹き飛ばし昏倒させてなお余りある威力を込めた筈。

 しかして、娘は不動。その身に風のうねりを受けて、ほんの僅かにたじろいだ様子もない。精々がスカートの裾を残り滓のような微風が撫でた程度。

 己の暴挙に当然、少年は驚愕と怒りを発した。


「か、刈間くん!」

「あぁあぁ文句なら後で幾らでも聞いてやる……糞ったれめ。あの娘御、手練手管は無論、覚悟の据わり方までお前さん以上らしい」

「え……?」


 ゆっくりと、娘がこちらに向き合う。首元から肩口を晒すドレスの襟、フリルを豊満な乳房が押し上げている。そう、その左胸の上に。

 極彩色の、その石が埋まっていた。

 少女の柔い肉を抉り、その白い皮膚の下を、石を中心に無数の根が走っている。


「殺生石を肉体に埋め込みおったか……戯けが!」

「メイ、ヤ……」

「…………ぁ」


 呼ばわりに、娘は反応を示した。如実に、瞭然に、花が咲き誇るような笑みで。


「ケンくんだぁ」


 うっとりと蕩ける。瞳に妖しげな光を宿し、視線は一心、専心、たった一人を見詰め捕えて、放さない。


「あぁケンくん、ケンくん、ケンくんケンくんケンくんケンくんケンくんケンくんケンくんケンくん、来てくれたんだね」

「メイヤ、それは……」

「これ? ふふふ、そうこれ。これはね。私達の希望だよ」

「き、希望?」

「そう。そうだよ。そうなの。これがあれば私達は一緒になれる。一緒に、永遠になれる。何にも邪魔されない。誰も邪魔できない。世界も。魔界も人界も超えて、私達だけの世界を手に入れられる。あはっ、素敵。素敵だねケンくん。これでやっと、やっと、あははは、あはははははははははははははは」


 高らかな哄笑だった。心からの喜びを娘は謳っていた。狂おしいほどの一途さで、少女は少年との未来を悲願していた。


「この人達は、メイヤが……こうしたの?」

「うん! この力を使う為には私のオードだけじゃ足りなかったから、いっぱいいっぱい必要だったから、頑張って集めたの。少しずつ、外特や他の奴ら……母に、ばれないように、少しずつ少しずつ、腕輪を使って集めた。自分達のオードが削られてるとも知らずに、ブランド物ってだけで釣られるバカな淫魔や魔獣共は扱いやすくて助かっちゃった」

「…………」


 とても晴れやかな顔で少女は己が犯行を宣った。子供が無邪気に、親の褒め言葉を期待するかの様相である。

 少年は絶句した。そのあまりの迷いの無さを、理解できずに。

 少女の視線が流れ、自身の周囲に散らばるものを、自身が手ずから招待した客の横たわる姿を見るともなしに見る。少年に向けたものとは打って変わった熱量絶無の瞳、冷え冷えとした眼。


「出会い? フォーリナーズパートナー? 異種カップルの奨励事業? 独り身の人間の男が来るかもって仄めかした途端こんなにぞろぞろたかってきた。ぷっ、ふふ、バカみたい。バァァァァカ。くふ、ふふふふふ……淫魔なら男を手玉に取るなんて簡単でしょ、だって。都合のいいセフレ紹介してよ、だって。淫魔なら、大悪魔の貴族様なら、それくらい訳ないでしょ、だって? ふ、ふふふ……ざけんなよ」


 顔面から、色が失せる。表情いろが消え去り、代わりに虚無うろが現れる。少女は能面よりなお無機質な貌で、その薄紅の口から憎悪を吐いた。


「淫魔だからなんだ。貴族だからなんだ。そんなもので勝手に決め付けるな。私を規定するな」

「メイヤ……」

「ケンくん……ケンくんだけだよ。淫魔のメイヤノイテでもない。貴族のマスティマでもない。ただのメイヤを、ただの私を見てくれる人。あなただけ。ケンくんだけ。ケンくんだけでいいの。ケンくんだけが私の全てなの…………見境の無いお前ら淫売とは違うんだよぉ!!」


 絶叫が天を衝く。それは現実に衝撃を伴って、山を覆う結界すらも揺るがせた。

 そして、その手に光を掲げた。それは妖力。純正無比の、破壊の力。

 跳躍する。娘がその手を翳す先、倒れ伏す諸々の前に躍り出る。

 光が奔った。鋭く、大気を貫きながら迫り来る。


「はっ……!」


 横合いからそれを殴り飛ばした。風によって障壁を構成したところで、もはや防ぐことも叶わなかったろう。

 弾かれた妖力の塊は真っ直ぐに雑木林へ着弾し、爆轟に霧散しながら大量の木々と土砂を巻き上げた。


「お前……刈間ギンジ」

「ほう、すっかり眼中にないものと思っていたが、見知り置いてくれておったとは。カカッ、嬉しいね」

「メイヤ! もうやめよう! こんなこと!」


 少年の声に耳を傾けながら、少女はこちらから片時も視線を逸らさなかった。力に酔った者の振舞いに非ず。隙無しの構え。

 増幅された渇望、暴れ狂う願い、それを叶える為に自身を最適化している。先の過激な言動も今の暴挙も、一瞬のに過ぎない。

 この女子おなご、なかなか厄介だ。


「帰ろう一緒に! 僕が間違ってた。僕が、バカだったんだ。君と離れ離れになることに、怖気づいて、耐えられなくて。引き離されるくらいならいっそ……別れようなんて、言った」

