第15話

 西日の眩い大講義室で、呆然と蹲る少年を見下ろしている。

 その貌、その目を知っている。微かに差した希望を剥奪され、重い現実を一度ならず知らしめられた者の様。

 絶望に片足を浸けて、あとは沈みゆくを待つばかりの。


「彼女は、魔界に帰るんです」


 出し抜けに、ひどく投げやりな調子で少年は言った。それが如何にしても、どうあっても、動かし難い事実であることに深く諦めて。


「マスティマは魔界の、大悪魔の系譜に連なる貴族で、人界のマギケイブ学園に来たのも本当にただの純粋な留学で、永住なんて微塵も考えてなかった……そう、メイヤは言ってた」

「だが、お前さんと出会って心変わりした」


 こちらの相の手に少年は一瞬驚いてから、くしゃりと笑った。痛みを堪えて泣き出す寸前のような、不恰好な笑みだった。


「今でもわからない。どうして僕なんかと付き合ってくれたのか、僕なんかを……好きだって、言ってくれたのか。どう考えたって釣り合ってなかった。由緒ある貴族出の美少女で、運動も勉強も人柄も、全部完璧だった。僕には高嶺の花よりもっと高いところにあるような存在だった。世界が違うって、思った。なのに……」

「……」

「実は結構見栄っ張りなんです、あの娘。外面よく振舞ってるけど、部屋だと意外にだらしなくて。掃除は苦手じゃないけど、好きじゃないってサボるから、仕方なく僕が……一人で何でも出来ちゃうのに、一人にされるとすごく怒るんです。出掛ける時は必ず呼ばれて、どこへ行くのも一緒で……寂しがり屋なところが、どうしようもなく可愛くて」


 肩を竦めて鼻から笑う。やにわに始まった少年の惚気話を笑い飛ばすのは容易いが。

 少年にとって、それらは一様に思い出だった。終わったことなのだ。決して戻らぬ幸福であると重々に承知して今、順々に、噛み締めている。


「……彼女の母親に言われたよ。『娘の遊び相手になってくれてありがとう』って、丁寧に菓子折りと……お金も押し付けられた」

「手切れ金って訳か」

「もしくは脅し、かな。ふふ、いや、違うかな? 僕なんて歯牙にも掛けられてない感じだった。今時珍しいくらい人間を見下してる……これもちょっと違うか。家畜とかペットに近いよ。あの目は当分……」


 ────これで、どうか身の程を弁えてくれることを願っています


「忘れられない……」

「それで、おめおめ引き下がったのかぃ」

「っ! 簡単に引き下がれるわけない!! 僕は、僕だってメイヤを! メイヤのこと……!」


 激憤に身を乗り出すも、しかしそれを圧し殺して少年は歯を食い縛った。


「メイヤは人界に居られない。在留の許可も期限も彼女の母親が決めることだ。魔界に連れ戻されるのを僕には止められない。なら、僕が魔界に行く! メイヤに会いに行く! メイヤの母さんを説得する! 何度撥ね付けられても何度追い出されても、死んでもっ!!」


 それが口先だけの覚悟なら、この少年はここにはおるまい。

 諦めることが出来なかったのだ。ゆえに、思い違えてこんなものに手を出した。

 小袋に収まったこの玉虫色の砂に。

 少年は再び項垂れる。


「……魔界への渡界条件、知ってますか?」

「まあ、色々だ。年齢、職業、犯罪歴、病歴、思想に精神性、そして」

「オードの生成量。渡界できるオードランクは最低でもB-。でないと、魔界の大気に満ちる濃密なオードに人間の体は耐えられない…………僕のオードランクはEだ」


 それは実に、歪んだ笑みだった。腹の底で煮える黒々としたものが顔の皮膚を彩っていく。


「理論上の最低値。医者にも驚かれた。今の世代でこんな数値は見たことないってさ! はっ、あはははははは! ははっ、は、ぁ……」

「こいつは、何処で見付けた?」


 からからに渇ききった笑声が途切れた頃、問う。脅しすかすような語気ももはや必要はなかった。

 とつとつと少年は口を開く。


「メイヤの部屋の、化粧室……化粧台の上に小さな木箱があって、その周りに散らばってた。才能皆無の僕でもわかったよ。これは、この砂、砂みたいなをしてるこれは、きっととんでもなく恐ろしいものだってことが。見ているだけで、眼球が炙られそうだった。全身の神経で危険を感じた。それくらい凄まじい力を秘めてる。力を。力……僕が、今、喉から手が出るほど欲しいものが、そこにあった。だから」

「なるほど、他人からオードを奪っていたなぁ、こいつの力を引き出す呼び水にする為か」

「……そうです。僕のカスみたいなオードじゃ、使うどころか肉体を蝕まれないよう抵抗レジストできるかもあやしかった」


 殺生石は一定の“刺激”を受けることで爆発的な反応を起こす。それは文字通りの爆発を引き起こすこともあれば、全く別種の、世にもおぞましやかなカタチで顕現することもある。