「…………」

「でももう諦めない。絶対に君を諦めたりなんかしない! 会いに行く。迎えに行くよ。魔界に。どれだけ時間が掛かっても、どんな苦しいことも耐え抜いて、君と一緒になる。そう決めたんだ!」

「…………ケンくん」


 薄く笑みを湛えて娘は吐息する。感極まった悦びが滲む。


「嬉しい……嬉しいよぉ、ケンくん。そんなにも想ってくれて、メイヤはとっても幸せです」

「なら!」

「でもダメ」


 優しげな囁きが少年の必死の叫びを切り捨てた。


「ダメなの。もう一時だって、一瞬だって、私はケンくんと離れたくないの。傍にいて欲しいの。この体に触れて欲しいの。キスして、思い切り私を抱いて……誰にもその邪魔はさせない。何にも、世界にも時間にさえ阻ませない」


 虹彩が尖る。ネコ科のそれに近く、天と地ほども隔絶した瞳。異形、化物の眼光。


「邪魔するものは、私とケンくんを邪魔立てするものは……」


 娘の万感の憎悪が、己を刺し貫いた。


「お前か、刈間ギンジ。お前が、ケンくんを唆したんだな」

「な、なに言ってるんだ、メイヤ」

「お前、お前ぇ……! 許さない。私からケンくんを奪うものは、何一つ! 全部、許さないぃ!」


 娘がその場に蹈鞴たたらを踏む。顔を手で覆い、呻く。喘ぐ。苦しげに、まるで何かに耐えている。身の内より何かが肉を抉り皮を破って外へ、この世へ這い出てくる痛みに。


「うぅ、ぐぅぅううう、いっぎぃいぃえぁああ……!!」

『妖力の空間飽和許容限界を超えた。実体化する!』

「メイヤ!!?」


 石の発する極彩色、漂い蔓延するばかりだった怪光が、その全てが結実する。結晶となり、物質と成る。氷点下の大気に昇華したダイヤモンドダストの如く、それらは玉虫色に輝きながら粒子を為し、砂状に縒り、石礫へ固まり、無数に舞い上がる。

 それらは群体の生物のように娘の体を押し包んだ。

 逆巻く。頭上高く、限りを知らず結晶は生まれ、また群体へ加わっていく。天を撫でるまでに肥大した結晶の嵐は、しかし徐々に収斂し、凝固を始めた。

 カタチを取り始めた。

 指となり、腕を伸ばす。六本三対の両腕。

 黒い翼膜、黒い羽、二種六枚三対の両翼。

 嫋やかな体つきは間違いなく女のそれ。豊かな乳房、引き締まった腹と形の良い腰骨……そこから伸びる蛇。無数の蛇。黒々とした鱗状の皮膚が光沢を放つ。蛇、蛇、蛇の下半身。


『アァアァアアァアアアアアアアア!!!』


 歪曲した二角を頂く魔なる女。桃色の髪を振り乱し、体高百尺にも及ぶ巨大な魔人が咆哮する。

 黒いベールの下、その顔容を窺い知ることはできない。しかし、薄布の向こうから凝然と、怪光を放ってこちらに突き刺さる視線がある。それは憎悪の槍だった。

 右腕を構える。


『オ前ハ邪魔ダ! ココニ居ルバカ共諸共ニ消シ去ッテヤル!』

「まったく……」


 魔人は巨大な口腔を開き、極彩色の光を凝集する。先と同じ、何の工夫もない破壊の力の放出。絶大甚大の威力にそも工夫の必要などあるまいが。


「仕様のねぇお嬢ちゃんだ」


 腰を沈める。


『なっ、受けるつもりか!?』

「受けねばこの場の皆が死ぬ」


 烏の至極真っ当な驚愕を聞き流し、丹田にて回し満たし、拳へ、右拳の光鈺へと気を練り上げる。

 頭上から降ってくる。光が。

 拳を打つ。瀑布を、打ち止める。

 衝撃、重圧、大気を、空間を吹き飛ばす破壊。

 芝生が捲れ上がり、周囲のあらゆる物が、人が魔が、光とこの拳との衝突の余波によって吹き払われていく。


「ぐぅうおおおおおおおおッ……!!」

『受け、切れぬ! やはり略式では……!?』

「わかっている!!」


 剥き出しの土に足が沈む。

 拳、右腕、肩から脊椎、胴体から両足。全身の筋骨が軋む。

 土塊として挽き潰されるまでもうあと僅か。その寸前に────風を手繰る。

 上空から降り注ぐ光の瀑布に抗して、ではなく。

 己の足元から前方へ。風が爆ぜる。


「がっ!!」


 身体は跳ねたゴム毬のように後方へ飛ぶ。未だ放たれる光の奔流を引き連れて。

 背中が何かを打ち破った。木製の壁、柱、扉に窓。

 豪奢なコテージが一軒、跡形もなく粉砕された。












 土煙を上げ、抉れた地肌を晒す大地。建物の名残はおろか地形すら変えた惨状。

 それを為さしめた魔人は天地を裂かんばかり笑った。愉快、愉快、と笑った。


『ハハハハハハハハハハッッ! ハハハハハハハハハハハハハッ!』

「メイ、ヤ……メイヤ……なんて、なんてことを……」

『ハハ、ハハハハ……ハハァ、ケェンクン』

「!?」

『一緒ニ、行コウ』


 ベールの下の眼玉が少年を捉え、同時にその下半身の蛇が左右に分かれる。

 それは股座の合間に空いた肉の壺。さらに無数の蛇達が群生する、魔人の秘所。

 蛇は触手の如く少年に群がり、絡み付き、その身を容易く捕えた。


「ひっ! ひぃっ!? メイヤァァアア!!?」

『オイデ、サア、愛シイ人』


 最も弱く柔く、そして最も熱い己の最奥へ、愛する少年を迎え入れる。肉の宮に引きずり込まれ、その悲愴な叫び声さえ消えて失せる。

 山麓の平原に束の間、静寂が戻った。


『ンッ、ンアァ、ケンクンノ味ダァ……シバラク私ノなかデ眠ッテテネ。目ガ覚メタ頃ニハ着イテルカラ。私達ダケノ世界ニ、私達ダケノ理想ノ場所ニ』


 魔人は頭上を仰ぐ。空よりもなお高き場所、遠い異なる場所を。

 空間に歪みが生ずる。蜃気楼のように大気が揺蕩い、それは渦を巻き、その中心に穴を捻じり開ける。次元境界の穴。そしてそれは魔界でも人界でもないところへ繋がっている。虚数に近しく負極のさらに向こう側。

 ここではないどこかへ。


『行コウ。ココジャナイドコカヘ。イツマデモ一緒ニ! ドコマデモ一緒ニィ!!』


 手を伸ばせばほら、すぐそこに、新たな未来が────


「そんなものはない」

『!?』


 冷厳と放たれた言葉に振り返る。

 瞬間、光が眼を焼いた。


『清め給え、祓い給え。御魂おおいし業のかげ。塗れ染まりしや現世うつつ汚穢おあい……』

「その先に待つは塵も残さぬ破滅のみ。生命霊魂一切を殺し尽くす、破滅のみ」


 光は輪だ。それは見知らぬ幾何学的文様により形作られた巨大な円環。

 抉れた大地の中心に広がり、その真円の前に一人の男が立っている。


『ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、ここの、とお。みなかにむすび、とこたちて、ふるえ』


 朗々と謡われるそれは明らかに何らかの術式行使。完成させてはならない。絶対に阻止せねばならない。

 極大の恐怖でそう感じる。そうしなければ、きっと、それはもはや。


『消エロォォォオオオオ!!!』


 絶叫と共に口から力を吐き出す。先の幾倍、幾十倍にもなる極彩色の暴流。

 大地が抉れて消える。山に穴を穿ってなお止まらない。結界は砕け散り、夜闇の帳に唾するかのように光で全てを蹴散らす。

 この殺意を疑わない。全てを殺す思いで、覚悟で、ここに来た。ここに至るまでの罪業を不遜に積み重ねてきた。

 殺す。殺す。殺す。私と彼の未来を認めぬもの、邪魔するもの、それがたとえ────実の母であっても!

 殺意と憎悪の奔流に削られた大地。そこに。

 男は立っている。光の円環を背にして、そこに在る。


『ッ!? ナンナノ、ナンナノヨ、オ前…………オ前ハ、ナンダァッ!?』


 真円が男を包み込む。その虚無の鏡面へ、怖気を覚えるほどに透き通った光の水面に、男を覆い尽くして。

 消える。男の姿が。

 刹那、“ソレ”は顕現した。


 ────銀の鎧


 武骨、剛強、暴力の化身、それはそういうカタチをしていた。

 全身を覆い尽くす重厚な装甲。鬼神の如き凶相の鉄仮面。額と側頭部より伸びた鋭い五角。そして両拳と両膝、胸の中央、それぞれ五ヶ所に埋め込まれた五つの光鈺。

 威容。この世ならざる強烈な存在感。皮膚を炙られ、裂かれるような覇気。

 こんなものが、人界に存在するという極大の違和。

 しかし。

 しかし、私は、これを知っていた。記憶野の片隅にある。その姿を歴史の資料、あれはそう、文献のコピーだった。古びた本の一ページ

 そこに描かれていた。記されていた。

 神造兵装。









 人を、魔を、その心を惑わし貪る悍ましき異形。怪しき力を打ち滅ぼす為。

 天なる神が鍛え、地なる神の骸が纏い、人の霊魂こころが揮いしはがね

 其は、称して。


怪滅神甲かいめつしんこう!」


 拳を打ち、地を踏み締め、謳い上げるは宿命の名。神に選ばれし戦人の名。

 我が名は────


「ダイダラァアアアアア!!」








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