 刺激とは、力である。

 魔力、気力、仙気、精気、法力、妖力、他数多、それら世の理に根を張る種々のエネルギーを与えたなら、あの石はそれを糧に、それに千倍する力を放出するだろう。

 そして刺激とは……心である。

 精神活動、感情、魂の営み、情念、堪え難く表出するその情動。心を貪った時、あれは真に無際限の肥大を始める。


「カッ、とんだ似た者夫婦だよ。お前さん方ぁ」

「え……?」

「お前さんの恋女房も、同じことをしてるってぇ言ってんのさ。お前さんよりも手広く、遥かに悪賢くな。貴族の御令嬢とはいえ何故あんなものがあったか疑問には思わなかったかい? 宝石箱に納めるにしちゃあまりに、剣呑な代物だとは」


 少年の目に怯えが走る。取り返しのつかいない何か、その到来か、喪失を予感して。

 その予感は正鵠を射ている。残酷なまでに凄惨な未来を確約する。


「もしその娘が収集した多量の呼び水オードを殺生石に注ぎ込めば、溢れ出す力は周囲一帯を巻き込み、そこには虚無だけが残る。虚無だけが」

「…………」


 少年は絶句した。その呼吸すらも止めた。顔から色が抜け落ちていく。絶望が彼の細い喉元に満ちていく。


「何としても止めねばならん」

「ど、ど、どうしたら。僕、僕は、あぁメイヤが、メイヤが、メイヤ、メイヤ、そんな、どうして、メイヤぁ……」

「戯けぇ!!」


 怒声が講義室を反響する。教師が大勢を相手取り声を張るのと同様かそれ以上の覇気で、ただ一人の教え子に向けた大音声。

 引き攣った音色を響かせながら、それでも少年は譫言を飲み込んだ。


「めそめそと見苦しいったらありゃしねぇ、小僧が。泣き言吐いていられる刻限はとうに過ぎ去った。悔いも恥ずるも後にしろ。もはや一刻とて猶予はない」

「ひ、ぃ、ひぃ」

「言え。手前の女は今、何処にいる。好いた女をむざむざ死なせたくねぇなら、とっとと吐きやがれぃ!」


 ぱくぱくと口を開閉させること一拍、浅く息を吸っては吐き、恐怖に粘ついた唾を飲み下すのにもう一拍。

 少年は、絞り出すように言った。


「南部町の、ミヤオ山、そこの麓の別荘地にコテージがあって、今日そこでパーティーを開くって……」

「パーティーだぁ?」

「FPの時期になると時々あるんだ。まだ相手の見付かってない人間や魔物の為に、淫魔の自分なら良い橋渡しになれるからって……そう……そうだ。僕は、後から来るように言われてた。『準備』ができたら、連絡するからって……!」

『ギンジ!』


 その時、念を頭蓋に受け取る。音に依らぬ声はしかし、予想よりも近く、今なお近付きながら聞こえてくる。

 窓に駆け寄り開け放った。思った通り待ち人は黒翼を閉じて茜の空から急降下してくる。


「ほとほと絶好の機よ。略式手甲!」

『承知。清祓一十。奮え』


 黒い陰影が歪曲する。それは真円の鏡へと変化へんげする。

 降り来る神鏡へ拳を突き入れた。それは前腕に喰らい付き、真実腕の骨肉を一片残さず平らげた。

 痛覚の暴虐を意志力にて握り潰し、銀の手甲の拳を握る。拳に埋め込まれた光鈺に深緑の力が渦を巻く。

 握り固めた風に乗らんと、窓から身を乗り出す寸前。


「ま、待ってください!」

「ん?」

「僕も、僕を連れ行ってください! お願いします!!」


 背後を見やれば、そこには深々と下げられた少年の頭、その旋毛がある。

 そうして少年は顔を上げた。必死に堪えるその震えは如何なる理由か。恐れ、怯え、劣等感、罪悪感、無力感、それら諸々の綯い交ぜになった混濁の目。一時とて一定としない混乱の目。

 しかし、そんな惑うばかりの瞳であるのに、ほんの一筋差し込む光明がある。


「メイヤを止めたい……僕が、メイヤを止めなきゃ。止めなきゃダメなんです!」

「おう、ならさっさとこっち来て掴まれ」

「勝手なことを言ってるのはわかってます。でも、僕がっ…………へ?」

「そら、時間がねぇぞ」


 戸惑う少年の十全な理解を待たず、手を後ろ腰に回しベルトを引っ掴む。


「お前さんの操る翼竜ほど快適にとは行かんでな。舌噛むなよ」


 無責任に言い放ち、拳に力を込める。

 と、なおも目を瞬いてこちらを見上げる少年の面に、口の端で笑みを放った。


「女はこえぇぜ。根性見せろよ、ケンくんよぅ」

「……はい!」


 腑抜けから打って変わった良い返事に頷く。

 拳を打ち、風に弾ける。夕空に砲弾の如く打ち上がり、一路目指すはミヤオ山。

 遠間に見える山肌に、淀みと歪みが霞のように垂れ下がっている。空間の歪曲、それは紛うことなき次元の綻びであった。









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